賀曽利隆 STILL ON THE ROAD !

世界を駆けるバイクライダー・賀曽利隆(かそりたかし)。地球をくまなく走り続けるカソリの”旅の軌跡”をまとめていきます。

カソリの峠越え(33) 中国編(16):江川の峠(パート1)

(『月刊オートバイ』1992年10月号 所収)

 

 今回の「峠越え」の舞台は、中国地方最大の河川、江川(江の川)だ。この川はきわめて特異な流れで、中央分水嶺中国山地を突き破り、瀬戸内海側から日本海に流れ出る。このような川は日本中を探しても、ほかにはない。あえて言えば、四国の吉野川があるくらいだ。吉野川四国山脈の南側から北側へと、四国の脊梁山脈をブチ破って流れている。さて今回から3回にわたって、江川をとりまく山並みの峠を越えていく。中国山地は全体にゆるやかで越えやすく、そのため峠の数も多いが、それらの江川を峠をひとつ、またひとつと徹底的に越えてやろうと思っている。

 

まずは「地球元気村」だ!

「江川の峠」に出発したのは1992年5月16日。目的地の中国地方の江川に行く前に、山梨県早川町の「地球元気村」に寄っていく。

 神奈川県伊勢原市の自宅から峠越えの相棒のスズキDR250Sを走らせ、相模湖ICで中央道に入り、甲府昭和ICで高速を降りる。まっすぐ早川町に行くのではおもしろくないので、櫛形山林道→丸山林道と、林道経由で行くことにした。

 櫛形山林道入口近くの自販機でカンコーヒーを飲んでいると、なんとワンダバダ長沢さんのヤマハのDTが止まる。驚いたことに『オートバイ』誌の本多さんやカメラマンの落合さんもやってくる。みなさんも地球元気村に行くところだった。

「旅は道連れ」とばかりに、一緒に櫛形山林道→丸山林道を走り、夕闇が迫るころ早川町の地球元気村の会場に着いた。

 じつはぼくは講師ということで呼ばれていたのだが、1時間あまりの話を終えたあとは参加者のみなさんと焚火を囲んで大宴会。あっというまに日付が変わり、大宴会がお開きになったのは夜が白々と明けかかるころ。それから1時間、焚火のわきでゴロ寝。目をさますとキャンプ仲間の田崎さんと連れだって、目の前を流れる早川で「渓流浴」。身も心もさっぱり。朝食を食べると、20人あまりの参加者のみなさんと一緒にロングダートの雨畑井川林道を走った。山梨・静岡県境の山伏峠ではズラリとバイクを並べて昼食。弁当を食べながら、話はおおいにはずんだ。静岡県側の井川で折り返し、もう一度、山伏峠を越えて夕方、地球元気村に戻った。そこで連泊するみなさんと別れ、R52で韮崎へ、韮崎ICから中央道→名神中国道と夜通し、高速道を走った。猛烈な睡魔との戦だ。

 

真っ平なR54の上根峠

 三次ICで中国道を降りると、「江川の峠」の拠点となる三次の町に入っていく。眠くて、眠くて死にそうになるくらい眠い思いをして三次まで走りつづけたが、

「いよいよこれから、峠越えがはじまる!」

 と思うと、眠気などいっぺんに吹き飛んでしまう。人間の体というのは不思議なものだ。

 三次盆地の中心地、三次はまさに「江川の町」。ここで江川の本流と、支流の神野瀬川西城川、馬洗川が合流する。まるであっちからも、こっちからも…という感じで大きな川が三次に流れ込んでくる。それだけに三次は昔から、大水害に泣かされてきた。

 ところで全長194キロの江川は中国地方最大の河川だが、三次よりも上流は可愛川(えのかわ)と呼ばれている。この可愛川に沿ってR54を走りはじめる。

 R54は太平洋(瀬戸内海)側の広島と、日本海側の松江を結ぶ幹線で、交通量が多い。天気は晴天。DRのエンジン音も快調だ。可愛川の流れを見ながら気分よく走れる。

 甲田、吉田と通り、八千代町に入る手前で可愛川と別れ、R54は支流の簸ノ川沿いの道になる。そのまま簸ノ川に沿って走る。簸ノ川は次第に小さな流れになり、やがて上根峠に到達。そこには大きな「分水嶺」の案内板が立っている。日本海に流れ出る江川の水系と瀬戸内海に流れ出る大田川の水系を分ける分水嶺だ。

 上根峠は本州を二分する中央分水嶺の峠なのに、ほぼ真っ平な地形をしている。

「えー、ここが峠?」

 と、首をかしげたくなるほど。

「ここが峠ですよ」

 と教えてもらわないことには気がつかないまま、スーッと下っていってしまう。

 平坦な峠の風景を目に焼き付け、可部へと下っていく。広島側の下りは急勾配。可部の町を走り抜け、広島の中心街まで行ったが、上根峠から広島の中心街までは20キロもない。日本海に流れ出る江川の水系は、広島のすぐ近くまで来ていることに驚かされてしまう。

 

江川支流の峠越え

 広島の中心街から可部まで戻ると、JR可部線可部駅近くの食堂で昼食。カソリの定番「ラーメン・ライス」を食べ、R54を引き返し、再度、上根峠を越える。

 八千代町の中心、佐々井を過ぎたところでR54を左折し、江川本流の可愛川に沿って走る。土師ダムのわきを通り、千代田町に入る。同じ「えのかわ」でも、可愛川から江ノ川に名前が変わる。

 千代田でいったん江川の本流を離れ、支流の峠を越えていく。

 まずは支流の冠川に沿ってR261を南下し、明神峠を越える。峠のあたりだけがスポーンと抜けたような地形で、ゆるやかな登り。中国道も国道のすぐわきを通っている。峠が千代田町広島市の境。さすが100万都市の広島だけあって、広島市に入ると急に交通量が増える。急勾配の峠道を下るとR191に出た。大きく蛇行して流れる大田川に沿ってR191を走り加計へ。険しい山並みが町の背後まで迫っている。

 加計で大田川の本流を離れ、R433で千代田に向かう。加計の町を出るとすぐに山中に入り、国道とはとても思えないような狭い道を走る。

 豊平町に入り、ひとつ目の峠を越えると道幅は広がった。

 豊平町の中心地を過ぎると、2つ目の峠を越える。国道のわきには「分水嶺」と彫り刻まれた立派な石碑が建っている。それには「山県郡豊平町中原 標高509m」とある。それとは別に、「陰陽分水嶺」と表示されたポールの立っている。陰陽分水嶺というのは、日本海側の山陰と瀬戸内海側の山陽を分ける分水嶺という意味だ。

 これらR433の2つの峠には名前はついていない。

 2つ目の峠を下っていくと、江川本流の江ノ川の支流、志路原川の流れに出る。志路原川の流れに沿って下り、千代田に戻った。

 

広島・島根県境の峠

 千代田では中国道の千代田ICにも近い千代田温泉に泊まった。ここは日本一の温泉。何が日本一かというと、信じられないのだが1泊2食2700円で、ぼくの知るかぎりでは「日本一安い温泉宿」なのだ。

 それもただ安いだけではない。温泉は黄土色した鉄分を多く含んだ放射能泉で、みるからに体に効きそう。地元の人のみならず、遠方からの人もやってくる。食事にしても夕食には5品の料理が出たし、部屋も大部屋でゴロ寝というのではなく、一人一人の個人用の部屋で気分よく眠れた。

 翌朝は朝湯に入り、朝食を食べて出発。千代田からR261を北へ、広島・島根県境の中三坂峠に向かった。

 その前に、R261を右折し、R433で千代田町美土里町の境の峠まで行ってみる。深い森の中を曲がりくねって登っていくR433は、とても国道とは思えないような狭い道。交通量もほとんどなく、時たまブラインドのコーナーで対向車とすれ違った時などはヒヤッとした。名無しの峠まで登ったところで引き返し、R261に戻った。

 ふたたびR261を北へ、千代田町から大朝町に入る。浜田道の大朝IC入口の交差点を右折。そこで江川本流と別れ、中三坂峠に向かっていく。峠近くの鳴滝温泉(入浴料700円)に入ったあと、広島・島根県境の中三坂峠を貫くトンネルを抜けて島根県に入った。

 島根県側を下り、JRバスの田所駅まで下ったところでR261を右折し、もうひとつの島根・広島県境の峠、亀谷峠を登っていく。

 亀谷峠を越える道は亀谷林道なので、

「よーし、これでダートを走れるぞ!」

 と期待したが、残念ながら全線が舗装されていた。

 島根・広島県境の峠には「従是南 安藝国」と彫られた石碑が建っている。R261の中三坂峠にしても、この亀谷林道の亀谷峠にしても、旧国名でいうと安芸国広島県の西半分)と岩見国(島根県の西半分)の国境の峠ということになる。

 広島県側へと亀谷峠を下り、杉林を抜け出ると、谷間の水田地帯に入った。田植えの終わった水田の美しさといったらなく、「おー、これぞ日本!」と、思わず声が出た。

 

江川源流の三坂峠

 中三坂峠、亀谷峠と2つの広島・島根県境の峠を越え、ふたたびR261の大朝IC入口の交差点に戻ってきた。今度はその交差点を直進し、県道5号を行く。いよいよ、三次からずっと追いかけてきた江川源流の三坂峠に向かうのだ。大朝の町並みを抜け、江ノ川の流れに沿って走る。江ノ川の流れはみるみるうちに小さくなり、サラサラと水音をたてて流れる小川に変わる。

 谷間に点々とつづく集落が途切れると山中に入り、やがて三坂峠への登りがはじまる。そして標高555メートルの三坂峠に到達。峠はスノーシェルターで覆われている。冬にはかなりの雪が降るという。この三坂峠こそが中国地方第一の大河、江川の源なのだ。

 今でこそ時代から取り残され、忘れられてしまったような峠だが、かつてはこの地方では一番重要な峠だった。江戸時代、岩見の浜田藩大名行列はこの三坂峠を越えていた。 ところでR261の中三坂峠と亀谷林道の亀谷峠、県道5号の三坂峠のこれら広島・島根県境の3峠は「三三坂」と呼ばれていた。

 安芸と岩見を結ぶ3つの三坂峠という意味だ。

「三三坂」を区別するために、県道5号の三坂峠は「市木三坂」、R261の中三坂峠は「中三坂」、亀谷林道の亀谷峠は「亀谷三坂」と呼ばれていた。

「市来三坂」は島根県側の峠下の集落が市木、「亀谷三坂」の島根県側の集落が亀谷、「中三坂」は「三三坂」の真ん中なのでそれぞれの名がある。

 

三坂峠の「お蓮と勘兵衛の墓」

 三坂峠を越え、島根県側の瑞穂町を下ったところには、「お蓮と勘兵衛の墓」がある。そこに立つ案内板には次のように書かれている。

浜田藩下役人同心某の妻、お蓮と、使用人の勘兵衛が恋仲になり、駆け落ちして三坂峠を越え、芸州の大塚(三坂峠の峠下の集落)まで逃げたが、後を追う夫某に捕まってしまう。2人は晴れて夫婦にしようという夫某の甘言にだまされ、この関所まで連れ戻されたが、それぞれ首を切られてしまった。夫某はその首を持って市木の代官所に立ち寄り、弔料を置いて浜田に帰った。お蓮と勘兵衛を哀れに思った市木の庄屋は、村人たちとともに2人を手厚く葬ったという」

 三坂峠を舞台にした男と女のなんとも悲しい物語だが、それとともに三坂峠を越える街道が関所を置くほど重要だったことがわかる。

 三坂峠を下り、峠下の市木の集落に入っていく。街道沿いには古い家並みがつづく。それとは対照的に、集落のすぐ後には浜田道の巨大な橋脚が林立している。

 市木からR261に出ると、国道沿いのねこ湯温泉でひと晩、泊まった。ここはおじいさん、おばあさんの老夫婦が細々とやっている一軒宿の温泉だ。

 老夫婦の話が心にしみた。

「ここは山の中ですから、いろいろな動物がやってきます。キツネ、タヌキ、イノシシ、そしてクマもすぐ近くまで来ます。サルも。サルは私たち夫婦をバカにして、悪さをするのですよ。ニワトリは放し飼いにしています。夜は木に止まって寝ています。生んだタマゴを集めるのはちょっと大変…」

 朝食には、その放し飼いにしているニワトリの生んだタマゴが出た。自然そのまんまのタマゴといった感じで、感動も一緒に味わった。

「今ではすっかり村の人口も減りました。年寄りの一人暮らしが増えました。昔は年寄夫婦と子供夫婦、孫たちが一緒に住むのがあたりまえだったのだけど、時代がすっかり変わってしまいました」

 ねこ湯温泉を出発する時、おばあさんはマタタビ酒を持たせてくれた。

「これはね、とっても体にいいのよ。元気が出ます。昔からまた旅(マタタビ)に出られるなんていいますよ」

 ねこ湯温泉の老夫婦に別れを告げ、R261で中三坂峠を越えて千代田へ。こうして江川本流の峠越えを終えると、R54で出発点の三次に戻るのだった。