賀曽利隆 STILL ON THE ROAD !

世界を駆けるバイクライダー・賀曽利隆(かそりたかし)。地球をくまなく走り続けるカソリの”旅の軌跡”をまとめていきます。

シルクロード横断:第42回:チャールース→アルダビール

 チャールース郊外の「エンゲラブカザールホテル」に泊まったが、朝は起きるなり、カスピ海の砂浜を歩いた。水平線を眺め、小波の音を聞く。たまらない早朝の散歩だ。

 ホテルでの朝食を食べ8時30分、出発。カスピ海沿岸の道を走る。

 カスピ海の沿岸には町々がつづく。そしてラムサールの町に入っていく。ここには「ラムサール温泉」があるが、残念ながら温泉に入っている時間はなかった。

 ラムサールはカスピ海の海岸沿いの町で、どこまでもつづく海岸線が美しい。背後はエルブルズ山脈の山並み。この地を愛したパーレビ1世は緑豊かな丘陵地に宮殿を建てた。

 ぼくが1971年の「世界一周」でイランを横断したころは、パーレビ王朝の全盛期。「日本に追いつけ追い越せ」と高度経済成長の道を突き進んでいた。その後のイスラム革命で王政は倒されてしまうが、ラムサールの町を走りながら、そんなパーレビ王朝時代をしのんでみるのだった。

「ラムサール」といえば、湿原保護の国際条約の「ラムサール条約」で有名だ。日本でも東北の水鳥の楽園、伊豆沼などがラムサール条約の登録湿地になっている。

ラムサール条約」というのはイランの「ラムサール」にちなんだもの。イスラム革命以前の1971年2月2日、この地で初めて世界の湿原保護の国際会議が開かれ、それがラムサール条約へとつながっていった。

 その日はチャールースから200キロのラシュトで泊まった。

 13時という早い到着で、町中の「カドゥスホテル」に泊まると、町を歩きまわった。 この日は金曜日なので休日。ほとんどの店は閉まっていた。開いてる食堂をみつけ、昼飯を食べ、そのあと市場を歩いた。この町は第1次大戦中、ロシアに侵略され、廃墟になるといった悲惨な歴史を持っている。ホテルに戻ると夕食。ライス&煮込み。羊肉とトマト、ナス、レンズ豆の入った煮込みだ。

 

 夕食後は部屋で仲間の「久クン」、「良輔クン」とウォッカパーティー

「一気、一気!」で、さんざん飲んで酔いつぶれた…。

「久クン」とは「ユーラシア横断」を一緒に入った。

「良輔クン」は今回の参加者の最年少!

 翌日はアゼルバイジャンとの国境の町、アスターラーへ。町中を国境線が通っている。町の南半分はイラン、北半分はアゼルバイジャンだ。

「う~ん、たまらん!」。

 国境線を見ると、異様に興奮するカソリ。イランから国境を越えてアゼルバイジャン、そしてロシアへとカスピ海西岸のルートを北上したくなった。さらにコーカサスの国々にも…と、想いは飛んでいく。

 アスターラーでは市場を歩き、今回の旅で一度は食べてみたいと熱望していた「キャビア」をついに手に入れた。100グラムで120USドル。さらにカンビールも手に入れた。これらは昨夜、ウオッカパーティーをした「久クン」「良輔クン」とシェアーしたもの。これで夜が俄然、楽しくなった。

 アスターラーでカスピ海と別れ、アゼルバイジャンとの国境線に沿って山中に入っていく。緑豊かなキャンプ場で昼食。中国製のインスタントラーメンを食べた。

 今晩の宿泊地、アルダビールに到着したのは16時30分。ラシュトから300キロ、標高1300メートルの高原の町だ。「ダリアホテル」に泊まり、町を歩いたあと、19時から夕食。麦入りスープを飲み、ライス&カバブーを食べた。

 そのあと部屋で「久クン」、「良輔クン」の昨夜のメンバーと「キャビアパーティー」だ。ナンにキャビアをのせたり、カバブーと一緒に食べたり、ご飯と一緒に食べたり、日本の海苔に包んで食べたり…と、手を変え品を変えて食べた。その結果、「ナン・キャビア」が一番良かったように思う。

 100グラムのキャビアは3人で食べても十分なほど。アルコールが手に入らないイランなので、久しぶりに飲むカンビールがうまかった。

ラシュトの町を歩く

ラシュトの町を歩く

大勢の人たちがバイクに乗ってやってくる

大勢の人たちがバイクに乗ってやってくる

アスターラーの町の市場に並ぶカスピ海産の魚

アスターラーの町の市場に並ぶカスピ海産の魚

カスピ海産のキャビア

カスピ海産のキャビア