賀曽利隆 STILL ON THE ROAD !

世界を駆けるバイクライダー・賀曽利隆(かそりたかし)。地球をくまなく走り続けるカソリの”旅の軌跡”をまとめていきます。

『世界を駆けるゾ! 40代編・上巻

第1章 サハラ往復縦断

40歳を目前にして急速の衰えた体力と気力

「世界を駆けるゾ!」を合言葉に、20歳のときに旅立った「アフリカ一周」以来、バイクで世界の6大陸をまわりつづけてきたぼくだったが、30代の後半になったころから急速の体力の衰えと気力の衰えを感じるようになった。

 それを象徴するかのような出来事があった。

『世界を駆けるゾ! 30代編』で詳しく書いた「南米一周」を終えた翌年の1986年1月のことで、ぼくはそのとき38歳だった。

『世界を駆けるゾ! 20代編』でふれた日本観光文化研究所(観文研)の先輩、山崎禅雄さん、三輪主彦さんと一緒に東北をまわろうと、ひと晩、福島県郡山市の駅近くの安ホテルに泊まった。ベッドには毛布しかなく、安宿だから仕方ないかと我慢し、寒さに震えながら寝た。山崎さん、三輪さんは賢い人たちなので夜中に着込み、それほどの寒さを感じることもなく夜明けを迎えたという。ところがぼくは着込むこともなく、寒さに震えながら夜明けを迎えた。そのせいで、朝起きるとのどは痛いし、せきはでるしで、すっかり風邪をひいてしまった。部屋をよく見ると、なんとエアコンがあるではないか‥‥。それに気がつかずに寝てしまったのだ。

 そのときは郡山でレンタカーを借り、ぼくが運転し、山崎さん、三輪さんの話を聞きながら旅をつづけた。何日かの東北の旅の間中、ぼくは「ゴホン、ゴホン」とやっていた。 その風邪がなかなか治らなかった。

 東北から帰ると、風邪が治らないまま、岡山の吉備高原、四国の金比羅、信州の秋山郷、四国の佐田岬吉野川流域、紀伊半島と日本国内をバイクや列車でまわった。春になっても風邪は治らない。妻には「あなたって、いつも、風邪ひいているのね」と、バカにされる始末だ。その風邪をすっかりこじらせてしまい、とうとう熱が出た。体力だけには自信のあったぼくだが、我慢できずに、神奈川県伊勢原市の我が家に近い「坂間医院」に行った。病気で医者に行くなんて、その前がいつのことだったのか、思いつかないほどに久しいことだった。その風邪は結局、夏までつづき、自分の体の持つ復元力が衰えてしまったことを思い知らされた。

 ぼくは自分の体力にすっかり自信をなくし、9月1日の39歳の誕生日を迎えた。

 30代もいよいよ最後。目前に迫った40代に恐怖感すらおぼえるほどで、体力の衰えを感じるのと同時に、気力の衰えも感じてしまう。

「おい、どうした、カソリ!」

 と、自分で自分を叱咤激励したくなるほど。すっかり牙を抜かれ、やたらと丸みを帯び、ジジくさくなった自分に愕然とする。体中をドクドクと音をたてて流れていたはずの野性の血など、もう自分の体内には一滴も流れていないかのようだった。

 人間というのは体力が衰えると、気力が衰え、それがさらに体力の衰えを招くいった悪循環をくりかえすもの。その連鎖をどこかで断ち切らなくてはいけないとわかりつつも、「これから先、ほんとうにやっていけるのだろうか」

 と、目前に迫った40の厚い壁にうちのめされ、暗い気分になるのだった。

『世界を駆けるゾ! 30代編』でもふれたように、ぼくには3人の子供がいる。当時は3人とも小学生。まだ幼い3人の子供をかかえ、なおかつ自分の健康に自信が持てなくなるというのは、なんとも辛いことだった。

 ぼくの収入を得る仕事というのは、雑誌などに原稿を書くことで、いわゆるフリーのライターなのだが、これほど収入の不安定な仕事はない。自分の都合優先で、好きなことを自由気儘にできる反面、何ら保障がないので病気で寝込めば一銭の収入もなくなってしまう。そんななかで子供3人を育てていくのは、正直、重荷だった‥‥。自分の「世界を駆けるゾ!」という夢も、いつしかしぼみがちになってしまう。

40歳のサハラ挑戦!

 ぼくは「このままではいけない!」と思った。何度も自分で自分にそういい聞かせた。「ここで踏ん張らなくては‥‥」

 40の厚い壁に力でもってぶつかり、その壁をブチ破らないことには、もう自分の40代の“旅人生”はないに違いないと、“カソリの本能的直感”でわかっていた。

 そのターゲットをアフリカのサハラ砂漠に置いた。ぼくがそれまでの20年あまり、世界を駆けめぐってきたなかで、一番といっていいくらいに心をひきつけられたフィールドがサハラ砂漠なのだ。

「自分の持っている力のすべてを発揮し、厳しい環境の中に自分の身を浸し、サハラ砂漠に挑戦することによって40の壁を突破しよう!」

 そうすることによって40代も、20代や30代のころと同じように、「自由自在に世界を駆けめぐりたい!」と願ったのだ。20歳のときに「アフリカ一周」に旅立ち、22歳になって日本に帰ってきたときに決心した、「自分はこれからはトコトン世界を駆けるゾ!」と、自分で自分に誓ったあのときの情熱を思い起こしたのだった。

“行動こそ命!”のカソリ、さっそく計画づくりにとりかかる。毎日、アフリカの地図を目の前にし、あれこれ考えていると、衰えた気力も徐々に回復してくるようで、それにともなって体力も回復し、悪循環の連鎖が今度はいい方の循環に変わっていった。

 さて、サハラ計画だがフランスのパリを出発点にし、サハラ砂漠を往復で縦断し、最後はまたパリに戻ってくるという「サハラ往復縦断計画」をつくり上げた。5月あまりをかけてバイクでサハラ砂漠を縦横無尽に駆けめぐる計画だ。

 計画には1年以上の時間を費やし、40歳の誕生日が過ぎてまもない1987年11月18日、母と妻、小学校5年生の長女の優子、小学校3年生の次女の雅子、小学校2年生の尚の見送りを受け、成田空港からパリへと飛び立った。

 とはいっても、このあたりが家族持ちの辛さ、難しさになるのだが、「サハラ往復縦断」の計画達成の資金のみならず、自分が日本を留守にしている間の生活費も合わせてつくらなくてはならないのだ。そのような高いハードルを乗り越えての出発なだけに、妻や子供たちと別れる辛さ以上に、「これでサハラに向かって旅立てる!」といった喜びというか、ホッとした安堵の気持ちのようなもののほうが大きかった。

ジブラルタル海峡を渡る

 パリに到着すると、あらかじめ現地に送っておいた200㏄のオフロードバイク、スズキSX200Rを引き取り、意気揚々とした気分でまたがり、リアにバッグをくくりつけ、ザックを背負うという格好でパリを出発。1982年の「パリ・ダカ」のときと同じよいうに、シャンゼリゼ通りを走り抜け、凱旋門から環状線に入り、南下した

 フランスからスペインに入ると、首都マドリッドを通り、スペイン南端のアルヘシラスへ。フェリーでジブラルタル海峡を渡った。3時間ほどの航海で、モロッコのタンジールに到着。アフリカ大陸に愛車ともども立った!

 SXを走らせ、タンジールの町に入っていく。狭い路地が迷路のように入り組むメディナ(旧市街)のホテルに泊まる。

「アラーフ・アクバル(アラーは偉大なり)」

 すぐ近くのモスク(イスラム教寺院)のスピーカーからは、礼拝の声が聞こえてくる。 バイクをガレージであずかってもらい、荷物をホテルの部屋に入れると、さっそくメディナ内を歩きまわる。心が踊る。サハラの、アフリカの旅の第一歩だ。

 人波をかきわけ、かきわけしながら歩く。市場に行く。野菜や果物、肉、魚と食料品が山と積まれている。ウシやヤギ、ヒツジの頭が、羽をむしりとられたニワトリが、店先にぶらさがっている。いかにも地中海世界らしいオリーブの漬物がある。何種類もの香辛料、ミント(ハッカ)の青々した葉‥‥などの、むせかえるようなにおい、そして人いきれに圧倒されてしまう。

 食堂に入り、クスクスを食べた。クスクスは荒挽きした麦を蒸し、その上に羊肉や野菜の入った煮汁をかけたもの。ポピュラーなマグレブ料理だ。マグレブとは、アラビア語で“西”の意味。ふつうマグレブといえば、チュニジアアルジェリア、モロッコの3国を指す。

 夜はタバコの煙とミントティーの香りが充満するカフェに入った。ミントティーとは緑茶にミントの青い葉を浮かべた甘ったるいお茶。中国製の緑茶が使われている。スペインからジブラルタル海峡を渡り、イスラム教圏のモロッコに入ったとたんにビールやワイン、ウイスキーといったアルコール類は姿を消した。カフェの一角では、マグレブ先住民族といわれる山地民のベルベル族の人たちが、楽器を奏でながら歌っている。哀愁を帯びた旋律が胸にしみた。

アトラス山脈を越えて

 モロッコからアルジェリアに入り、第2の都市オランを通り、首都アルジェへ。そこから南下し、サハラ砂漠に向かっていく。アルジェから50キロ南のブリダの町を過ぎると、アトラス山脈の山中に入っていく。マロニエの並木道。出発点のパリではすっかり落ち葉になっていたが、ここではまだ、黄色くなった葉をつけている。それだけ気候が違うのだ。

 V字谷の渓谷に沿って、急勾配の峠道を登っていく。あえぎあえぎ登る大型トラックを3台、4台とまとめて抜いていく。やがて標高1240メートルの峠に達した。アルジェリアアトラス山脈は、地中海側のアトラス・テリアンと、サハラ砂漠側のアトラス・サハリアンの2本の山脈に分かれているが、今、そのうちのアトラス・テリアンの峠に立ったのだ。峠にバイクを停め、小休止。幾重にも重なりあった山並みを目に焼きつけ、峠を下っていった。

 2本の山脈の間はオートプラトーと呼ばれる比較的、平坦な高原地帯。そこを貫く舗装路を南下するにつれ、みるみるうちに緑は薄れ、ヤギやヒツジをひきつれた牧畜民の姿を見かけるようになる。やがて“ラクダに注意”とか“砂に注意”の標識があらわれてくる。

 前方に今度はアトラス・サハリアンのゆるやかな山並みが見えてきた。アトラス山脈の南側の山並みだ。空模様が急変し、空にはべったりと黒雲がはりついている。それは当然、北の地中海側から流れてくる雨雲だと、ぼくは信じて疑わなかった。ところが標高1271メートルのアトラス・サハリアンの峠を越えたとたんに雨が降りだす。なんと雨雲は北の地中海側からではなく、南のサハラ砂漠側からものすごい勢いで押し寄せてきていた。

 たたきつけるような雨になる。雨滴のヘルメットを打つ音がすごい。黒雲で覆いつくされた大空を稲妻が駆けめぐる。おまけに嵐のような強風だ。雨と風にもみくちゃにされながら走る。下りカーブでは強風にあおられ、まったくハンドルを切れず、峠道を登ってくるトラックとあやうく正面衝突するところだった。

 雨具を着る間もない豪雨に、ずぶ濡れになって走る。アトラス・サハリアンを越えるとサハラ砂漠になるが、サハラは一面、水びたしだった。ふだんは一滴の水も流れていないワジ(涸川)が急変し、赤茶けた濁流がゴーゴー渦を巻いている。信じられない光景を見た。まさに“サハラの洪水”だ。

 アルジェから420キロ南のアトラス・サハリアンの麓の町、ラグアットに着くと、町中が水びたしだった。「マルハバ」というホテルに泊まる。さっそく着ているもの全部を脱ぎ、部屋いっぱいにずぶ濡れになったウエアや荷物を広げて干した。なんとも手荒いサハラの歓迎だ。

サハラの大砂丘

 翌朝はまるで何もなかったかのような晴天。空には一片の雲もない。ラグアットからさらに南へ、点々とあるサハラのオアシスに立ち寄っていく。“サハラ”はアラビア語の荒れはてた土地を意味する“サーラ”からきているが、行く手にはまさにその言葉どおりに風景が広がっている。風が強くなる。砂がアスファルトの上を流れていく。小石が「パシッ、パシッ」と不気味な音をたててヘルメットに当たる。

 アルジェから700キロ南のガルダイアに近づくと、突然、パックリと口をあけた大きな窪地が現れ、その中に吸い込まれるように下っていく。下りきったところがガルダイア。すり鉢の底のようなオアシスには、青々としたナツメヤシが茂っている。7つの丘には、モスクを中心に、びっしりと家々が建ち並んでいる。

 丘の上のホテルに宿をとると、さっそくジーンズとスニーカーという格好で町を歩く。町の中央にある青空市場には、色とりどりのカーペットが広げられている。市場で目についたのは、“サハラのバラ”だ。それはバラの花そっくりの石で、サハラの砂の中で石膏や方解石が結晶したものだという。なぜ、どうしてといいたくなるほどにバラの花に似ている。自然のなせる技には驚かされてしまう。

 ガルダイアにひと晩、泊まり、次のオアシスの町、エルゴレアに向かう。100キロほど南に走ると、金色に輝く砂丘群が見えてくる。サハラ砂漠でも最大級の砂丘群のグラン・エルグ・オクシデンタル(西方大砂丘群)の東端に来たのだ。

 サハラは世界最大の砂漠。東はエジプト、スーダンの紅海沿岸から西はモーリタニア西サハラの大西洋岸まで、東西5000キロもの広さで広がっている。さらにサハラは紅海対岸のアラビア半島からイラン、アフガニスタンパキスタン、中国西部のタクラマカン砂漠、モンゴルのゴビ砂漠と広大なアジアの砂漠地帯につながっている。

 日本語で“砂漠”というと、この西方大砂丘群のような砂丘を連想する。しかし実際には、砂丘の連なる砂の砂漠はそれほど広い面積を占めているわけではない。サハラでいうと、全体の10分の1ぐらいでしかない。それよりも草が地を這うようにはえ、背の低い木々が見られるような土の砂漠、一面に礫がばらまかれたような石、もしくは岩の砂漠の方がはるかに一般的だ。

 西方大砂丘群に入ると、風が強くなった。ザーザー音をたてて砂が流れていく。やがて砂嵐の様相になった。視界が悪くなる。砂のカーテンの向こうから、ライトをつけたトラックが急に現れたりすると、冷やっとする。

 それと、怖いのは砂溜まりである。アスファルトの上に10メートルから20メートル、大きいのになると40メートルから50メートル近くにわたって砂が溜まっている。砂といっても、すこしもやわらかくはない。高速で突っ込むと、まるで岩か何か、固いものにぶつかったような衝撃を受ける。車が砂溜まりに乗り上げ、横転するといった事故は、サハラでは珍しいものではない。

 アルジェから1000キロ南のエルゴレアでひと晩、泊まり、さらに南へ。前日とはうってかわって、ほぼ、無風状態。絶好のサハラ日和だ。サハラ縦断路の両側に砂丘群が見えてくる。朝日を浴びた砂丘は、この世のものとは思えないほどの美しさ。まるで磁石に吸い寄せられるかのように、舗装路を外れ、砂丘の下までバイクを走らせた。

 高さ200メートルほどの大砂丘に登ってみる。砂丘の斜面の幾何学模様の風紋に、自分のブーツの跡をひとつづつ残していく。砂丘の頂上付近は這いつくばるほどの急傾斜。ザラザラ砂を崩しながら、ついに頂上に立った。

 大砂丘の頂上周辺は、雪山の稜線を思わせる。カミソリの刃のようなリッジになっている。はるか下の方にSX200Rが見える。西方大砂丘群はうねうねと際限なくつづいている。その中にサハラ縦断路のアスファルトがひと筋の線になって延びている。とてつもなく大きな風景だ。あたりはシーンと静まりかえって音ひとつない。そんなサハラの空気を切り裂くように、

「サハラだー!」

 と、大声で叫んでやった。

サハラ縦断の最大の難関

 エルゴレアからティミムーン、アドラルと通り、アルジェから1500キロ南の最奥のオアシス、レガンに着いたとき、ぼくは極度に緊張していた。地中海岸からずっとつづいた舗装路がここで途切れるからだ。南のマリ国境に近いボルジュモクタールまでは650キロあるが、その間は“デザート・オブ・デザート(砂漠の中の砂漠)”といわれるほどのタネズロフ砂漠で、オアシスはもちろんのこと、一木一草もはえていない。まさにえんえんと死の世界がつづくのである。

 町の入口にある国営の石油会社のガソリンスタンドの片すみで、SX200Rの整備をさせてもらう。オイルを交換し、オイルフィルターも交換する。エアークリーナーのエレメントをきれいにし、スパークプラグも新しいものに交換する。最後に特製の35リッターのビッグタンクを満タンにした。

 この超ビッグタンクを満タンにしても、ぼくの不安は消え去らなかった。

「ほんとうに大丈夫だろうか‥‥」

 ヨーロッパでテストランした限りでは、十分に満足な結果が得られた。タンク内の35リッターのガソリンをすべて使いきることができたし、SX200Rは満タンのガソリンで1000キロをはるかに超える1250キロを走った。燃費はリッター当たり36キロと申し分なかった。

 しかし、これから先のタネズロフ砂漠では、燃費がどの程度、落ちるのものなのか、まったく予測できなかった。リッター当たり25キロ前後走れるのではないか‥‥というのがぼくの希望的予測だ。

 バイクの整備が終わると、次は食料の調達だ。店をまわりフランスパン4本、チーズ1箱、タマネギ1個、ニンジン1本、それとデーツ(ナツメヤシの実)を0・5キロ買う。これらが全食料だ。さらに水筒に2リッター、ポリタンに2リッターと、計4リッターの水を持った。この食料と水で、なんとしてもボルジュモクタールにたどり着かなくてはならない。このように、軽いバイクで、ギリギリまでおとした軽い装備で砂道を走りきるというのがぼくのサハラ縦断の作戦なのである。

 最後は警察での手続き。まず“プロテクション・シビル”でボルジュモクタールまでのサハラ縦断用の書類を書き込む。それにスタンプをもらい、“ポリス”に行く。

 ポリスではガソリンは何リッター持ったのか、食料は、水は‥‥と、聞かれる。ガソリンタンクの35リッターと1リイターの予備ガソリン、計36リッターのガソリンはパスしたが、水の4リッターはひっかかってしまった。

「4リッターは少なすぎる。書類には10リッターと書いておくから、いいね、そのつもりで」

 ということで、4リッターの水を暗黙のうちに了解してもらった。

やった! ボルジュモクタールだ!!

 1987年12月13日、午前7時、アルジェリア最奥のオアシス、レガンを出発。まさに決死の覚悟だ。

「生きてボルジュモクタールにたどり着けるのだろうか‥‥」

 といった黒雲のような不安が頭をかすめていく。

 レガンの警察の壁に貼られていたポスターが目に浮かんでくる。それはこのルートでのサハラ縦断中に行方不明になったフランス人グループの捜索用ポスター。警官は「毎年、何十人という旅行者がサハラで遭難し、命を落としているよ」といっていた。サハラで遭難すると、たいていの場合は遺体すら発見されないので、正確な遭難者の数はつかめないようだ。

 レガンの町を一歩出ると、前方には地平線のはてまでも、砂の海が広がっている。見渡す限りの砂。砂、砂‥‥。そんな砂の海のはるかかなたへと、頼りなさそうな轍が延びている。それがサハラ縦断路なのだ。

 ルートを見失わないように慎重に砂の中につづくピスト(轍道)をフォローしていく。 満タンにした35リッター・タンクがずっしりとした重さでハンドルに伝わってくる。バックミラーに映るレガンの町並みはあっというまに遠くなり、やがて見えなくなった。

 レガンを出てから100キロほどは砂が深かった。だが砂にスタックすることもなく、最悪の場合でも、ギアをローまで落とし、両足で砂を蹴りながら走り、ディープサンドを乗りきった。

 砂の深い区間は、それほど長くはつづかない。5、60メートルから100メートルくらいで、長くても500メートルといったところ。そのような砂の深い区間の手前では、ルートをよくみきわめ、バイクのアクセルを全開にし、高速のギアで突っ込んでいく。砂の上を高速でなめていくような走り方で、一気にディープサンドの区間をクリアーした。 日が高くなってからのサハラの暑さは強烈だ。地表のもの、すべてを焼きつくすような時間帯(午後1時から2時ぐらい)には、バイクを停める。バイクのつくりだすわずかな日陰に頭だけ突っ込んで横になる。極端に乾いたサハラでは、こうして頭だけでも直射日光を避けると、ずいぶん楽だ。その間に、2、30分ほど昼寝する。目覚めたときには、また新たな力がぼくの体内に蘇っている。

 タネズロフ・ルートでのサハラ縦断路には、ほぼ10キロおきに、ボルジュモクタールまでのキロ数を示す道標が立っている。ソーラーバッテリー(太陽電池)を組み込んだポールも立っている。このソーラーバッテリーのポールはサハラの灯台で、昼間は地平線上の絶好の目印になるし、夜間はホタルの灯のようにピカピカ点滅する。

 しかし、このメインルートが走りにくい。路面が掘れて砂が深かったり、地面の固いところだと、規則正しく波打つコルゲーションになっている。そのためすこしでも走りやすいところをと探していくと、次第にメインルートから離れてしまう。このあたりのサハラ縦断路は我々が連想する道とはまったくかけ離れたもの。どこでも走れるので、道幅が何メートルとか何十メートルといったものではなく、何百メートルとか何キロという世界なのだ。

 タネズロフ砂漠は、まっ平だ。行けども行けども、前方には地平線が広がっている。横を向いても、後を振り返っても地平線なのである。たえず360度の地平線に囲まれ、その中心に、いつも自分がいる。どこでも自由自在に走れるので、気がつくと道標がとんでもない方角に見え、あわてて進路を変えてメインルートに戻ることが何度かあった。

 夕日が西の地平線に近づいたころ、バイクを停める。そのわきにシートを広げると、一夜のサハラの宿ができあがる。そこにシュラフを敷く。ブーツを脱ぎ、シュラフの上に座る。地平線上に落ちていく夕日を眺めながらの夕食だ。パンにチーズをはさんでかじり、生のタマネギとニンジンをサラダがわりにする。デザートにデーツを3、4個、食べる。日本の干し柿に似たデーツの甘味が、砂道の走行で疲れた体をいやしてくれる。そんな夕食を食べおわったあとで、のどを湿らす程度に水を飲む。

 日が沈み、暗くなると、急速に気温が下がってくる。テントなしの野宿なので、あるもの全部を着込んでシュラフにもぐり込む。

 すごい星空だ。ザラザラ音をたてて降ってきそうだ。びっしりと星で埋めつくされた天ノ川は、まるでほんものの水が流れているよう。地平線の上にまで星がのっている。手を伸ばせば、その地平線上の星に手が届きそう。そんな星空をスーッと尾を引いて何個もの流れ星が流れていく。大きな流れ星が夜空をよぎると、まるで照明弾でも打ち上げたかのように、サハラはパーッと明るく照らしだされた。

 一日の走行の疲れもあって、星空を見上げているうちに眠りに落ちる。しかし、辛いのはそのあとだ。寒さのために、何度も目がさめてしまう。地面からジンジン伝わってくる冷気で、体の地面に接する部分は氷のように冷たくなっている。そこで寝返りを打って姿勢を変え、また眠る。手足がとくに冷たくなるので、手にはグローブ、足には厚手のソックスという格好で寝るのだが、そのような涙ぐましい努力をしても夜間のサハラの寒さにはかなわない‥‥。

 真夜中に目をさましたときの恐怖感も耐えがたいものだ。まったく、よその世界と隔絶されたかのような静けさ。あたりはシーンと静まりかえり、もの音ひとつしない。あまりの静けさに、いいようのない恐怖感を感じ、「ウォー!」と、大声を張り上げる。

 自分の声の音を聞き、すこし安心してからまた眠るのである。

 翌朝は夜明けと同時に出発。ボルジュモクタールを目指し、サハラ縦断路をただひたすらに南下していく。乾燥の極にあるサハラでは、皮膚は水分を失ってカサカサになる。口びるは割れ、血がにじみ出る。手の甲にはヒビが切れ、グローブとすれるたびに悲鳴をあげる。手の指の関節にはアカギレが切れ、パックリと口をあけている。そんな痛みに耐えながらバイクを走らせるのだ。

 レガンを出てから3日目、ついにボルジュモクタールに到着した。町の手前、40キロほどの地点に、人の背丈ほどの木がポツンと1本、はえていた。それが「レガン→ボルジュモクタール」間の唯一の緑。タネズロフ砂漠はまさに一木一草もない世界だった。

 ボルジュモクタールに着いたときのうれしさといったらなく、それこそ大声で「万歳」を叫んでまわりたいほどだった。さっそく食堂に飛び込み、まずは水がめの冷たい水をゴクゴクのどをならして飲んだ。そのあとでパンと豆汁の食事。豆汁の塩けがなんともいえずにうまかった。

 そのあとでガソリンスタンドに行き、給油する。SX200Rの35リッター・超ビッグタンクには28リッター入った。まだ7リッター残っている。燃費もリッター22キロと、まずまずの結果だ。ぼくの方はといえば、4リッター持った水のうち、2リッターの水筒の半分を飲んだだけだった。

日仏サハラ縦断隊

 ボルジュモクタールではプジョーサハラ砂漠を縦断中の2人のフランス人に会った。1人はピエール、もう1人はミッシェル。彼らはサハラ縦断のプロなのだ。

 というのは、フランス国内でプジョーの中古車を買い、スペアタイアと食料、水といった程度の軽装備でサハラ砂漠を縦断し、マリやニジェールなど、西アフリカの国々でそれを売っているからだ。西アフリカの国々はどこも外貨事情が悪い。そのため新車の輸入は制限され、また高額の関税がかけられているので、彼らのような商売が成り立つのだ。

 自称“プロ中のプロ”のミッシェルは、今回が44回目のサハラ縦断。プロに転向してまもないピエールにしても、今回が11回目のサハラ縦断だ。コンピューター会社のプログラマーだったというピエールは、仕事に嫌気がさし、会社を辞めた。そのあと奥さんとも離婚し、サハラ縦断のプロに転向したという。

「世界中どこを探しても、こんなにエキサイティングな仕事はない。ロマンとアバンチュールに満ちあふれたこの仕事は、一度やったら、もうやめられないね」

 2人は口をそろえていう。

 奇しくも、3人とも1947年生まれ。

「花の47年組だ!」

 ぼくたちはすっかり意気投合し、ボルジュモクタールからマリのガオまでの670キロを一緒に走ることにした。

 でっぷり肥ったミッシェルはまったく英語を話せないが、小柄なピエールは英語が上手だ。そこでミッシェルはそのまま“ミッシェル”と呼び、ピエールは英語の“ピーター”で呼ぶことにした。ぼくはといえば、“タカシ”はきわめていいにくいので、いつも使っている“ターキー”にする。

 ぼくのフランス語はほんのカタコト語なので、ピーターとは英語で話し、ミッシェルとはカタコトのフランス語+ジェスチャーかもしくはピーターに通訳してもらって話した。こうしてターキー、ピーター、ミッシェルの即席の“日仏サハラ縦断隊”が誕生した。

 ボルジュモクタールの町はずれの国境事務所で出国手続きをし、“日仏サハラ縦断隊”の出発だ。ホーンを2度、3度と鳴らし、一望千里の砂の海の中に入っていく。

 ミッシェルのプジョー504は程度がよかった。ところがピーターのプジョー204は1967年製。よくこの車でサハラを越えようという気になったものだ。ピーターにいわせると、この20年前の車でも、けっこうな値段で売れるのだという。

 それはともかく、2人の砂道でのドライビングのテクニックには驚かされる。2人とも砂にスタックしたときに使う鉄製のサンドマットを持っていない。というより2人には、サンドマットは必要なかった。ディープサンドでのルートの選択がきわめて的確で、その手前で100キロ以上の速度に上げると、あとは飛ぶようにして砂の海を一気に突っ切ってしまう。見事なものだ。

「もし、パリ・ダカに出たら、上位入賞は間違いないよ」

 と豪語している2人だけのことはあった。

 国境を越えてマリに入り、日が落ちたところで野宿する。2台のプジョーとSXを停め、ランタンを灯す。キャンピングガスで料理する。とはいっても、ぼくは自炊道具の類は一切持っていないので、ミッシェル、ピーターの2人に全面的にご馳走になる。

 フライパンで目玉焼きをつくり、スープをつくり、かんづめのソーセージ入り“カスリ”をゆで、パンにフランス産のハムをはさむ。

 食事の用意ができたところで、ワインの栓を抜く。なんとそのワインは“ボージョレー・ヌーボー”だ。フランス・ブルゴーニュ地方のボージョレー地区産ワインの新酒がボージョレー・ヌーボーで、毎年11月の第3木曜日が解禁日と決まっている。ミッシェルはサハラで飲むために、ボージョレー・ヌーボーを買い込み、ここまで持ってきたのだ。

「チンチン!」

 ボージョレー・ヌーボーで乾杯。新酒特有のすこし角のあるような、それでいて軽い、さわやかな味覚が口の中いっぱいに広がる。

“カスリ”はフランス人の好きな煮豆料理。ピーターは「カソリが“カスリ”を食べた」といって、声をたてて笑う。

 サハラの星空のもとでの食事はなんとも優雅なものだった。食後のデザートは、フランス産の何種ものチーズ。そのあとでコーヒーを飲みながら話す。やり玉にあがったのは、未だに独身のミッシェルだ。彼がフランス人やアフリカ人のガールフレンドの写真を見せびらかすと、ピーターはすかさず冷やかした。

「ミッシェルはママと一緒に住んでいるんだ。ガールフレンドよりも、ママの方がズーッといいんだってサ」

 翌日、ボルジュモクタールから160キロ南、マリ側の国境の町、テッサリットに到着。すると、アラブ人からアフリカ人へと変わる。国境の役人たちは、すべてがアフリカ人。肌の黒さと歯の白さ、陽気な笑顔が印象的だ。同じアフリカ大陸でも、アラブの世界からアフリカの世界に変わったのだ。

 入国手続きがすむと、町の食堂に行く。すると電気冷蔵庫があるではないか。日干しレンガに草屋根の家と電気冷蔵庫のアンバランスな取り合わせがおもしろかった。冷蔵庫の中には冷えたコーラやジュース、ビールがあった。無事にマリに入国できたお祝いに、3人でビールで乾杯した。

 テッサリットから南下するにつれて草木の緑がどんどん増えていった。ラクダやヤギ、ヒツジの群れをひきつれたトアレグ族を見るようになる。無人の砂漠から牧畜民の世界に変わったのだ。

 あと100キロほどでガオというあたりでは感無量だった。『世界を駆けるゾ! 30代編』でもふれたことだが、1982年の第4回「パリ・ダカール・ラリー」で事故を起こし、大怪我をしたところだ。こうしてまた元気で、同じ場所に戻ってこられたことを感謝するのだった。

 ボルジュモクタールを出てから3日目、ミッシェル、ピーターと抜きつ抜かれつしながら、ニジェール川の河畔の町、ガオに着いた。サハラ砂漠の玄関口の町。地中海のアルジェからちょうど3000キロだった。

ミッシェル&ピーターとの別れ

 往路でのサハラ縦断をなしとげてたどり着いたガオでは、ミッシェル、ピーターと一緒に、町はずれの“バングー”というキャンプ場で泊まることにした。日はまだ高い。碁盤の目状の通りの両側に土色をした日干しレンガの家々が建ち並ぶガオの町まで歩いていき、食堂に入る。

「サハラ縦断の成功、おめでとう!」

 と、まずはミッシェル、ピーターと一緒に冷たいビールで乾杯だ。そのあとで昼食。サラダとフライドポテトを添えたぶ厚いビフテキを群がるハエをはらいのけながら食べた。 キャンプ場に戻り、シャワーを浴びる。なんという気持ちのよさ。頭を洗い、体を洗うと、ジャリジャリ音をたてて砂まじりの赤茶けた水が流れおちてくる。何日ぶりかで歯を磨き、ひげをそりながら水のありがたさをかみしめる。カサカサに乾ききった肌に水気がよみがえり、ほんとうに生き返るようだ。

 日が暮れてから、ミッシェル、ピーターと一緒に今度は夕食を食べに町に出る。サハラ縦断中はいつも腹をすかせていたので、その反動でサラダ、チキン、クスクスと夕食も腹いっぱい食べた。

 満腹になったところで、夜のガオの町を探検する。ディスコに入る。ビールが1本ついて500CFAフラン(約500円)。強烈なリズムに身をまかせ、ぼくとピーターは踊りまくった。ミッシェルは若い女の子たちをはべらせ、ニヤニヤしながら見ているだけ。まわりにはアフリカ人の黒い顔、顔、顔。男も女も、汗を光らせながら踊っている。アフリカ人のリズム感のよさには惚れ惚れしてしまう。

 ディスコで踊りまくり、クタクタになった体をひきずってキャンプ場に戻ったのは、夜中の12時すぎだった。部屋のコンクリートの床の上にゴザを広げ、その上にシュラフを敷いて寝る。裸電球ひとつが灯る部屋の中はムッとする暑さ。おまけに横になるやいなや蚊の猛攻を受けた。

「プーン、プーン」

 耳もとで聞こえる無数の蚊の音で寝られたものではない。たまらずに屋根の上に登り、そこにシュラフを敷く。砂漠の野宿と同じように、星空を見上げながら眠るのだった。

 翌朝、ミッシェルとピーターはガオを出発。町はずれの、ニジェールのニアメーに通じる道と、空港への道との分岐まで2人と一緒に行き、そこで2人を見送った。

「ターキー、また、地球上のどこかで会おう。うんと儲けたら、トーキョーに行くかもしれないよ」

 そういい残すと、ミッシェルとピーターはクラクションを鳴らし、土煙を巻き上げながら走り去っていった。2人はうまくビジネスが成立すれば、ガオで車を売るつもりにしていた。しかし、ミッシェルにいわせると、

「イシ・ラルジョン・アンプ(ここには、お金がない)」

 ということで、より車を売りやすいニジェールの首都ニアメーに向かっていったのだ。

  サバンナの村

 ぼくもガオを出発。西に1300キロ走ってマリの首都バマコへ。そこから南下し、ギニア湾を目指した。

 バマコから100キロほど南のザンブグーという村でひと晩、泊めてもらったが、なんとも居心地のいい村で、そのまま1週間ほど滞在させてもらい、1988年の新年をこの村で迎えた。

 ザンブグーはサバンナの村。サバンナ地帯とは、1年が雨期と乾期にはっきりと分かれている気候帯。ぼくが訪れた12月から1月にかけては乾期の最中で、1滴の雨も降らない。この村での主食は“サンヨー”と呼ぶ棒状の穂をした雑穀。トウジンビエのことである。雑穀の収穫を終えてまもない時期なので、どの家の穀物倉にも、雑穀の穂がぎっしりと詰まっている。

 雑穀の脱穀は男たちの仕事だ。きれいに掃き清められた地面雑穀の穂を広げ、1日かけて天日で干す。その脱穀場というのは、幼稚園の運動場ぐらいの広さ。夜は男たちがウシなどに食い荒らされないように、寝ずの番をする。

 翌日、男たちは細い、枝つきの木を切り、枝の方を手に持って雑穀をたたき、穂から穀粒を落とす。一見すると何気ない作業のように見えるが、ぼくがやらせてもらうと、木の棒は「パン、パン」と軽い、乾いた音とともに跳ね上がり、うまく脱穀できない。ところが彼らが打つと「ズシン、ズシン」という重い音とともに、木の棒は敷きつめられた雑穀の穂の中に沈み込んでいく。

 脱穀が終わると、女たちはそれを集め、ヒョウタンの器に入れ、目の高さぐらいの位置から落とす。風の力で殻やゴミなどは飛び散り、重い雑穀の粒だけが真下に落ちる。

 このあと雑穀は穀物倉にいれられるが、そのほかに、トウモロコシや豆類を入れる倉もある。家のまわりにいくつもの穀物倉のある風景が、アフリカのサバンナの村を象徴していた。

 西アフリカのサバンナ地帯での雑穀栽培は、雨期のはじまる前の5月に種をまき、発芽すると、5月下旬から9月上旬にかけての雨期の間に成長する。乾期に入ると穂を出し、10月下旬から11月にかけて収穫する。このように収穫は1年に1度で、今年とれた雑穀を来年の収穫期まで、なんとしても食いつながなくてはならない。女たちは1日にどのくらいの量を食べたらいいのかという計算をきちんとできるので、穀物倉の鍵は女が持つものと決まっている。もし男がそれをやると、計算がルーズになるので、来年の収穫期前までに雑穀を食いつくしてしまうという。

 さて、その雑穀の食べ方だが、木の臼に粒を入れ、握りの部分がくびれている竪杵で搗き、雑穀の粒を覆う固い皮を落とし、精白する。そのときに出る糠は、ヒツジやヤギの餌になる。精白した粒をもう一度、木の臼で搗く。搗き砕いて荒い粉にし、それをフルイでふるい、さらに搗いてきめの細かい粉にする。

 臼を搗くのは女の仕事になっている。

「トントントン‥‥」

 女たちが汗を流しながら臼を搗いている光景もサバンナの村を象徴するもの。このように雑穀というのは、食べられるようにするまでが大変だ。

 こうして製粉を終えると、鍋で湯をわかす。沸騰してくると粉を入れる。ヘラでかきまぜ、練り固め、トーと呼ぶ餅ができあがる。

 夕食には洗面器型のホウロウの器に餅を盛り、別の器にナンと呼ぶ汁を入れ、それをみんなで囲んで食べる。食べ方は手づかみだ。餅をつまみ、手の中で丸め、団子にする。それを親指で押してへこみをつくり、汁をすくうようにして食べる。

 汁にはすりつぶしてドロドロになった南京豆やシーラという木の葉を粉にしたもの、家まわりにはえている野草などが入っている。乾燥させたオクラを石臼ですった粉も入っているので、トロリとしたとろみがある。それに塩とシートゥルーという木の実からつくった油をいれて味つけしている。辛味をつけるために唐辛子を入れることもある。

 サハラ砂漠の南側のこの地方はイスラム教圏。その影響で、男は男たちだけで、女は女たちだけで食べる。彼らの食べ方で感心させられたのは、大人たちは腹8分目ぐらいのところで「ネファラ(もう、お腹がいっぱいだ)、バルカライ(ごちそうさま)」といって食事の席を立つことだ。残った餅と汁は、まだ10代の育ちざかりの若者たちが食べる。

 日本でも“同じ釜の飯を食う”という言葉のたとえがあるように、アフリカ人と同じようにして同じものを食べていると、言葉の不自由さをおぎなってあまりあるほどに心を通い合わせることができるのだった。

 ザンブグー村を出発する日は、みんなで砂や泥にまみれたSX200Rを井戸の水できれいに洗ってくれた。ずっとぼくを泊めてくれたセマケ家のお母さんのジャラや息子のプロスペール、コニンバと何度も握手をかわし、集まってきた大勢の村人たちにも別れを告げ、きれいになったバイクにまたがり走り出す。村人たちは村の入口にある大きなマンゴーの木の下で手を振って見送ってくれた。

ギニア湾の海だ!

 ザンブグー村から60キロほどでブグニの町。そこから南のコートジボアールに通じるダートに入っていく。交通量はほとんどない。ときたま自転車や荷車が通る程度。路面のあちこちに大穴があいている。丘陵地帯に入ると、岩盤の露出したガタガタ道になる。

 ブグニから150キロで国境の村に到着。マリ側の出国手続きはいたって簡単。パスポートとカルネに出国印をもらい、そして国境を越える。ニジェール川の支流にかかる長さ50メートルほどの橋が国境だ。

 コートジボアール側に入ると、路面の状態がいっぺんによくなる。ダートであることには変わりなかったが、よく整備されていて石ころも穴ぼこもない。コートジボアール側の入国手続きも簡単に済み、国境から100キロ南のオージェネの町へ。そこを過ぎると、舗装路になった。

 ギニア湾を目指して南下するにつれて風景はサバンナから熱帯雨林へと鮮やかに変わる。熱帯雨林から伐り出された巨木を積んだシャシだけのトレーラーと、ひんぱんにすれ違う。熱帯雨林を伐りはらって焼いた焼畑をあちこちで見る。そこではキャサバやタロイモ、ヤムイモ、バナナ、プランタイン、パパイア、パイナップル、オクラ、唐辛子、コーヒー、カカオなど、様々な熱帯の作物がつくられていた。

 通りすぎていく熱帯雨林の村々をみて気のつくのは、サバンナの村とは違い、どこにも穀物倉がないことだ。一年中、高温で、なおかつ雨期、乾期の別なく1年を通して雨の降る熱帯雨林地帯では、雑穀などの穀物をつくっていないからである。

 熱帯雨林の村人たちにの主食はキャッサバやヤムイモ、タロイモのイモ類と、プランタイン(料理用バナナ)だが、これらのイモ類とプランタインにはこれといった収穫期がない。畑に行けばいつでも収穫できる。熱帯雨林は畑が食料庫になっている世界なのだ。

 それらイモ類とプランタインの食べ方はといえば、包丁でその皮を削りとり、鍋でゆで、それを木の臼で搗いて餅にする。その餅を汁につけて食べる食べ方は、サバンナの村での雑穀の食べ方とまったく変わりがない。これがアフリカの文化なのだ。ひとつ違うのは、このあたりだとあまりイスラム教の影響を受けないので、男と女が一緒に食べていることである。

 1988年1月8日、地中海のアルジェから5176キロ走り、ギニア湾のサンペドロに着いた。港近くの砂浜に行き、バイクを停める。

「SXよ、これがギニア湾の海だ!」

 サハラ縦断中の苦しいときは、いつもきまってギニア湾の浜辺に立つ日を思い浮かべ、難関を乗り越えてきた。その夢が今、現実のものとなった。ブーツを脱ぎ、ソックスを脱ぎ、波打ちぎわに走っていく。寄せる波を手ですくい、顔を洗う。

ギニア湾の海だ!!」