賀曽利隆 STILL ON THE ROAD !

世界を駆けるバイクライダー・賀曽利隆(かそりたかし)。地球をくまなく走り続けるカソリの”旅の軌跡”をまとめていきます。

カソリの峠越え(8) 九州編(8):熊本・宮崎県境の峠(パート1) (Crossing Ridges in Japan: Kyushu Region)

 (『月刊オートバイ』1988年3月号 所収)

 

 南九州の第2弾目は熊本・宮崎県境の峠だ。

 九州の背骨、九州山地を越える峠は、どこも迫力満点。最初に、九州ナンバーワン林道の内大臣椎葉林道で椎矢峠を越えたが、ダート39キロの峠越えルートは“オフロード大好き派”にはこたえられない。

 

 その南の椎葉越は宮崎県側の椎葉と熊本県側の五家荘を結ぶ峠。椎葉も五家荘も、ともに平家の落人伝説の地。椎葉越は椎葉と五家荘という両秘境を結ぶ“秘境ルート”の峠なのだ。

 

 最後に米良の峠を越えた。椎葉、五家荘、米良といえば“九州の三大秘境”といわれるほどで、九州山地の山懐にいだかれた村々はどこも心に残るところばかりだった。

 

九州ナンバーワン林道

 今回の出発点は、熊本だ。峠越えの相棒、スズキDJEBEL250XCのエンジンをかけ、日本の名城、熊本城前を走り出し、国道3号を南へ。松橋で国道218号に入っていく。国道の両側には山々が迫り、山あいの狭い稲田は黄色く色づいている。日本の秋の風景だ。

 

 砥用町に入ったところで、緑川にかかる石橋の霊台橋を歩いて渡る。長さ90m、幅5m、高さ18mのこの石橋は、江戸時代末期につくられた。見事な石組の石橋だ。

 

 矢部町に入ると、轟川にかかる石橋の水路橋の通潤橋を歩いて渡る。この石橋も江戸時代末期につくられたもので、橋の中央には、3本の水路が通っている。高さ20mの橋の上からの豪快な放水が通潤橋の名物だ。

 

 阿蘇山の外輪山から流れ出る緑川とその支流には、多くの石橋がかかっている。それら石橋は肥後の豊富な石材ときわめて高い技術を持った石工たちの技の結晶で、この地方には全部で100近い石橋が残っている。その代表的なものが霊台橋と通潤橋なのだ。

 

 肥後の石工たちは、日本一の石橋づくりの技を持っていたので、肥後以外でも、各地で石橋をつくった。鹿児島市内を流れる甲突川にかかる石橋も、東京の皇居の二重橋も肥後の石工がつくったもの。肥後の石工の故郷は、「五木の峠」で一番最初に越えた大通峠下の東陽村の種山である。

 

 矢部から国道218号を4キロほど砥用方向に戻り、“内大臣”の標識に従って国道を左折し7キロ走ると、緑川の谷間をまたぐ内大臣橋にさしかかる。橋の上にオートバイを止め、下をのぞき込むと、あまりの谷の深さに目がクラクラしてしまう。川沿いの田では稲刈りの最中で、日本の秋をしみじみと感じさせた。

 

 内大臣橋を渡り、いよいよ、九州ナンバーワン林道の内大臣椎葉林道に入っていく。内大臣川に沿って走る。小刻みなコーナーが連続する。赤トンボが飛びかい、ススキの穂が秋の日差しを浴びて銀色に光っている。

 

 内大臣川の流れを離れると、熊本・宮崎県境の椎矢峠に向かってグングンと高度を上げていく。かなりラフな路面で、石コロをバンバンはね飛ばしながらDJEBELを走らせる。このあたりは九州山地でも最も山並みが高く険しいところで、九州山地の最高峰、国見岳(1739m)のすぐ近くを通る。

 

 熊本・宮崎県境の椎矢峠に到着。峠から熊本県側に目をやると、雲仙・普賢岳がはっきりと見える。峠を越え、宮崎県椎葉村に入り、耳川の源流へと下っていく。峠を境に、熊本県側の内大臣林道から宮崎県側の椎葉林道になる。路面の状況がぐっとよくなり走りやすくなる。峠近くの山々は赤や黄色に色づきはじめ、DJEBELにのりながら、日本の秋を味わった。

 

 連続ダート39キロの内大臣椎葉林道を走りきり、舗装路に出、耳川にかかる橋を渡った。耳川に沿って走ると、やがて上椎葉ダムのダム湖、日向椎葉湖が見えてくる。湖畔のクネクネと曲がりくねった道を走り、椎葉村の中心、上椎葉に着いた。

 

椎葉から五家荘へ

 椎葉は関東の湯西川や北陸の五箇山、四国の祖谷などと同じ平家落人伝説の地。壇之浦の合戦で源氏に敗れて滅んだ平家の残党がこの地に逃げ落ちた。ここには平家屋敷の「鶴富屋敷」がある。

 

 平家の残党を追って椎葉までやってきた那須与一の弟、大八郎宗久は、落人たちが山里でひっそりと農耕をしながら平和に暮らしているのを見て討つのを断念し、数年をこの地で過ごしたのち鎌倉に帰っていった。

 

 美しい平家の娘、鶴富姫は大八郎の子を宿し、その子が那須姓を名のり、代々、この地に那須家がつづいた。今でも椎葉には那須姓が多い。

 

 鶴富屋敷を見学する。

「那須の大八鶴富捨てて 椎葉立つときゃ目に涙‥‥」

 と、「ひえつき節」の歌が流れてくる。哀愁をおびた歌で、歴史の無常をも感じ、胸がジーンとしてくる。この平家屋敷は椎葉の代表的なつくりでゴザ、デイ、ツボネ、ウチナイの4部屋とドジと呼ぶ土間からなっている大きな家だ。

 

「鶴富屋敷」に隣り合った「椎葉村歴史民俗資料館」には村内の落人の家に代々伝わる鎧や兜、刀などが展示されている。

 

「鶴富屋敷」前の食堂「平家の里」で、雑穀のキビが入ったキビ飯をうどんと一緒に食べて熊本・宮崎県境の2番目の峠、椎葉越に向かう。椎葉五家荘林道峠で、何年か前に走ったときは20キロのダートコースだったが、今では全線が舗装されている。

 

 椎葉は山村。山のかなり上のほうまで集落がある。

 猫の額ほどの狭い山の畑では、アワの穂が重そうに頭を垂れている。キビも見られる。日本各地から急速に消えていった雑穀類がこうして見られるのも、伝統的な山地の文化を色濃く残している椎葉らしいところだ。

 

 椎葉越に到着。DJEBELを止め、思いっきり峠の空気を吸う。体の中がスーッと浄化されるような気持ちよさ。峠には“秘境ルート開通”の碑が立っていた。

 

 峠を下っていくと、椎葉と同じように平家の落人伝説が伝わる五家荘に入っていく。五家荘というのは樅木、久連子、仁田尾、葉木、椎原の山深いところにある旧5村の総称。椎葉越えを下ると、そのうちの樅木に出た。

 

 樅木にはV字谷の谷底にかかる「樅木のつり橋」がある。山の上には「平家の里」。資料館を見学。平家の歴史が一目でわかるようになっている。平清盛像がひときは目立つ。資料館を見てまわったあと、茶店で白あん入りの“平家まんじゅう”を食べた。

 

不土野峠を越える!

 椎葉越は往復した。

 五家荘の中央を通る国道445号に出ると、そこを折り返し地点にし、もう一度、椎葉越を越えて椎葉に戻った。そして3番目の熊本・宮崎県境の峠、不土野峠を目指した。

 

 ところが、この不土野峠越えの県道142号は台風の大水にやられ、橋が落下し、通行不能になっていた。そのくらいのことで、不土野峠を諦めるカソリではない。

 

 さっそく『ツーリングマップル』(九州編)のページをめくって作戦を練る。

 ちょうどいい道が1本あった。三方山林道だ。この林道をたどれば不土野峠の近くに出られる。

 

 日向椎葉湖にかかる上福良橋のたもとから三方山林道に入っていく。上福良の集落を通り過ぎると、ダートになる。ところが1キロほど走ったその先はズタズタ状態。大岩がゴロゴロところがり、路面のあちこちに深い亀裂ができ、台風の大雨のすさまじさを見せつけていた。ダートでの走破性抜群のDJEBELをもってしても歯がたたない。

 残念ながら三方山林道を戻らなくてはならなかった。

 

 だが不土野峠は、そう簡単にはあきらめない。

 いったん上椎葉で国道265号に出、飯干峠を越える。そして国道338号で熊本・宮崎県境の4番目の峠、湯山峠を越え、そこから不土野峠まで行くことにした。何が何でも不土野峠に立つのだ。

 

 上椎葉から国道265号を南へ。飯干峠の峠道は、これが国道?と思うほどに幅狭い。峠を下ったところで右折し、今度は湯山峠を越える国道338号に入っていく。夕暮れが迫る。湯山峠を越えると、夕日を浴びた九州山地の第2の高峰市房山(1722m)が見えてくる。

 

 湯山峠を下ったところが、湯山温泉。そこから北へ、不土野峠を目指す。日はとっぷりと暮れる。夜の峠道というのは、何とはなしに不気味だ。杉林が風もないのにザワザワ揺れ、不気味さをよけいに増した。

 

 ついに、熊本・宮崎県境の不土野峠に到達。宮崎側はゲートがしてあって、通行できないようになっていた。

「やったゼ!」

 と、誰もいない夜の峠で雄叫びを上げ、来た道を引き返す。

 

 湯山温泉まで戻ると、「湯山温泉元湯」(入浴料300円)に入る。ホッとした気分。内風呂と露天風呂の湯につかったあと、もう一度、湯山峠を越えて国道265号に出る。南ヘ、椎葉から米良に入ったのだ。

 

なつかしの米良よ!

 西米良の中心、村所の「富士屋旅館」で一晩、泊まり、翌日は米良をまわる。

 現在は全線が舗装された米良椎葉林道で井戸内峠を越え、次に田平越を越える。幾重にも、幾重にも重なり合った山々。米良は山深い。

 

 田平越を越えると西都市になるが、“市”のイメージとはほど遠い山村の風景。ここは旧東米良村で、米良はこの東米良村と西米良村に分かれていた。

 

 ぼくにとって米良は、なんともなつかしいところなのだ。

 何度かこの地を訪ね、地元のみなさんにいろいろな話を聞かせてもらったことがあるからだ。

 

 米良はイノシシ猟の盛んなところで、猟に一緒に連れていってもらったり、仕留めたイノシシの解体するのを見せてもらったりした。夜は炭火で焼いた猪肉をご馳走になりながら、イノシシ猟の話を聞かせてもらったが、その話がすごく面白い。

 

 米良ではイノシシのことをシシ、漁師のことをカリンドといっている。イノシシ猟は単独での猟もあるが、何人かでおこなう団体猟が普通で、それをモヤイガリといっている。「一犬、二足、三鉄砲」

 

 と、米良の猟師たちがいうように、イノシシ猟は猟犬によるところが大きい。山の斜面を登っていくときは犬よりもイノシシのほうが速いが、下り坂になるとイノシシよりも犬のほうが速くなる。犬がイノシシを仕留めるケースがけっこうあるとのことで、犬は40キロぐらいまでのイノシシだったらかみ殺してしまうという。

 

 イノシシ猟はイノシシを追うセコとそれを待ち伏せするマブシ、それと猟犬からなっているが、イノシシがとれるかどうかは、ひとえにセコの働きいかんにかかっている。セコの足がおおいにものをいうのだ。

 

 イノシシの通り道をウジというが、マブシはセコと猟犬の追ってくるイノシシを待ち伏せする。そのときは、タバコも吸えない。イノシシはそれほど人間の臭いに敏感なのだ。

 

 一人で猟をするときは、昔は“ヨマチ”をやったという。イノシシの大好きなカライモ(サツマイモのこと)やイセイモ(サトイモの1種)、アズキなどの畑で、夜、イノシシの出てくるのを待つやり方だ。畑近くの木の、高さ5、6メートルくらいのところにヤグラを組み、その上でイノシシが来るのを息をころしてジッと待つ。冷え込みの厳しい夜間に、それも2時間も3時間も待ちつづけるというのは、大変な仕事だ。

 

 イノシシは猪突猛進の言葉とは裏腹に、非常に臆病で、用心深い。畑に入る前などは、2、3メートル進んでは立ち止まり、また2、3メートル進んでは立ち止まりし、時間をかけ、周囲の安全を確認してから畑に入るという。そのようなイノシシを木の上から狙い撃ちにする。

 

 同じように“ヌタマチ”もやったという。ヌタとはイノシシが“ぬたうつ”場所で、イノシシはヌタ場で泥まみれになってころげまわったあと、近くにある松などのヤニの出る木に体をこすりつけ、体についたダニなどを落とす。そんなヌタ場にやってくるイノシシを撃つのがヌタマチなのだ。

 

 苦しみもがいてころげまわることを「のたうちまわる」とよくいうが、それはイノシシの「ぬたうつ」からきた言葉。だが、イノシシがのたうちまわるのは、苦しいからではなく、我々、人間が風呂にでも入るようなもので、最高の気持ちよさなのだ。

 

「シシガリはシシから習え」

 米良の猟師の間ではそういわれているが、1本でも多くのウジ(イニシシ道)を知り、1ヵ所でも多くのヌタ場を知りさらに、イノシシのより多くの習性を知ることが、名猟師への道なのだという。

 

 そんな話を夜、遅くまで聞いたのだ。米良というのは、ぼくにとっては、そのような所だった。