賀曽利隆 STILL ON THE ROAD !

世界を駆けるバイクライダー・賀曽利隆(かそりたかし)。地球をくまなく走り続けるカソリの”旅の軌跡”をまとめていきます。

シルクロード横断:第12回 敦煌

 2006年9月3日、その日は1日、敦煌に滞在。敦煌といえば井上靖の名作『敦煌』の舞台だ。

「趙行徳が進士の試験を受けるために、郷里湖南の田舎から都開封へ上がって来たのは、仁宗の天聖4年(西紀1026年)の春のことであった」。

 このような書き出しではじまる『敦煌』をいままでに何度か読み、そのたびに敦煌に思いを馳せたものだ。

「そんな敦煌に今、自分はいる!」

 6時に目を覚ますと、まずは町を歩く。中国の標準時間は北京時間だけなので、タイのバンコクよりも西になる敦煌はまだこの時間だと、真っ暗だ。そんな暗い敦煌の町を歩いた。我々の泊まっているホテル「敦煌大酒店」に戻り、隣りあったレストランで朝食を食べるころ、やっと夜が明けた。

 敦煌といえば千仏洞の「莫高窟」だ。

 朝食後、我々は観光バスに乗り込み莫高窟へ。町からは20キロ以上、離れている。敦煌の周辺には3ヵ所に石窟寺院があるが、鳴砂山東麓の「莫高窟」が最大の規模だ。全長1618メートルの切り立った岸壁にびっしりと石窟が掘られている光景はド迫力そのもの。天津からずっと同行してくれている通訳の藩さんと、現地の日本語ガイドの説明を聞きながら莫高窟を見てまわった。

 莫高窟は366年、修行僧が旅の途中、金色に光り輝く岸壁を見たことにはじまるという。修行僧はそこに仏の世界を見、石窟を堀り、修行の場とした。それ以来、1000年にわたって石窟は堀りつづけられ、全部で492窟を数えるという。そのうち695年に彫られたという36メートルという莫高窟最大の大仏のある96窟と、莫高窟2番目の唐代につくられたという26メートルの大仏のある130窟、15メートルの涅槃仏のある158窟、さらには無数の壁画のある石窟、阿修羅像のある石窟、釈迦像と多宝仏のある石窟などを見てまわった。それらの石窟からは1000年間のシルクロードにかかわる諸民族の歴史を垣間見ることができた。

 敦煌の莫高窟が世界で知られるようになったのは、20世紀初頭、イギリスのスタイン、フランスのペリオといった中央アジアの探検家が大量の教典や書画をここから持ち出し、発表してからだった。井上靖の小説『敦煌』は、なぜそれらの教典が莫高窟に大量に残されていたのかを趙行徳という主人公の生きざまを通して描いている。

 敦煌の町に戻るとホテル近くの麺専門店で昼食。「炒醤麺」(7元)を食べた。汁無しの麺で、上に具がのっている。店の入口にはそのほか「炒面」「涼面」「牛肉面」と、大書きされている。「面」は「麺」の略字。道をはさんだ反対側には「蘭州牛肉麺」の専門店がある。

「炒醤麺」の昼食を食べると、市場を歩いた。市場内にも麺を売る店があった。夫婦と娘さんが麺をつくり、つくりたての麺を売っている。「長面条」と「短面条」と書かれているが、長い麺と短い麺の2種類があって、さらにつくりかたによって何種かの麺に分けられている。「面条」は麺一般を指す言葉。そのほか干麺を売る店もあった。

 市場を歩いたあとはバスターミナルに行った。敦煌からはチベットのラサに行くバスが毎日1本、出ている。そんなラサ行きの長距離バスを見たとき、無性にそのバスに飛び乗り、ラサまで行きたい! という衝動にとらわれた。

 夕食も麺専門店。「敦煌拉麺(ラーメン)」(8元)を食べた。拉麺とは手だけで延ばした手延べ麺。日本の「ラーメン」の語源はこの「拉麺」だが、ラーメンとはまったく違う麺。「敦煌拉麺」は麺と上にかける具が別々の皿で出た。シルクロードは麺が西方の世界に伝わった「麺ロード」だといったが、敦煌での麺の食べ歩きは「麺ロード」を実感するものものだった。

莫高窟の千仏洞
莫高窟の千仏洞

敦煌の市場を歩く
敦煌の市場を歩く

敦煌の路地裏
敦煌の路地裏

夕食で食べた「敦煌拉麺(ラーメン)」
夕食で食べた「敦煌拉麺(ラーメン)」