賀曽利隆 STILL ON THE ROAD !

世界を駆けるバイクライダー・賀曽利隆(かそりたかし)。地球をくまなく走り続けるカソリの”旅の軌跡”をまとめていきます。

カソリと走ろう!(11)「韓国縦断バイク旅」

(『モーターサイクリスト』2006年1月号 所収)

 

バイクで韓国に行けるようになった。これはすごいことだ。我らツーリングライダーにとって韓国が身近な国になった。さっそくカソリ、大きな期待を抱いて自宅前から愛車で走り出し、「韓国縦断」へと出発した。

 

「さー、釜山へ! 行くゾ~!!」

 2005年10月8日の朝、神奈川県伊勢原市の自宅前で愛車のスズキDR-Z400Sにまたがると、西の空に向かって大声でそう叫んでやった。

 

 ツーリングへの旅立ちで、これほど高揚した気分になることもそうはない。期待で胸がいっぱいに膨れ上がり、秦野中井ICで東名に入っても、「釜山へ、釜山へ」と何度も「釜山」が口をついて出た。まわりを走っている車、1台1台に、「これから、このバイクで、釜山まで行くんですよ~!」といいたくなるような気分。

 

 東名→名神と走りつないで大阪へ。大阪では鶴橋のコリアンタウンの食堂で冷麺を食べたが、韓国ツーリングへの期待がいやがうえにも盛り上がる。韓国では徹底的に韓国食を食べ歩くつもりだ。

 

 大阪のコリアンタウンの冷麺に大満足したあと、大阪南港19時10分発の名門大洋フェリー「ふくおか2」で新門司港へ。翌朝の8時には新門司港に着いた。まずは九州最北端の岬、部崎に立ち、午前中は北九州をまわった。そして関門海峡を渡り、昼過ぎに関釜フェリーの出る下関港国際ターミナルに到着。いよいよ釜山が間近になった。

 

 2005年5月、韓国へのバイクの持ち込みが解禁された。これは歴史的な出来事といっていい。韓国は「近くて遠い国」とよくいわれるが、我らツーリングライダーにとっては「とてつもなく遠い国」だった。韓国にバイクを持ち込むのは至難の技だったからだ

 

 それがこの歴史的な解禁によってパスポートと国際免許証、バイクの国際登録証を持てば、日本のナンバープレートそのままで、下関港から関釜フェリーに乗り、バイクともども韓国の釜山港に渡れるようになったのだ。新たな海外ツーリングの幕開け。新たな時代の到来だ。「ちょっとそこまで」という気軽さで海外ツーリングができるようになった。

 

 東京の旅行社「道祖神」はそれを記念し、「賀曽利隆と走る!」シリーズの第11弾目として「韓国縦断」を企画した。

 

 集合場所の下関港国際ターミナルには、参加者のみなさんが日本各地から次々にやって来た。最年長は73歳の松浦善三さん。山形県東根市からGL1500のサイドカーで1400キロ走っての到着だ。松浦さんは「一生に一度は自分の家から海外にバイクで行くのが私の夢だったんですよ」と熱く語った。マジェスティーの島田利嗣さんは62歳。一緒に「南部アフリカ」、「サハラ縦断」を走った仲間。東京から日本海ルートで、2泊3日のツーリングを楽しみながら下関に到着した。

 

 旧車XLRバハの新保一晃さんとは「カソリと走る!」シリーズのうち「ユーラシア横断」、「アラスカ縦断」、「南部アフリカ」、「サハラ縦断」を一緒に走っている。XRバハの伴在哲さんとも、「サハリン縦断」、「ユーラシア横断」、「南部アフリカ」を一緒に走った。セローの椋原眞理さんは母親だとは思えないほど若く見える。児玉真喜子さんはタンデムでの参加。こうして全部で11台のバイクと「道祖神」の菊地優さん、女性通訳の国定富さんの総勢13名で「韓国縦断」を走るのだ。

 

 下関港での出国手続きはスムーズに終わった。関釜フェリーの職員が我々を案内してくれたのだ。イミグレーションではパスポートに「KANMON(関門)」の出国印が押され、カスタム(税関)ではバイクの一時輸出入申告書に下関税関の輸出許可印が押された。いよいよ関釜フェリーの「はまゆう」(1万6187トン)に乗船。「はまゆう」は定刻の19時に下関港のフェリー埠頭を離れていく。さっそく自販機の500mlの缶ビールで参加者のみなさんと乾杯。無税になるので1本220円!

 

「はまゆう」は玄界灘を釜山港を目指して北西へと進む。冷たい風に吹かれながら甲板に立つと、暗い波間に漁火が点々と見えた。それは「おー、何だ何だ、あれは」と声が出るくらいの異様な明るさ。波の荒い玄界灘なので船はけっこう揺れた。まったく船酔いしない「船旅大好き」のぼくにとって、その揺れはなんとも心地のよいもので、ぐっすりと眠れた。

 

 揺れがおさまったころ目がさめた。時間は午前2時。窓の外を見ると、まばゆいばかりの釜山の町明かり。「はまゆう」は釜山港の港外に停まっていた。すぐ近くには五六島の灯台の灯。関釜フェリーの下関から釜山までの正味の航行時間は8時間ほどでしかない。

 

 翌朝、8時に「はまゆう」は釜山港のフェリー埠頭に接岸。岸壁にDR-Z400Sで降り立ったときは

「やった、ついに釜山に着いた!」

 という気分。釜山港でもそれほど時間がかからずに入国手続きを終えた。税関を出て、国際フェリーターミナル前に11台のバイクをズラズラッと並べたときは、何か、晴れがましい気分になるのだった。

 

「道祖神」の菊地さんと通訳兼ガイドの国定さんの乗った車の先導で、我々は釜山を走りはじめる。バイクに乗りながら、大通りのハングルの看板やヒュンダイ、デーウ、キアなどの韓国車を見ると、海を渡って韓国にやってきたという実感がする。釜山名物の渋滞にはまると、手を振ってくれたり、

「イルボン(日本)か?」

 と、声をかけてくれる人もいる。11台のバイクの列はじつに目立つのだ。

 

 韓国第2の都市、釜山を走り抜け、国道14号に入ったところでぼくが先頭を走り、車が最後尾についた。バックミラーに映る10台のバイクの長いラインに胸がジーンとしてしまう。

 

 国道沿いの食堂で昼食。記念すべき「韓国縦断」の第1食目。ここでは「ソモリ・クッパ」を食べた。牛の頭でダシをとったという白っぽい色のスープ。その中にご飯が入っている。辛味はまったくない。濃厚な牛のエキスが舌に残る。日本でもおなじみのクッパだが、これはまさに韓国食。韓国ならではのクッパにうれしくなる。

 

 韓国最大の財閥、ヒュンダイの企業城下町、蔚山からは国道7号を北上。慶尚南道から慶尚北道に入る。新羅の都、慶州では仏国寺や古墳公園、東洋最古の天文台の「瞻星台」を見てまわった。

 

 釜山から150キロの浦項で泊まった。夕食は焼肉パーティー。ビールや焼酎を飲みながらうまい焼肉を腹いっぱい食べた。これぞ韓国。みなさんとの話もおおいにはずむ。翌朝はホテルの6階の部屋からすばらしい日の出を見た。浦項は製鉄の町。世界でも最大級の製鉄所(POSCO)の高炉を赤々と染めて朝日が昇った。

 

 浦項から海沿いの国道7号を北上。蔚珍を過ぎたところで慶尚北道から江原道に入る。国道沿いの食堂で昼食。ビビンバを食べた。日本と違うところは具の入った器とご飯の入った器が別々に出てくることで、自分でご飯を入れ、かきまぜて食べる。器も箸も匙もすべて金属。この金属製3点セットが韓国の食文化を象徴している。

 

 三陟、東海、江陵と通り、38度線を越え、釜山から450キロの束草に到着。夕食は名物の海鮮料理。食後、漁港近くの露店を歩き、イカやエビのフライを肴にみなさんと焼酎を飲む。うま~い!

 

 束草では海辺のホテルに泊まった。翌朝は日本海の水平線に昇る朝日を見た。朝食はホテルの近くの食堂。ご飯と干しダラ入りの汁のほかにキムチやメンタイコ、塩辛、ノリなど全部で9品のおかずが出た。これらは食べ放題。最高にうまい白菜のキムチも何度もおかわりできるのが韓流だ。

 

 束草から国道7号をさらに北へ。杆城を通り、釜山から520キロ走り、ついに韓国最北端の高城統一展望台に到着。すばらしい天気で展望台から朝鮮半島第一の名山、金剛山の峰々が一望できた。澄みきった秋空を背に、主峰群がくっきりと見えた。

 

 金剛山の分水嶺を境にして西側は外金剛、東側は内金剛といわれ、その山並みが海に落ちたところが朝鮮半島随一の海岸美を誇る海金剛になる。これらはすべて北朝鮮側。高城統一展望台から北朝鮮側を見下ろしながらぼくは「次は北朝鮮一周だ!」と、新たな旅への夢を見るのだった。

 

 釜山への帰路は三陟から内陸に入り、太白、英陽、青松と通って浦項へ。浦項からは迎日半島に入り、韓国本土最東端といわれている岬に立った。ここには灯台と奇妙な手のモニュメント。だがほんとうの最東端の地はこの岬よりももっと南。我々はGPSで計測してその地点に立った。

 

 こうして釜山に戻ったが、高城統一展望台までの往復は1178キロになった。釜山港の国際フェリーターミナル内のレストランでカルビとプルコギの肉料理をたらふく食べ、帰路の「はまゆう」では盛大なビールパーティーだ。

 

 下関港でみなさんと別れると、ぼくは1人で日本海ルートを走り、益田、浜田、松江と通り、倉吉で1泊した。さらに鳥取から敦賀へ。敦賀でもう1泊し、北陸道→名神→東名と高速を走り東京へ。新宿のコリアンタウンの「韓国食堂」でビビンバを食べ、「韓国縦断」の旅を終えるのだった。