賀曽利隆 STILL ON THE ROAD !

世界を駆けるバイクライダー・賀曽利隆(かそりたかし)。地球をくまなく走り続けるカソリの”旅の軌跡”をまとめていきます。

『世界を駆けるゾ! 30代編』フィールド出版

第1章 赤ん坊連れのサハラ縦断

熱病にかかって、カソリ、結婚!

 ヒッチハイクとオートバイを織りまぜ、15ヵ月間で世界六大陸13万キロを駆けまわった「六大陸周遊」の旅から帰ってまもなく結婚した。27歳の春のことだった。

 結婚し、家庭を持つなんて、自分の人生とはまったく無縁なものだと、そう思っていただけに、自分でも信じられない出来事‥‥。まるで、熱病にでも浮かされているような気分だった。

 ところで、結婚するからといっても、結婚式の費用など一銭もない。自慢にもならないが、「六大陸周遊」の旅から帰って結婚するまでの4ヵ月間で得た収入といえば、新聞に原稿を書いて得た数万円だけ。で、どのようにして式をあげたかというと、日曜日の保育園を1日1万円で借り、あとは友人たちが段取りしてくれた。ぼくたち夫婦は1万円で結婚式をあげた。それは1975年3月16日のこと。仲人役は、生涯を通して4000日も旅で過ごされた偉大な民俗学者宮本常一先生(1981年1月30日にお亡くなりになった)と奥様が引き受けて下さったのだ。

 新婚旅行も、いきあたりばったりの貧乏旅行。妻の洋子とは、東京・新宿駅を鈍行列車で発ち、松本から大糸線に乗り、糸魚川駅近くの安宿で1泊した。翌日は富山から高山線に乗り、猪谷で神岡線(現在の神岡鉄道)に乗換え、終点の神岡で下車。たまたま駅前に停まっていたバスに飛び乗り、奥飛騨新平湯温泉に行った。

 季節外れだったこともあり、大半の宿が閉まっていたが、その中にあって、「静山荘」という宿のご主人、奥さんがぼくたちの無理を聞いてくれ、

「ゆっくりしていきなさい」

 といって、泊めてくれたのだ。あやうく新婚旅行で宿なしになるところだった‥‥。ぼくたちは「静山荘」が気に入り、2泊し、周囲の雪の山野を歩いた。白銀の穂高連峰の眺めが強烈だった。

 そのあと、高山で1泊し、高山線で名古屋へ、名古屋からは中央本線塩尻経由で東京・新宿へと、鈍行列車を乗り継いで戻ってきた。そんな新婚旅行だった。

生後10ヵ月の赤ん坊を連れて‥‥

 妻の洋子とは、

「2人でアフリカを旅しよう!」

 と、1年後の出発を目指した。頭の中はアフリカでいっぱいで、新婚家庭を築き上げていこうなどいう気は、さらさらなかった。洋子は看護婦。ぼくはこのころから原稿を書くことが多くなったが、2人でせっせと旅行資金を稼いだ。ぼくたちは希望にあふれ、何でもできるような気分でいた。

 ところが、長女の優子が生まれ、ぼくたちのアフリカ計画は大きな壁にブチ当たってしまった。

 どうしたらいいのか、さんざん考え、悩んだあげくに、

「どうしても、アフリカ計画を断念することはできない!」

 と、優子が生後10ヵ月になるのを待って、1977年6月11日、アフリカへと旅立った。ザックにはゴソッとオムツを詰め込んでの旅立ちだ。

 だが、そのときの周囲からの反対は強く、

「赤ん坊を連れてのサハラ縦断だなんて、キミはいったい何を考えているんだ、無謀にもほどがある」

 とか、

「キミたち夫婦はどうなろうと、好きなことをやるのだから、それはいいだろう。だけど、もし、赤ちゃんをサハラで死なせでもしら、どうやって責任をとるのかね」

 とか‥‥、厳しく責められ、両肩にいいようのない重圧を背負っての出発であった。

 ひとつ、そんなぼくの心の支えになったのは、

「カソリ君、世界中のどんなところでも、子供たちは元気に育っているよ」

 という東京農業大学探検部OBの向後元彦さんの一言だった。それを聞いて、

「そうだ、旅をつづけていくなかで、赤ん坊を育てていけばいいのだ」

 と思うことができるようになり、おおいに元気づけられた。向後さんと奥さんの紀代美さんは、子連れで世界を旅した大先輩。向後さん夫妻からのアドバイスは、実際の旅の日々のなかで、どれだけ役立ったかしれない。

列車でシベリアを横断

 ぼくたちは横浜港からロシア船「バイカル号」に乗り、ナホトカに渡った。そこから、シベリア鉄道でモスクワを目指したのだ。

 午後8時、急行「ボストーク号」はナホトカのチーホーケアンスカヤ駅を出発。翌朝、目をさますと、窓ガラスには水滴がいっぱいついていた。シベリアは雨だった。朝食を食べに食堂車に行くころから雨は上がり、青空がだんだん広がってきた。

 シベリアの風景が車窓を流れていく。白樺林が見える。白や黄色、赤‥‥といった色とりどりの野花が咲いている。初夏のシベリアはまさに花園だった。

 ハバロフスクに着いたのは、ナホトカを出てから15時間後の午前11時。ハバロフスクでは2泊したが、悠々と流れるアムール川黒竜江)が印象深い。原木を満載にした船が下っていく。対岸の平原の向こうには、うっすらと山影が見える。中国の山々だ。アムール川の河原では、短いシベリアの夏をむさぼるかのように、日光浴している人たちの姿を多く見かけた。

 ハバロフスクからイルクーツクまでは3500キロ。70時間あまりの列車の旅。ウラジオストックから来たモスクワ行きの急行「ロシア号」に乗る。16両編成の長い列車。最後部の16号車がぼくたちのような外国人旅行者の車両で、アメリカ人の団体と一緒になった。

 1日3度の食事が大変。16号車の乗客たちは行列をつくって食堂車まで行進する。離乳食を食べはじめたばかりの優子だったが、ロシアの食事にも慣れ、黒パンや豆、ハムなどのロシア料理をよく食べてくれた。

 シベリアの空は、ほんとうに、大きい。まっ青な夏空。風景は次々に変わっていく。森林、草原、地平線のはてまでつづく大農園‥‥。木材や原油、石油製品などを積んだ貨物列車とよくすれ違う。

 翌朝、チタ駅に到着。大きな駅だ。中国のハルビン行きの列車が出ていく。「ロシア号」の停車時間は長い。駅には改札口がないので、赤ん坊を抱っこして、駅周辺をプラプラ歩いた。チタを出ると、車窓にはモンゴルへとつづく大草原が広がる。牛や羊が放牧されている。それら家畜を馬にまたがった牧童が追っている。夕方、ウランウデ駅に到着。モンゴルのウランバートルに行く列車の出る駅だ。駅構内を歩いているのは、大半がモンゴル系の人たち。日本人にそっくりな顔をしているので、思わず日本語で声をかけそうになった。

 ウランウデを出発。食堂車での夕食が終わったころ、バイカル湖が見えてきた。アメリカ人旅行者たちは喜びの声を上げ、さかんにカメラのシャッターを押す。それにしても大きな湖だ。9時をまわっても、まだまだ、明るい。夕日が湖岸の山の端に近づいても、なかなか日は沈まない。湖水の色が、夕空の色の変化に合わせ、刻々と変わっていく。列車は湖岸をひた走る。バイカル湖に流れ込む何本もの川を渡る。10時過ぎになって、やっと夕日は沈み、バイカル湖はうっすらと夜のとばりに包まれた。

 イルクーツクでも2泊し、モスクワへ。5000キロの列車の旅。夕方に発車するイルクーツク始発のモスクワ行き急行「バイカル号」に乗る。4人で1部屋のコンパートメント。2段ベッドが2つある。オーストラリア人とアメリカ人女性の旅行者と同室。まずいことに、ぼくたちは上段のベッドが2つ。夜が大変だ。赤ん坊の優子は、手あたりしだいに何でも投げるので、そのたびに下の2人に謝らなくてはならなかった。

 優子の寝たあとは、今度はベッドから落ちないように、ずっと見ていなくてはならなかった。寝ずの番だ。いつまでも明るいシベリアの夏の夜。午前0時を過ぎたあたりで、やっと暗くなる。しかし、まっ暗にはならずに、夜明けのようなうす明るさがいつまでも残る。1時、2時と眠い目をこすりながら起きていたが、ついにダウン。3時過ぎに、優子のわきで、体をくの字に曲げて寝てしまう。

 イルクーツクを出てから2日目の夜中に、シベリア最大の都市ノボシビルスクを通り、4日目の夜中に欧亜を分けるウラル山脈を越えた。夜中に越えたせいもあるが、なだらかなウラル山脈は、いつ越えたのか、まったくわからなかった。

 夜が明けると、雨が降っていた。湖が見える。まるで湯気が立ちのぼっているかのように、もやでけむっている。湖岸の森は、シベリアよりもはるかに濃い緑だ。妻の洋子は4日目の列車にもう、うんざりという顔をしている。赤ん坊の優子はすっかり列車の旅にも慣れ、機嫌がいい。こうして、イルクーツクを出てから5日目の朝、モスクワに着いた。「イルクーツク→モスクワ」間112時間の列車の旅だった。さらに列車の旅はつづく。モスクワに2泊したあと列車で国境を越え、フィンランドヘルシンキまで行き、ロシア横断の旅を終えるのだった。

ポルトガルで迎えた30歳の誕生日

 北欧から列車を乗り継いでヨーロッパを南下。スペインからポルトガルに入り、大西洋岸のサンマルティーノという漁村で家を借り、1ヵ月あまり滞在した。ぼくはここで30歳の誕生日を迎えた。「あー、とうとう30になってしまったな‥‥」といった辛い気分と「さー、これからの30代はガンガンと世界を駆けめぐってやるゾ!」といった希望に満ちあふれた気分の交錯したような気分を味わった。

 サンマルティーノの風景は心に残るもの。石畳の坂道。民家の白壁と橙色の屋根瓦。漁港の岸壁では、漁から帰った漁船から魚を下ろし、トラックに積み込んでいる。漁港から岩山をくり抜いたトンネルを抜け出ると、外海に出る。大西洋の荒波が岩山にぶつかり、砕け散っている。

 サンマルティーノでの毎日は、のんびりとしたものだった。朝はゆっくりと起き、朝食のあと、市場に買い物に行く。とれたての新鮮な魚。野菜、果物も豊富だ。市場歩きを楽しみながら、買い物をする。そのあと、海に行く。すでに1歳の誕生日を過ぎた優子は、波とたわむれ、砂浜で遊ぶ。家に帰り、昼食、昼寝。午後、ふたたび、海に行く。夕方、海から戻ると、優子を風呂に入れる。そのあとで、ゆっくりと時間をかけて夕食にする。夕食にはビニョ(ブドウ酒)をたっぷりと飲んだ。

 長かったようでいて、それでいて、あっというまに過ぎ去っていったサンマルティーのでの日々。優子は夏の太陽と潮風を浴び、みるみるうちにたくましくなっていった。

 サンマルティーノに別れを告げ、ポルトガルからスペインに戻る。そしてジブラルタル海峡に面したアルヘシラスからモロッコのタンジールにフェリーで渡る。ぼくたちはついに、アフリカ大陸の一角に立ったのだ。

 サハラ砂漠縦断を目指し、アルジェリアの首都アルジェにやってきたのは10月3日。日本を発ってから4ヵ月あまりが過ぎていた。

 サハラの夏は、日中が暑すぎる。サハラの冬は、夜間が寒すぎる。いずれも子連れでは厳しすぎる。そこで、サハラに入っていく時期を10月と決め、それに合わせて日本を出発し、ロシア→ヨーロッパ→北アフリカと旅をつづけてきた。そのなかで、子供に旅の毎日に慣れさせていったのだ。

サハラ縦断の開始

 10月5日、アルジェを出発。700キロ南のサハラのオアシス、ガルダイアにバスで向かう。アトラス山脈を越え、世界最大の砂漠、サハラに入っていく。ガルダイアに着くと、白い町並みとそれを囲むナツメヤシの緑に、妻の洋子は「すてきね!」を連発した。夕暮れどきのサラサラやさしくほおをなぜていく風に、

「これがサハラの風なのね。砂漠の匂いがするわ」

 と、満足した表情を浮かべるのだった。

 だが、快適なサハラの旅もガルダイアまで。さらにエルゴレア、インサーラと南下していくにつれて、厳しい砂漠の旅になる。子連れなので、よけいに厳しい旅になる。

 ガルダイアから650キロ南のオアシス、インサーラでは、この町で唯一のホテルに泊まったが、水が極度に不足していた。水道の蛇口をひねっても、1滴の水も出ない。1日1回配給されるポリバケツの水がすべてだった。ぼくたちは子供がいるからということで、特別に2杯もらった。

 水は優子優先で使う。食料が乏しいので粉ミルクを飲ませているのだが、哺乳ビンを洗い、粉ミルクをつくる。さらに、別に、優子用の食事をつくる。優子の体を洗い、汚れたおしめや洋服を洗う。それらすべてをポリバケツ2杯の水でやらなくてはならなかった。 それだけではない。アルジェからインサーラまではバスを乗り継いできたが、ここから先が大変だ。アルジェリア最奥のオアシス、タマンラセットへ、さらには国境を越え、ニジェールのアガデスへと行く車探しは困難をきわめた。

 自分ひとりでふらっとヒッチハイクするようなわけにはいかない。脳天を焼きつくすような、強烈な直射日光を浴び、砂まじりの強風に吹かれながら、道端で通り過ぎる車を待つわけにはいかなかった。子連れの旅のハンデの大きさを歯ぎしりするような思いでかみしめるのだった。

 タマンラセットまで行くトラックが出るかもしれないという情報を耳にし、トラックの溜まり場にもなっているカフェの前の広場に夜明け前に行き、じっと辛抱づよく待った。だが、夜が明け、日が昇り、やがて砂漠をジリジリと焼きつくすほど日が高くなっても、それらしきトラックはやって来なかった。

イード夫妻の車に乗って‥‥

 インサーラのカフェ兼レストランでは、何度となくコーヒーを飲み、朝、昼、夜と、1日3度の食事もここで食べた。主人のアブデルマンさんはトアレグ人。タマンラセットまで行けなくて困っているぼくたちに何かと同情的で、

「キミたちが乗せてもらえるような旅行者の車があったら、私から頼んであげるよ」

 といってくれた。が、あまりあてにしないで聞いていた。

 アブデルマンさんの好意でカフェの2階を借り、優子を昼寝させているときのことだ。「車がみつかった、車がみつかったよ!」

 と、彼が階段の下で叫んでいる。喜び勇んで階段をかけおりていく。

 その車というのは、フランス人旅行者のプジョー504のワゴン車。たいして荷物も積んでいないので、ぼくたち一家が乗せてもらえるスペースがあった。

 ボルドーからやってきたサイード夫妻の車で、奥さんはフランス人だが、サイードアルジェリア系のフランス人。北部アルジェリアのジュルジュラ山麓の村で生まれた山地少数民族だ。5歳のときに両親とともにフランスに渡ったそうで、それ以来、ずっとフランスに住んでいる。フランス語のほかに、アラビア語と彼ら山地民のカビール語を話す。肌の浅黒い、がっちりした体つきのサイードだ。

 サイード夫妻とのサハラの旅がはじまった。猛烈な暑さがいくぶんしのぎやすくなった午後4時すぎに、インサーラを出発した。舗装路が250キロ先まで延びているので、

「今晩中に、そこまでは走るつもりだ」

 と、サイードはいっている。

 日が傾き、やがて地平線に沈む。砂でけむったような西空。鮮明な夕日を見られないままに、あたりはみるみるうちに暗くなっていく。

 夜のサハラを走る。しだいに舗装路に溜まった砂が多くなる。うまくハンドルを切らないと、砂溜まりに突っこんでスタックしてしまう。そしてとうとう、砂がすっぽりと舗装路を覆いつくしているところにきてしまった。その砂溜まりの区間は100メートルほどある。サイードは車のスピードをグーッと上げ、一気に砂溜まりに突っこんでいく。だが、その砂溜まりを抜けきれずに、途中でスタックしてしまった。いったん砂の中で止まってしまうと、もういくらアクセルペダルを踏みこんでも、タイヤはからまわりするだけでまったく前には進めない。

 サイードは信じられないのだが、サハラを縦断するのに、砂漠を走る用意は何もしていない。スコップもサンドマットも持っていなかった。そのため、前後輪のタイヤの前の砂を手でかきだし、エンジンをかけ、わずかに動いたところで、また手で砂をかきだす。そんなことを何度かくり返したが、2、3メートルも進めないうちにグッタリと疲れはて、砂の上に大の字になってひっくりかえるのだった。

 子供の優子だけがご機嫌だ。夢中になって砂遊びをしている。まだ歩けないので、砂の上をはいずりまわっている。サハラを自分の砂場にしている。その顔には不安のかけらすらなかった。

 はるか遠くに車のライトが見えてきた。

「あー、これで、助かる‥‥」

 と、ホッと胸をなでおろした。

 インサーラからタマンラセットに向かう車。だが、車のライトはなかなか近づいてこない。障害物がまったくないので、車のライトは、はるかかなたからでも見えるのだ。そのうちに、やっとという感じで、車のエンジン音がかすかに聞こえてきた。エンジン音がはっきりと聞こえてくるようになり、ガスボンベを満載にしたトラックがやってきた。サイードは懐中電灯を振ってトラックに止まってもらい、アラビア語で何か話している。

「引っ張ってもらえないだろうか」

 と、頼んでいるのだろう。

 トラックの運転手は、さすがにサハラに慣れている。なんなく大きな砂溜まりを走り抜けると、今度は、バックギアで戻ってくる。サイードの車との間に数メートルの間隔をおいて止まると、ロープを使って車を砂の中から引っ張りだす。トラックが動き出すのとともに、サイードの車もズルズルと動き出す。ついに、大きな砂溜まりを脱出することができたのだ。

 そのあとは、サイードの車がトラックの前を走る。また砂に埋まったときにはトラックに助けてもらえることになったが、幸いにもインサーラから250キロの地点、舗装路の途切れる地点までは、砂にスタックすることもなく走ることができた。

 その夜は、舗装路が途切れた地点で野営することになった。

 優子にとっては、生まれて初めての野宿だ。サハラにシートを広げ、その上にシュラフを敷く。トラックの助手が携帯用のガスコンロに火をつけたので、湯をわかしてもらい、粉ミルクをつくった。優子はそれを満足そうに飲み終えると、満天の星空を指さし、

「アッカイ、アッカイ」

 といって喜んでいるうちに眠ってしまった。サハラの野宿で、はたしておとなしく寝てくれるだろうか‥‥と、心配していたので、まずはひと安心だった。

サハラ最奥のオアシス

 翌朝は、優子の粉ミルクをつくらなくてはならないので、まだ暗いうちに起きた。ブルブル震えてしまうほどの寒さ。温度計を見ると、気温は18度あるのだが、なにしろ日中は40度をはるかに超え、1日の気温の差が30度近くにもなるので、18度とは思えないような肌寒さを感じてしまうのだ。

 糸のように細い月が、砂漠をうっすらと染めて地平線から昇る。懐中電灯の明かりを頼りに、灯油用コンロのラジウスの火をおこし、湯をわかし、粉ミルクをつくる。そのうちに、夜が明ける。砂漠の上にポコッとのったような形の岩山の向こうから朝日が昇る。こうして、サハラ最奥のオアシス、タマンラセットへの長く、苦しい1日がはじまった。

 野営地を出発し、日が高くなると、気温はグングンと上昇する。8時32度、9時35度、10時38度、11時には40度を超える。車内の暑さといったらなく、ショルダーバッグの金具など、熱くてさわれないほどだ。優子は顔をまっ赤にして、妻の洋子の腕の中で眠っている。目をさますと、

「ブー、ブー」

 といって水を欲しがり、水筒の水をガブ飲みする。気温の上昇とともに、子供の体温も上昇してしまうのではないかと心配したが、体をさわってみると、ひんやりしている。水をガブガブ飲んで、汗をどんどんかいているのがいいようだ。

 サイードの車は、何度も砂にスタックする。そのたびに一緒に走るトラックに助けてもらたが、あまりにも度重なるので、トラックはもうめんどうをみていられないとばかりに先に行ってしまった。それからというものは、砂に埋まるたびに炎天下で砂を掘り、死にものぐるいで車を押した。どうしても砂から脱出できないときは、なすすべもなく砂の上に座りこんでしまうのだが、幸運なことに、そのたびに通りがかりのトラックに助けてもらった。

 優子はこの厳しい自然環境のなかでも、すこぶる機嫌がよかった。眠りたいときには眠り、目をさませば、車の窓からサハラの風景を見て喜んでいる。車がスタックすれば、焼けつくような砂の上でも、ゴツゴツした石の上でも、平気な顔をしてはいずりまわっている。砂をかきまわしてはおもしろがり、小石をポンポン投げてはおもしろがている。世界最大の砂漠を自分の砂場にしている優子にとっては、暑さも乾きも、まったく苦にならないようだった。

 タマンラセットまであと200キロほどの地点で、2晩目の野営をした。

 サイード夫妻もぼくたちも、食料はほとんど持っていなかった。朝食と昼食は抜き、夕食はカチンカチンになったパンにジャムをつけて食べた。優子は粉ミルクだけ。2晩目の夜は、野宿に慣れたこともあるのだろう、シュラフを敷くと、待ってましたといわんばかりに喜び、優子は早々と寝た。

 インサーラを出発して3日目、一番心配していた子供の優子が、一番元気だ。満足なものはまったく食べられないというのに‥‥。粉ミルクだけで、ほんとうによくがんばっている。

 北回帰線を越え、ホガール山地に入っていく。高原だ、山地だといっても、まったく緑は見られない。

「地球でないみたい。空気があるのが不思議なくらい」

 という妻の洋子の言葉に、実感がこもっていた。

 夕方、インサーラから650キロのサハラ最奥のオアシス、タマンラセットに着いた。地中海のアルジェからは、2000キロの距離だ。人も車も荷物も、すべてが砂まみれ。この町で唯一のホテルに泊まる。まずは子供の優子の体を洗ってあげたかった。だが、インサーラと同じで、いくら蛇口をひねっても、まったく水は出てこない。配給されたポリタンの水を大事につかわなくてはならない。その水で優子の頭を洗うと、砂まじりの泥水が流れ落ちてくる。着ている服は砂と汗でゴワゴワになり、まるで雑巾のようだ。

 ホテルのレストランでは、サイード夫妻と夕食をともにした。冷たい水がうまい。スープの塩味がなんともいえない。クスクスとオムレツをむさぼるようにして食べたが、それは優子も同じで、スープの皿をいつまでも離さなかった。

 タマンラセットからも、ひきつづいて、サイード夫妻の車に乗せてもらった。アルジェリアから国境を越えてニジェールに入り、1000キロの道のりに5日かかり、アガデスに到着した。ぼくたちは子連れのサハラ縦断を無事に成しとげ、その名も「サハラ」というホテルに泊まり、サイード夫妻とともに祝杯をあげた。サイード夫妻は「ホテル・サハラ」に1泊すると、ニジェールの首都ニアメーに向かっていった。2人はそこで車を売り払い、フランスに帰るという。

 ぼくたちは、サハラ砂漠の南側の玄関口といっていいアガデスで家を借り、1ヵ月あまり滞在した。

衝撃の西アフリカ

 アガデスに滞在するようになってからというもの、日ごとに、妻の洋子の具合が悪くなっていった。胸がムカムカし、気持ちが悪くてしょうがないという。食欲もすっかりなくなり、1日中、何も食べないようなこともあった。

「おいしいラーメンを食べたい。あったかいご飯に塩辛とかタラコとか納豆で食べたい。お豆腐の味噌汁を飲みたい」

 という、そんな妻の言葉に胸がしめつけられるような思いだ。食べ物にすっかりまいってしまった洋子は、ホームシックにもかかっていた。長旅の、それも子連れの貧乏旅行の疲れが、すでに、体のすみずみにまで淀んでいた。

 アガデスを出発する直前になって、洋子は自分の体の具合が悪いのは、病気ではなく、妊娠したためだと判断した。それを聞かされたときは、あわてふためいた。子供ができるという喜びよりも、えらいところで妊娠したものだというとまどいのほうが大きかった。優子は母親の異常を敏感にかぎとっていた。わざとスネたり、オシッコをもらしたりしてことさらに母親の目を引こうとした。意識してなのか、無意識なのか、洋子のお腹をたたいたり、蹴とばそうとする。

 なんとも無謀な話だが、ぼくたちは、このままアフリカの旅をつづけることにした。アガデスからナイジェリアのラゴスへとさらに南下していくのだが、とにかく流産しないようにと、天にも祈るような気持ちだった。

 覚悟を決めてアガデスを出発。450キロ南のジンデールまでバスに乗る。2日がかりのバスの旅だが、これがすさまじい。トラックを改造したバスは70人近い超満員の乗客を乗せ、炎天下のガタガタ道を突っ走る。路面の穴ボコに落ちるたびに、バーン、バーンと車体は跳びはね、体も宙に浮く。まわりの乗客たちはキャッキャッいっているが、洋子は「赤チャンが落っこちる」と、悲愴な顔つきだ。すこしでもショックをやわらげようと、シュラフを荷物の中から引っぱりだし、木の座席の上に敷いた。

 優子はムーッとする車内の暑さも、ぎゅう詰めの混雑も、ちっとも気にならないという顔つきで窓の外を見ている。遊牧民ラクダを見つけると「パカパカ」がいると1人で喜んでいる。

 450キロの道のりをのり越え、無事にジンデールに着いたとき、洋子はうれしそうな顔をした。すぐさま、町の中央にある「ホテル・セントラル」に行ったが、アガデスの「ホテル・サハラ」とは、比べものにならないくらいに設備が整っていた。部屋に入ると、さっそくシャワーを浴びる。湯がふんだんに出る。3人ともすっかりきれいになったところで、ホテルのレストランで食事にする。洋子と乾杯!

ラゴスまでがんばろう」

 と、はげましあった。

 おいしい食事だった。フランス風味つけのフルコース。デザートはアイスクリーム。

 優子はこんなにおいしいものがあったのか、といわんばかりの顔つきで、アイスクリームにかぶりついている。この「ホテル・セントラル」での滞在で元気を取り戻した。

「カノ→ラゴス」のすさまじい列車

 ジンデールからナイジェリアのカノまでの250キロは、乗合タクシーに乗った。

 カノからラゴスまでは30時間の列車の旅。これがきわめつけのすさまじさ。列車が進入してくると、大勢の乗客はホームを駆け降り、列車の来る方向に走っていく。一刻も早く、列車に飛び乗ろうとしているのだ。ぼくも洋子と優子をホームに残して走った。列車がガクッとスピードを落としたところで飛び乗り、必死の思いで、座席を2つ確保した。列車がホームに入ると大声で洋子を呼ぶ。すばやく荷物を窓から投げ入れてもらう。そのあと、優子も窓から投げ入れる。優子はまるで荷物のように手荒く扱われたので大泣きしているが、今はそれどころではない。

 座席を確保し、木製の荷物棚も確保したところで、洋子がやってきた。無事に席をとれたし、荷物も盗まれなかったし、すべてがうまくいったと、手をとって喜び合った。ひと息ついたときに、洋子に「財布は大丈夫?」と聞かれ、あわてて上着の内ポケットに手を入れてみると、見事に抜き取られていた。パスポートやトラベラーズチェックは無事だったのでひと安心。とはいっても、ナイジェリアの通貨ナイラを一銭も持たずにラゴスまで行かなくてはならなかった。

 午前10時、定刻通りに列車は動き出す。窓からほうりこまれ、座席を取り合う車内の騒然とした空気におびえ、大泣きしていた優子だったが、列車が動き出すと泣きやんだ。車窓を流れていく北部ナイジェリアのサバンナの風景を眺めているうちに、だんだんと機嫌がよくなっていった。

 身動きがとれないほど混雑している車内は、ムンムンする暑さだった。優子は汗をタラタラ流しながら、ブーといって、しきりに水を催促した。列車が駅に長く停まっているときは、窓から飛び降り、優子にオシッコさせたり、すばやくキャンピングガスで湯を沸かし、粉ミルクをつくった。最初はどうなることかと心配したが、なんとかラゴスまで行けそうだ。

 日が落ちると、窓から気持ちのよい風が入ってくるようになった。膝の上にパンやモロッコ製のサディーンのかんづめ、オーストラリア製のチーズのかんづめを並べ、夕食にする。優子はチーズが好物で、何枚も食べた。お腹がいっぱいになると、眠いという仕種をし、ぼくと洋子の膝の上にゴロンと横になる。横になるやいなや、もう、スヤスヤと眠りはじめた。優子は旅していくなかで、すっかり旅の毎日に順応できるようになっていた。何でも食べ、眠くなれば、どんなところでも眠ることができるようになっていた。

 夜明けに列車は西アフリカ最大の大河、ニジェール川(ナイジェリアだと発音はナイジャー川になる)を渡る。長い鉄橋。列車の鉄橋を渡る轟音で目がさめた。昇る朝日を見て驚いた。乾燥地帯の朝日とは違って、たっぷりと水分を含んだような、うるんだ朝日の色合いなのだ。雲も多い。朝日に照らされた原野は、緑が一段と濃くなっていた。

 列車が南下するにつれ、いつしか風景はサバンナから熱帯雨林に変わっていた。油ヤシの木々が空を突き、ゴムやカカオの農園も見られる。焼き畑で森林を伐り開いたキャッサバの畑も見られる。乾燥したアフリカから、湿潤なアフリカへと世界は大きく変わった。 列車は夕方にはラゴスに着くはずだったが、大幅に遅れ、ラゴス到着は午後10時。カノから36時間の、なんともきつい列車の旅。ホームに降り立つと、まずは、洋子とガッチリ握手をかわした。地中海のアルジェから5000キロの距離を乗り越えてアフリカ大陸を縦断し、ついにギニア湾ラゴスに着いたのだ!

 ラゴスからは、ほんとうは赤道アフリカを横断して東アフリカに出るつもりでいた。だが、日に日にお腹の大きくなっていく洋子をみると、それはとてもではないが、無理な話で、ラゴスから飛行機でケニアのナイロビに飛んだ。

 東アフリカは旅人にとっては快適なところで、西アフリカからやってくると、地獄から天国にやってきたような気分。もうひとつ、うれしいことは、優子がヨチヨチ歩きができるようになったことだ。

 最初の計画ではケニアのナイロビからインドのボンベイに渡り、カルカッタを旅の最終地点にするつもりでいた。そのためナイロビでの出産も一時は考えたが、どうしてもそこまでのふんぎりがつかず、ナイロビを旅の最終地点にし、1978年2月25日に日本に帰ってきた。旅立ったときは生後10ヵ月だった優子は、1歳8ヵ月になっていた。