カソリの食文化研究所:第5回 岡崎編
(『ツーリングGO!GO!』2002年12月号 所収)
皆さんは毎朝、どんな味噌汁を飲んでいますか?
我々にとって味噌はあまりにも身近なもの。ふだんは意識することなく使ったり、味わったりしているが、じつはこれが大変なシロモノなのだ。
地域差が色濃く出る味噌は、日本の食文化の核心にふれるようなものといっても過言ではない。
その味噌の中でもとくに個性が強く、独特なのが三河の赤味噌。その代表選手が岡崎の「八丁味噌」なのである。 静岡編の「安倍川餅」や「丸子のとろろ汁」が東海道とは切っても切れない関係にあるのと同じように、この八丁味噌も東海道ときわめて深く結びついている。
ということで、静岡からさらに国道1号(東海道)を西へ。
愛車スズキDJEBEL250XCを走らせ、愛知県に入り、岡崎に向かった。
「目指せ、八丁味噌!」
岡崎に到着すると、まっさきに岡崎城のある岡崎公園に行った。
徳川家康ゆかりの岡崎城入口には、
「人の一生は重荷を負うて、遠き道をゆくがごとし。いそぐべからず。不自由を常とおもえば‥」
で、はじまる有名な家康の遺訓碑が、亀の石像の上に建っている。
さすがに石都、岡崎。家康の遺訓碑は見事な細工の花崗岩でつくられている。
岡崎城の天守閣に登る。そこからの眺めはすばらしい。東に目をやると、ビルが建ち並ぶ岡崎の中心街の向こうに、ゆるく波打つ三河高原の山々が見える。反対に西に目を向けると、矢作川の流れが光り輝き、その向こうには濃尾平野へとつづく平原が茫漠と広がっている。高原と平野。岡崎は両者の接点にあり、岡崎を境に、風景は鮮やかに変わる。
岡崎は城下町であるのと同時に、東海道の要となる宿場町。東海道筋では駿府(今の静岡)に次ぐ賑わいをみせていた。
辛口の赤味噌の代名詞のような「八丁味噌」の起源は遠く室町時代までさかのぼるといわれているが、東海道を行き来する旅人たちによって、その名が全国に広められていったのだ。
「さー、八丁味噌の食べ歩き、開始だ!」
と、カソリ、気合十分で岡崎城前の茶店に入る。
まずは店の創業の「延元2年」に驚かされた。聞いたこともないような年号なので、いつも持ち歩いている愛用の「歴史手帳」で年号を確認すると、なんと延元は南北朝時代の南朝方の年号。延元2年というと、今(2002年)から666年も前のことになる。
ここでは、さらに驚かされた。
おでんを頼むと、串刺しにしたコンニャクの田楽が出た。
それにはたっぷりと八丁味噌に砂糖を混ぜたタレがかかっていた。
次に関東煮を頼んだ。関東煮といえば、やはり、おでんのことである。何が、どう違うのか、興味津々。出てきた関東煮は、いわゆるおでんで、それにはコンニャクとタマゴ、チクワ、ハンペン、ゴボウマキの5種があった。これら関東煮も辛子ではなく、八丁味噌のタレをつけて食べる。
ここでぼくが驚かされたのは、その言葉づかいだった。ここでは田楽だけをおでんといっている。
おでんは漢字で書くと「御田」。御田は田楽に御をつけた「御田楽(おでんがく)」を略した言葉なのだが、御田楽が御田になったという、おでんの歴史にかかわる古い言葉づかいがここには残されていた。
それともうひとつ、「関東煮」も興味深かった。
関西では「かんとだき」といってるが、関東と関西の中間に位置する岡崎では「かんとうに」なのである。
岡崎城内でおでんと関東煮を食べたあとは、中岡崎駅前のうどん店「釜春」で八丁味噌を使った「味噌煮込みうどん」を食べた。
日が暮れると、東岡崎駅近くの屋台「萬楽」で「どてやき」を食べた。八丁味噌で甘辛くした汁で串刺しにした牛もつをグツグツ煮込んだもの。
屋台のおばあちゃんの伊奈美代子さんはここで50年、ずっとどてやきをつくりつづけている。
「この鉄鍋はね、20年もの間、洗ったことがないのよ」という。
まさに食の年輪だ。
八丁味噌は肉料理には、ことのほか合う味噌である。肉のくさみを消し、臓物までも、まるで別物のような味に仕立て上げてしまう。
岡崎でどうしても食べたかったのが、八丁味噌の「焼き味噌」だ。
徳川家康は「湯漬けに焼き味噌!」といって大好物にしていたという。ぼくも同じものを食べたいのだ。といいっても食堂のメニューにはない。
で、電話帳を頼りに、「あのー、朝食に焼き味噌をつくってもらえませんか‥」と、岡崎市内の何軒かの宿に電話した。10軒近く電話したが、ことごとく断られた。
「よし、これで最後だ」と電話した本宿駅近くの旅館「梅忠」では、ついに快く引き受けてくれた。
翌朝の朝食では、焼き味噌の半分を熱いご飯の上にのせ、もう半分は湯漬けにした。立ちのぼる湯気とともに、八丁味噌の香りがほんのり鼻をつく最高のうまさ。
宿の女将さんは「ウチの孫も東京から帰ると、いつも(八丁味噌の)焼き味噌と味噌汁があれば、もうそれだけでいいっていってますよ」というのだった。
こうして八丁味噌を使った料理をひととおり食べたところで、角九印で知られる「八丁味噌」の工場を見学した。
岡崎市の八帖町にあるが、ここはかつての八丁村。岡崎城から東海道を西へ、ほぼ八丁(約870m)の距離に位置しているからだ。八丁村産の味噌なので、いつしか八丁味噌といわれるようになった。
味噌は煮たり蒸したりした大豆に食塩と麹を加え、大豆のたんぱく質を分解させてつくる調味料。大きく分けると、米麹を使う米味噌と麦麹を使う麦味噌、それと八丁味噌のように蒸した大豆に直接、種麹をつけ、豆麹からつくる豆味噌がある。
日本列島はこれら3種の味噌できれいに色分けできる。
そのうち“豆味噌圏”というと、愛知県のほかには静岡県西部、岐阜県南部。三重県北部に限られる。
「八丁味噌」の工場見学でのハイライトシーンは味噌蔵。塩と水の混ぜられた豆麹は30石(約5400リットル)の大桶に仕込まれるが、このような仕込み桶が薄暗い味噌蔵にズラリと並んでいる光景はアッと息を飲むほどに壮観だ。
その数は700桶。1桶からは約6万トン(30万人分の味噌汁をつくる量)の八丁味噌ができるという。
豆味噌の原料は大豆と水と塩。
岡崎の旧八丁村は、これら豆味噌のすべての原料に恵まれていた。矢作川流域は、“矢作大豆”で知られた大豆の名産地。水はといえば、岡崎周辺は伏流水が流れ、地下水が豊富で、いくらでも良質な水が得られた。さらに塩といえば、矢作川河口近くの三河湾に面した吉良は古くからの塩の産地で、吉良産の三州塩の入手が容易だった。さらに製品の出荷にも東海道の陸運があり、矢作川の船運があった。
八丁味噌は水分も塩分も少ない堅い味噌である。そのため日持ちがよく、兵糧食としては最適で、栄養価の高いチーズを持ち歩くようなもの。
三河武士の強さの秘密は“八丁味噌”といった説もある。徳川家康は合戦になると、
「さー、戦だ。味噌を集めよ!」
と、岡崎城下に大号令をかけたという。
豆味噌と同じタイプの味噌は世界でも朝鮮半島にだけ、見られるという。味噌は朝鮮語の蜜祖(ミソ)からきた言葉だという説もある。それはともかく、朝鮮半島から伝わったとされている味噌づくりの原型をもっとも忠実に受け継いでいるのが豆味噌なのだ。
岡崎で得た結論は「味噌は限りなく奥が深い!」ということだった。