賀曽利隆 STILL ON THE ROAD !

世界を駆けるバイクライダー・賀曽利隆(かそりたかし)。地球をくまなく走り続けるカソリの”旅の軌跡”をまとめていきます。

日本列島岬めぐり:第2回 野島崎(のじまざき・千葉県)

 (共同通信配信、1990年)

 房総半島最南端の野島崎には館山から入っていった。 

 南房州の玄関口、JR内房線の館山駅前にはフェニックスやカナリーヤシが空を突き、いかにも「黒潮の国・安房」を感じさせた。

 東京湾の出口に突き出た岬の洲崎に立ち寄ったあと、太平洋を見ながらバイクを走らせる。切る風に黒潮の香りをかぎながら走る気分はもう最高。野島崎へと続く太平洋岸の道は通称「フラワーライン」。早春にはキンセンカやスイセン、菜の花などの花畑が満開になる。海の青さと花々の色彩の対比が色鮮やかだ。

 野島崎に着くと、岬入口の島崎漁港の岸壁に腰を下ろし、漁から帰って来る漁船を眺めた。この後、厳島神社に参拝。岬に神社はつきもので、厳島神社や熊野神社、住吉神社といった海とのかかわりの深い神社が多くまつられている。

 岬突端の灯台へ。漁港と神社と灯台は岬の「三点セット」のようなものなのだ。

 野島埼灯台は1866年(慶応2年)、米、英、仏、蘭との四ヵ国条約によって建てられた、日本初の洋式八灯台のひとつ。三浦半島の観音埼灯台に次いで1869年(明治2年)12月に初点灯した。全国にある2600余の灯台の中では2番目に古い歴史をもっている。

 灯台に上がって太平洋の水平線を眺め、足元に広がる白浜一帯の海岸線を見下ろした。野島崎は白浜の岬だが、岩礁の海岸線は白浜というより黒磯だ。

 なのに、なぜ無理矢理、白浜かといえば、紀州の白浜に由来している。「黒潮の道」で結ばれた紀州と房州は近い。房州の漁業を発展させたのは、この地に移り住んできた紀州の漁民たち。当時の紀州の漁民たちは日本最先端の漁業技術を持っていた。

 野島崎は、もともとは地名通り「野島」という島だった。それが元禄大地震(1703年)で陸地につながった。さらに関東大震災で隆起し、岬周辺は岩礁地帯になった。野島崎はまさしく生きている岬なのだ。