賀曽利隆 STILL ON THE ROAD !

世界を駆けるバイクライダー・賀曽利隆(かそりたかし)。地球をくまなく走り続けるカソリの”旅の軌跡”をまとめていきます。

『忘れられた日本人』再び:第4回

 (『ゴーグル』2006年11月号、所収)

東米良の焼畑

 宮本常一先生は日本の焼畑農耕には深い関心を持っておられた。

『日本文化の形成・下巻』(そしえて)の「焼畑」の項では、「戦前旅の途中で焼畑をしばしば見る機会を持ったし、宮崎県東米良、椎葉、高知県寺川、石川県白峰、能登門前、山梨県棡原などではかなりくわしい聞き取りをおこなうことができた。そして焼畑は狩猟・採取の延長として発生したものではないかと考えるようになった」と書かれている。

 日本観光文化研究所(観文研)の「東米良」での共同調査(1982年~83年)でぼくは焼畑を追った。焼畑の重要性は宮本先生を通して、観文研で徹底的に教え込まれていたからだ。九州山地の東米良は現在は宮崎県西都市の一部になっているが、かつては東米良村として1村を成していた。焼畑を見聞きするのには最適なフィールドだった。

 焼畑は今の日本ではほとんど見られなくなってしまったが、つい3、40年ほど前までは日本の広範な地域、とくに山地でおこなわれていた。東米良では焼畑のことを「コバ」と呼び、コバを切る作業をコバキリといっていた。コバには秋にコバキリをして春に焼く「秋コバ」と、夏にコバキリしてその後で焼く「夏コバ」があった。焼畑の中心になるのは「秋コバ」で、そこではかつての主食だった雑穀のヒエが栽培された。

 秋コバにする山はなるべく年数のたった樹木のはえている山がよく、とくにモミの大木がはえているような場所が秋コバをするのには最適な場所だったという。

「モミの下でトーラ1俵(トーラで1俵、ヒエがとれるという意味)」といわれたほどで、モミの木のはえているあたりは地力があり、ヒエの成りがよかった。反対にコウヤマキやマツのはえている場所は土地がやせていてヒエの成りが悪かった。「千年ブロシ」ともいわれるが、有史以来、初めて斧を入れるような原生林のコバほど、ヒエの成りがよかったという。長年にわたる落ち葉などの堆積で、土壌が有機質に富んでいるからだ。東米良では標高1000メートルぐらいまでの高地で焼畑がおこなわれた。

「コバキリ」

 秋コバのコバキリは9月から11月にかけておこなわれた。斧、鉈、鎌を使ってのコバキリで、鋸を使うようになったのは新しいことだという。

 樹木を切り倒し、それをさらに小さく切っていく。柴を刈り、木ぎれなどとともに地面に広げていく。下草や蔓などを刈り払い、柴の上にまきちらし、乾燥させる。大木は伐り倒さずに、長さが3、4メートルほどの棹の先に鉤をつけたキオロシザオを使って木から木へと飛び移り、枝を下ろしていく。それを「キオロシ」といった。

 キオロシはまさに命がけの仕事だった。そのためキオロシに出かける朝にはいくつかのしてはいけない掟があった。

一、女の炊いた飯は食べない。

一、朝食ではあえものは食べない。

一、欠けた茶碗は使わない。

一、普段、使う箸は使わない(山で伐ったものを使う)。

一、サルの話をしない。

 キオロシの作業中、木から下りるのは昼食のときだけだった。その昼食も木の上で食べることもあった。キオロシは落葉樹の落ち葉が落ちる前に終わらせなくてはならなかった。落ち葉が積み重なってからキオロシしたのでは、下の落ち葉は乾燥せず、焼いたとき、地面がよく焼けないからだ。焼畑で一番重要なことは、いかに地面をよく焼くか、なのだ。

 キオロシの際には「キオロシの唄」を歌った。それは山ノ神への作業の安全を祈るものであり、自分自身の心の安定を計るものであり、家族への無事を知らせる通信の役割もはたしていた。山ノ神の加護を願う唄からはじまり、キオロシの作業上の注意・要領など全部で「四十八流れ(番)」あったという。

 そんなキオロシの唄の一部を東米良・上揚の河野開(大正7年生まれ)さんに聞いた。その中には「登り木の 高木のせびより ながむれば 星こそ見えたと はるばると」という唄があったが、まっすぐ、スーッと伸びる大木は木の先端の「せび」を残した。その理由はせびを切り落とすと、木の揺れが大きくなるからということだが、山ノ神の依代(神の宿る場所)といて残しておくという信仰上の理由が大きかったようだ。

 また根元近くに大きな洞があって、くぐり抜けられるような大木には山ノ神が宿っているといわれ、「ヤマガミノアソビ」といって伐り倒してはいけないものとされていた。それを伐り倒したばかりに思わぬ災難に見舞われたという話がいくつもいい伝えられている。キオロシをし、伐った木をヨコシ(横)に並べた。そうすると、地面がよく焼けるからである。こうしてコバキリを終えた焼畑は、春までそのまま放っておく。その間に、樹木や柴、草、落ち葉などは十分に乾燥し、焼くのを待つばかりになる。

「コバヤキ」

 東米良には「コバヤキ日和」という言葉が残っているが、コバヤキするのは3月から4月にかけての異常乾燥注意報が出るような頃がいい。天気つづきで、春霞が立つような日だ。この季節は山火事が多く発生するころでもあり、コバヤキと山火事はまさに紙一重。一番危険な時期に山を焼くのだから、細心の注意と火を扱う技術、それとなによりも度胸が必要だという。

 なぜこのような最も危険な時期に山を焼くかというと、「ジヤキ(地焼)」といって、いかに地面をよく焼くかが、焼畑の生命になってくるからだ。うまくジヤキできたコバだと、作物が病気にかかりにくく、雑草がはえにくく、そして作物がよくできるのである。「今年できないコバは来年もできない」とか「焼けないコバは一生の不作」といわれるほどで、コバの出来、不出来はコバヤキによるところが大きい。そのため一番よく焼ける時期に火を放つのである。

 コバのまわりには「カダチ」と呼ぶ幅3メートルほどの防火線を切る。コバの地形によって違いはあるが、傾斜がゆるやかだと、それほど広くとる必要はない。コバの上部をヨッカシラとかクチモトといっているが、その部分のカダチは幅4、5メートルと広くとる。なお上部のヨッカシラに対して横の部分をヨコジリといっている。カダチの落ち葉はきれいに掃き清め、燃えるものが何もないようにしておく。さらに火が燃え移った時に消すためのヒボティを用意しておく。ヒボティはツバキやサカキなどの生柴を束ねたもので、それで火をたたいて消す。防火祈願に東米良の北、北郷村(現美郷町)の宇間納地蔵の御札をカダチに立てておく。

 さて、いよいよコバヤキだ。晴天の無風の日を選んで焼く。コバヤキは男の仕事。午前中に火を入れる。上部のヨッカシラから1間(約1・8m)間隔で火をつけていく。タイマツで火をつけていくのだが、その火をコバの中央へと、うまく下ろしていく。コバヤキの炎はすさまじい。高さが10メートルを超えるような火柱が立つ。無風の日でも炎と熱とで、熱風が渦を巻く。火は上から下に下ろすだけでは時間がかかりすぎるので、ある程度焼けると、コバのまわりのヨコジリにも火を入れる。しかしヨコジリに入れる火が早過ぎると、地面のシン(芯)が焼けないという。つまりジヤキ(地焼)しないのである。1町歩(約1ヘクタール)ほどのコバだと、焼くのに3、4時間、かかる。できるだけ手間をかけて焼いたほうが、当然、よくジヤキする。

「火もようたかんモンはヒトリマエではない」といわれたほどで、コバヤキを上手にできない男は一人前とはみなされなかった。

 翌日、燃え残りを焼いた。それを「キヤキ」といった。あまりジヤキしていないようなところに燃え残った木を集め、キズカ(木塚)を築いた。山のように積み上げたところで火をつけたので、これもやはり大きな火になった。そのようなところから、大きな火のたとえとして、東米良では「キズカを焼くような」といういい方をする。たとえば、ジロ(囲炉裏)を使っていたころは、薪をくべすぎて大きな火にしてしまったときは、「キズカの火のごとく…」といったような注意をされたという。

 キヤキしたあと、木の切り株に焼け残りの木を渡して土止めにした。それを「オモノリ」といった。オモノリの上には表土がたまるので、作物の成りがいい。反対にオモノリの下は表土が流れ落ちてしまうので、作物の成りが悪い。オモノリをはさんで上と下とでは収量がかなり違ったという。

 このようにして焼いた最初の年、第1年目のコバを「ニコバ」といった。ニコバではヒエをつくった。そのためヒエコバともいった。ニコバは毎年、切り開かれていった。東米良には「千貫コバ」という言葉が残っている。それは1町歩(約1ヘクタール)以上の大きなコバで、そこでのヒエの収量は千貫(約3750キロ)以上あった。そのような千貫コバが上揚の古穴手(ふらんて)地区だけで3、4ヵ所にあったという。

焼畑でのヒエ栽培

 コバヤキしたあとのヒエの種蒔きは4月。雑草の芽吹きはじめるころを「キャヘイ」というが、その頃を目安にした。ツナブクロとかタナブクロと呼ぶ木綿の袋にヒエの種を入れ、おおよそ1反(約1000平方メートル)に1・5合(約0・27リットル)の割合で種をまいた。直播きなので、この種まきが難しい。下手な人がやると、どうしても厚くまいてしまう。そうするとヒエは密植し、成長が悪くなり、病虫害にもやられやすくなり、穂も小さくなってしまう。「千振れ、千振れ」といわれるが、手を千回も、つまり数多く振るようにして種を薄くまいていく。コバの下から上へ、ジグザグ登りながら何ヵ所かに立てたタナジルシ(種印)を目安にまいていく。まき終わったあとは、刃幅の狭いヤマグワで軽く表土をかけておく。種はなかば見えるくらいでかまわないという。

 ヒエは種をまいてから1週間ぐらいで発芽する。いったん種まきをしてしまうと、あとは草むしりをするくらいで、ほとんど手をかけない。肥料を施すこともない。これが焼畑の大きな特徴だ。最初の草とりはヒエが10センチ程度に伸びたとき。2度目が盆前の頃。道具を使わずに手でむしりとる。

 8月から9月にかけてヒエは穂を出す。この時期、神主に「ムシヨケ」に来てもらった。ヒエに虫がつかないよう、病気が発生しないように、呪文を唱えながらコバのまわりをまわってもらうのだ。そして10月の下旬から11月にかけて収穫した。

 1年目のコバを「ニコバ」というといったが、2年目のコバは「キャギャシ」になる。「キャギャシ」ではヒエとアワを栽培した。ヒエとアワの種を混ぜてまくこともあった。3年目のコバは「ナツウチ」で、マメとアズキをまいた。東米良でマメといったらダイズのことで、マメとアズキを混ぜてまくこともあった。4年目のコバは「コナ」とか「コナウチ」、「コナカキ」と呼び、ヒエやアワの雑穀類をまくこともあり、3年目の「ナツウチ」同様にマメやアズキの豆類をまくこともあった。

 こうして使い終わったコバは自然に帰してあげるのだ。東米良の人たちはそれを「山ノ神に返す」といっている。みなさんは山ノ神に対して「畏れ」とか「敬い」の気持ちを誰もが強く持っている。山を生活の舞台にして日々、無事に生きていかれるのも、かぎりない自然の恵みを受けられるのも、すべて山ノ神のおかげだと信じている。それだから、たとえばコバヤキをする前には、コバには必ず御神酒を供えた。地力の衰えた焼畑地はひとまず休閑地にするが、20年とか30年たって焼畑の跡地に樹木がおい茂るようになると、また焼畑地として利用するのだ。

 東米良の人たちの言葉を借りれば、また「山ノ神から自然の恵みを与えてもらう」ことになる。これはたんに東米良にとどまらない。東米良の焼畑のサイクルを通してぼくは日本の山地民と、山との息の長いつきあいの一端を見る思いがした。

カソリの「日本焼畑行」

 東米良の焼畑のうち、秋にコバキリして春に焼く「秋コバ」はヒエコバともいわれるように、ヒエをつくるための焼畑といった色彩がきわめて強かった。それに対して夏にコバキリし、その直後に焼く「夏コバ」は菜園的な焼畑といっていい。大規模な焼畑の秋コバに対して、夏コバは小規模な焼畑になる。オクヤマ(奥山)とかミヤマ(深山)でおこなう秋コバに対して、夏コバはアサヤマ(浅山)でおこなった。アサヤマというのは家に近い山で、それほど年数のたっていない森林、せいぜい樹齢が14、5年の山をいった。秋コバをヒエコバといったように、夏コバはダイコンコバとかソバコバといった。その呼び名の通り、夏コバでは主にダイコンとソバをつくった。

 夏コバは梅雨が明けた直後の7月初旬にコバキリし、伐った樹木や柴、刈った草などを夏の強い日差しで乾かし、8月初旬にコバヤキした。8月中旬にはダイコン、下旬にはソバの種をまいた。ダイコンもソバも11月の降霜前には収穫した。

 2年目の夏コバではイモ、もしくはマメ、アズキを栽培した。東米良でイモといえばサトイモのことであり、マメといえば先にもふれたようにダイズのことである。イモは3、4月に植え付けし、10月下旬には収穫する。マメ、アズキは7月初、中旬に種をまき、同じく10月下旬には収穫した。3年目の夏コバは2年目と同じか、もしくは茶園にした。夏コバの跡地には無数の山茶がはえてくる。また夏コバに肥料を施し、焼畑から常畑にするようなこともあった。そこではノイネやイモ、カライモ、トウモロコシをつくった。ノイネとは陸稲、カライモとはサツマイモのことである。

 東米良では秋コバは昭和20年代から30年代の前半で終わってしまったが、夏コバは観文研の共同調査のおこなわれたころまで細々とではあるがつづいていた。なんともラッキーなことに、そんな焼畑の現場を自分の目で見ることができたのだ。さらに冒頭の宮本先生のお言葉ともかかわってくることだが、ここでは狩猟(猪狩り)についてもいろいろと見聞きすることができた。

 東米良のあとはバイクを走らせ、自分一人で焼畑を盛んにおこなっていた地域に行ってみた。「日本焼畑行」だ。宮本先生の足跡を追うようにして宮崎県の椎葉、石川県の白峰、山梨県の棡原、さらには滋賀県の姉川流域、静岡県の大井川流域、長野県の秋山郷、新潟県の三面…と。それら地域では焼畑の経験者に焼畑にまつわる話をいろいろと聞かせてもらった。宮本先生は日本の焼畑は畑作の前形式になるものだといわれたが、そのような長い歴史を積み重ねてきた日本の焼畑がまさに消え去ろうとしている時に、それを見聞きすることができたのはものすごくラッキーなこと。それができたのはまさに宮本先生のおかげだった。