賀曽利隆 STILL ON THE ROAD !

世界を駆けるバイクライダー・賀曽利隆(かそりたかし)。地球をくまなく走り続けるカソリの”旅の軌跡”をまとめていきます。

カソリが選ぶ「ニッポン郷土料理」(11)関東編

202、アンコウ鍋(茨城)

茨城県の海岸地方であれば、アンコウはそう珍しいものではない。だが、その本場といえば北茨城。福島県との県境に近い大津港や平潟港の底引き網漁の漁港に水揚げされる。

アンコウがうまいのは冬。11月から4月ごろまでが食べごろ。冬の味覚でいえば西のフグと並ぶ東のアンコウといったところだ。アンコウはグチャッを踏みつけられたような格好をしているが、そのグロテスクな姿とは似ても似つかないほどのうまさ。

骨以外は全部、食べられる。柳肉(身肉)、水袋(胃)、キモ(肝臓)、トモ(胸ビレ)、ヌノ(卵巣)、エラ、皮は“アンコウの七つ道具”といわれ、それら“アンコウの七ツ道具”に野菜類やしらたき、シイタケ、焼き豆腐などを加え、割り下(ダシ汁に醤油、味醂、砂糖などを加えて調味したもの)で煮込んだ鍋がアンコウ鍋。冬のアンコウ鍋はあたたまる。

203、水戸納豆(茨城)

「日本一周」でおもしろいのは、東日本と西日本の違いをあちこちで見られること。そのひとつが納豆だ。西日本で泊まった宿の朝食に納豆が出ることはほとんどない。ところが東日本の宿で納豆の出ない朝食はほとんどない。

このように東日本人にとって納豆は朝食には欠かせないもの。かくいうぼくは東京生まれ東京育ちの東日本人。わが家の朝食では週に2、3度は納豆。長期間の海外ツーリングから帰ったとき、何が一番食べたいかといったら、やはりこの納豆だ。

納豆といえば“水戸納豆”がその王様。水戸市内には何軒もの納豆製造業者があり、おみやげ用のわらづと入りの納豆が売られている。納豆を器に入れ、よくかきまぜて糸をひかせ、そに刻んだネギとカラシを混ぜ、醤油をいえれて味つけし、炊きたてのご飯にかけて食べるときは、「あー、日本人に生まれてよかった!」と思える瞬間。今は納豆といえばこのような糸引き納豆のことだが、中国から伝わったもともとの納豆は浜松の浜納豆や京都の大徳寺納豆のたぐいの、乾燥させた塩辛納豆である。

204、凍みごんにゃく(茨城)

凍みごんにゃくというのは、凍み豆腐のようなもの。昔は日本各地でつくられていたが、今、つくっているのは茨城県の水府だけ。凍みごんにゃくはそういう意味では貴重な“食の文化財”のようなもの。

それをつくるところを見せてもらったことがある。十分にゆで石灰水でさらしたこんにゃくを冬枯れの畑一面に並べていく。それに水をまいて凍らせ、乾燥させ、ひっくりかえし、また水をまき、凍らせ、乾燥させる。それを10日ほどかけて繰り返すと、真っ白くカラカラに乾燥した凍みごんにゃくができあがる。ここまでの作業というのは、根気のいる大変な作業だ。この凍みごんにゃくは煮しめや五目ずしなどの具になる。

205、かんぴょう料理(栃木)

栃木のかんぴょう栽培の歴史は古い。今から300年前、壬生城主の鳥居忠英が農業振興のため、旧領の近江・水口から種子を取り寄せたことに始まるという。その後“下野かんぴょう”は本格的に普及し、次第に関西の産地を圧倒し、日本一の産地になっていった。

今では栃木県の河内郡と下都賀郡で全国の大半をつくっている。この地方は排水のよい火山灰土壌で、かんぴょうの原料になるユウガオづくりに適している。それと朝夕の気温の差が大きく、生育期には適当な雨が降り、収穫期になると晴天の日が多くなるという気象条件にも恵まれている。

ユウガオの白い果肉を薄く細長くむき、それを干したものがかんぴょうで、巻ずしには欠かせないもの。遠足や運動会などでよくつくってもらった母親の味だ。いなりずしもかんぴょうで巻く。この地方の来客があったときなどだされる“含め煮”と呼んでいる煮しめにも、インゲンやニンジン、シイタケなどと一緒にかんぴょうが入る。

206、湯波料理(栃木)

豆乳を煮立て、表面にできた薄皮をすくい上げたものが湯波。できたての生湯波はトロッとしていて、すごくうまい。旅館などでは豆乳を入れた鍋に火をつけてこの生湯波を出すところもある。生湯波を乾燥させたものが干し湯波になる。ふつう湯波というと、この乾燥食品の干し湯波をいう。

ここでも関西と関東に違いが出ておもしろいのだが、関西では“湯葉”と書き、関東では“湯波”と書くことが多い。東照宮や二荒山神社の門前町として発達した日光といえば精進料理がよく知られているが、それには湯波は欠かせない。

207、アユ料理(栃木)

海を持たない栃木県にとっては、アユは“魚の王者”的存在。その中でも那須連峰を源として流れる那珂川の黒羽あたりは関東でも屈指のアユの名産地になっている。ここには観光やながある。

観光やなは5月1日には営業し、川魚料理が食べられる。アユの解禁は6月1日からだが、7月以降はやなにかかったばかりのアユを食べられるようになる。“若アユ”の塩焼きを肴に川風に吹かれながら冷たいビールをキューッと飲み干す快感はまさに日本の夏。

やなは10月いっぱいまである。アユ漁の後半になると、若アユとはまた一味違う“落ちアユ”を食べられる。観光やなが営業を終えるのは11月5日のことだ。

208、こんにゃく料理(群馬)

こんにゃくといえば、“下仁田”。下仁田は日本一のこんにゃくの町だ。下仁田周辺は昔からのコンニャクイモの一大産地。コンニャクイモはインドシナ山岳地帯が原産地のサトイモ科の多年草で、日本には奈良時代に伝わった。室町時代にはもうこの地方でつくられていたらしい。

そんな下仁田にはこんにゃく料理のフルコースを食べられる店が何軒かある。刺し身ごんにゃくにはじまり、味噌田楽、てんぷら、煮しめ、こんにゃくそうめん…と、まさにこんにゃく三昧。

209、おきりこみ(群馬)

日本でうどんを一番よく食べるのは“讃岐うどん”の香川県。その次によくうどんを食べるのが群馬県だ。山間部の多い群馬県では水田での稲作よりも畑作での小麦栽培の方がより盛んだった。そのような背景があっての群馬のうどんになる。

名物は“おきりこみ”。小麦粉をこねてつくった麺をゆで上げることなく、そのまま鍋に入れてグツグツ煮込む。山梨のほうとうや熊本の団子汁と同じ系統で、うどんの原型といっていい食べ物である。“おきりこみ”の看板を目にしたらぜひとも食べてみよう。体の芯からあたたまる。それだけでなく、“おきりこみ”を食べながらうどんの歴史にも迫っていける。

210、焼きまんじゅう(群馬)

群馬県内のだるま市や夏まつりに欠かせないのが、この“焼きまんじゅう”。中にあんの入っていない小麦粉のみの饅頭。それにタレをつけて焼く。

“おきりこみ”の麺と同様、この“焼きまんじゅう”の饅頭は東アジアの小麦粉食圏を代表する食べ物。世界の小麦・粉食圏はユーラシア大陸の西半分が“焼く”のパン圏で、東半分は“煮る”、“蒸す”の麺、饅頭圏になる。その小麦・粉食圏の麺・饅頭圏の一番東に関東の群馬県や栃木県、埼玉県がくる。高崎の少林寺達磨寺のだるま市でこの焼きまんじゅうを食べると、壮大な世界の食文化圏に思いを馳せることができる。

211、にぼと(埼玉・深谷市)

埼玉県ではうどんがよく食べられる。1人当たりの年間のうどん消費量は群馬県に次いで日本第3位。昔から関東平野のこのあたりは小麦栽培が盛んで、反当たり収量は日本一をほこってきた。

うどんでおもしろいのは、同じ関東でも、千葉県は日本で一番うどんを食べない県。2番目に食べないのがやはり関東の茨城県。このあたりの違いがまさに食文化なのだ。

うどん圏の埼玉では深谷周辺に“にぼと”が残っている。“宝刀”に似た形の麺を野菜類と一緒に煮込んだもので、“煮宝刀”の字を当てている。、もちろんこれは当て字で、“法度(はっと)汁”のようなもの。これらはすべて“ほうとう”のたぐいの言葉で、うどんの日本伝来に深くかかわっている。うどんは“饂飩”と書くが、その広東語発音が“ワンタン”で、北京語発音が“フォントン”になる。

212、いもせんべい(埼玉)

川越のサツマイモといったら、日本一の味で定評がある。川越周辺の水田には適さない関東ローム層がサツマイモ栽培にはぴったりなのだ。

川越では江戸時代から焼きイモ用に、「赤ヅル」、「青ヅル」という2種の品種がつくられていた。ところが明治の半ばに突然変異で「紅赤」が誕生した。この品種はその名のとおりの鮮やかな紅色で、味も抜群によかったので、それ以降、川越では急速にサツマイモづくりが盛んになった。

“いもせんべい”は、この「紅赤」を使った川越名物のイモ菓子の代表選手。そのほかのイモ菓子というと、サツマイモのかりんとうの“イモまつば”、サツマイモを厚切りにして砂糖で煮た“イモ納豆”などがある。

213、なまずの蒲焼き(埼玉)

内陸県の埼玉県は川魚料理の盛んなところだ。コイやウナギのほかに、ナマズもよく食べられる。かつてはナマズといえば水田でもよくとれた。なまず料理の代表的なものは蒲焼き。ナマズを三枚におろして串を刺し、皮のほうから最初に焼いていく。だし汁、醤油、味醂でつくったタレに浸しながら焼き上げる。

蒲焼きのほかには、なまず鍋やすっぽん煮になどにする。“すっぽん煮”とはいってもスッポンの料理ではなく、骨ごと筒切りにしたナマズをゴボウと一緒に煮たものである。

214、いわし料理(千葉・銚子)

利根川河口の銚子沖はイワシの好漁場。銚子の食堂で食べるイワシの刺し身はとびきりうまい。イワシなどの青魚を刺し身で食べられるのは、魚が極めて新鮮だからだ。

この新鮮なイワシを使って銚子の人たちはさまざまないわし料理をつくってきた。刺し身や焼き魚にするだけでなく、ごま漬けや卯の花漬けにしたり、つみれ汁にもする。イワシのつみれというのは、すり身にしたイワシをかたくり粉や卵の黄身、味噌でまぜあわせて団子にしそれをゆでたもの。

銚子駅前の食堂「新橋」でそれを食べたが、この店のメニューには、刺し身、つみれ、つみれ汁、さんが焼き、さつま揚げ、天ぷら、フライと7種ものいわし料理があった。

215、さんが焼き(千葉)

さんが焼きは千葉県の外房海岸で食べられる。イワシなどの魚を骨つきのままぶつ切りにし、包丁でたたき、それをすり鉢でよくすり、味噌、醤油、ショウガのしぼり汁、卵の黄身をまぜて形を整え、焼いたもの。魚のハンバーグといったところ。イワシのさんが焼きとサンマのさんが焼きがよく知られている。なぜ“さんが”なのかよくわからないが、この“さんが”は千葉県以外では聞いたことがない。

216、握りずし(東京)

ここまで、何度となく日本各地の“すし”をとりあげてきた。そのたびにすしは魚肉などの発酵食品で、簡単にいってしまうと魚肉などの漬物だといった。

漬物のすしはつくるのにずいぶんと長い時間がかかる。それに対して江戸前の握りずしは、気の短い江戸っ子がつくりだしたものらしく、きわめて簡単にできる。いわばインスタント食品。“江戸前”の握りずしというくらいだから、具には江戸湾(東京湾)の沿岸でとれる魚介類が使われた。

マグロがネタになるのは明治も末期になってからのことだし、シャコやトロ、イクラ、生ウニなどは昭和にはいってからの新顔のネタである。ということは、これからも、あっと驚くような新・新顔のネタが登場する可能性がきわめて高い。

217、おでん(東京)

おでんといえば日本中にあるが、それを大阪では“関東煮”といっている。“関東煮”というくらいだから、おでんは関東のものという意識が大阪人には強くあるのだろう。ここでひとつおもしろいのは、西日本と東日本の東西の違いで、お好み焼きや鉄板焼きなどの“焼く”が西日本、おでんや各種鍋料理などの“煮る”が東日本になる。さて、おでんだが、その語源は田楽。御田楽(おでんがく)が省略されて御田(おでん)になった。

218、どぜう鍋(東京)

どじょう料理は東京の名物料理。老舗のどじょう屋に行くと、入口の暖簾のは「どぜう」と染めてあるし、品書きも「どぜう」になっている。これは「どじょう」の4文字だと縁起が悪いという江戸っ子的な発想からきているという。しかしそれはけっこう新しいことで、江戸時代ではなく、明治に入ってからのことらしい。

どじょう料理の代表はどじょう鍋。笹がきゴボウを敷いた上に、どじょうを並べ、タレで煮る。煮えたら刻みネギをふりかけ、山椒の粉を薬味にして食べる。それともうひとつ、どじょう汁も名物料理だ。

219、佃煮(東京)

誰でもが知っている“佃煮”の“佃”は東京の佃島のことだ。隅田川に佃大橋がかかるまでは佃の渡しが出ていた。ぼくは最後のころの佃の渡しに乗ったことがある。そこは東京の都心からわずかな距離にもかかわらず、まるで江戸時代にタイムスリップしたかのような家並みがつづき、その中に何軒かの佃煮の老舗がある。佃島がすごいのは、今でもほとんど変わっていないこと。

ところで、この江戸の佃島以前はといえば、摂津の佃だった。徳川家康は江戸城を居城にすると、摂津の佃から進んだ技術を持った漁師を呼び寄せ、ここに住まわせた。それで佃島になった。その佃島でつくられるので“佃煮”になった。

220、かまぼこ(神奈川)

かまぼこを名物にしているところは日本各地にあるが、かまぼこといえば、なんといっても小田原だ。小田原のかまぼこづくりの歴史は古い。この地が関東の中心都市だった北条氏の時代までさかのぼる。相模湾でとれた魚のうち、鮮魚として商いきれなかった魚を日持ちのするかまぼこに加工したのがはじまりだ。

小田原のかまぼこが全国的に知られるようになるのは、江戸時代になってからのこと。東海道の名物として、その地位を不動のものとした。当時の原料はオオギスやハモが主であったという。それが明治、大正になるとグチへと変わる。それが近年ではグチに加えて北海のスケトウダラも使われるようになっている。小田原のかまぼこの原料をめぐる変遷だ。

小田原のかまぼこの特徴は白さと腰の強さ。小田原駅前には小田原かまぼこを食べさせてくれる店もある。

221、猪鍋(神奈川)

丹沢周辺にはイノシシが多く生息している。冬の猟期に丹沢山中を走ると、仕留めたイノシシの皮を干している光景を見かけることがある。丹沢山麓の温泉地、七沢温泉や広沢寺温泉などでは、猪鍋を冬の名物料理にしている。泊まり客だけでなく、立ち寄り湯の客にも出している。湯につかり、湯上がりのいい気分で食べる猪鍋の味はまた格別だ。

猪鍋は味噌仕立て。猪肉のほかにダイコンやゴボウ、ニンジン、シイタケ、ネギ、コンニャクを入れる。体のあたたまる、まさに冬にぴったりの鍋料理だ。

222、くず餅(神奈川)

川崎大師名物の“くず餅”のはじまりは、天保年間(1830~1844年)のころだという。この地に久兵衛さんという人がいて、暴風雨の夜、納屋に蓄えておいた小麦粉を濡らしてしまった。それでやむなく、濡れた小麦粉をこねて樽に移し、水に溶いてそのままほっておいた。歳月が過ぎて樽を見ると、その底には純度の高い澱粉が沈殿していた。それを使って餅にしたのが“くず餅”のはじまりだという。

ぼくはてっきり葛粉の餅でくず餅だと思っていたが、そうではなく、久兵衛さんの久と寿を合わせての久寿餅なのだ。その話を聞いてビスケットを連想した。フランス・ビスケー湾で難破した船に積んであった小麦粉が濡れ、その濡れた小麦粉を原料にして焼いたのがビスケットのはじまり。

さて、川崎大師のくず餅だが、そのうまさは腰の強さからきている。それと黒蜜がじつによく合っている。