賀曽利隆 STILL ON THE ROAD !

世界を駆けるバイクライダー・賀曽利隆(かそりたかし)。地球をくまなく走り続けるカソリの”旅の軌跡”をまとめていきます。

⑥「サハリン」(1991年)の「キセニア」

 1991年8月14日、いよいよ迎えたサハリンへの出発の朝。気持ちが高ぶっている。午前10時、稚内港のフェリーターミナルで、出国手続き。“WAKKANAI”の文字の入った出国印が、ポンと、パスポートに押される。

「これで、日本を離れていくんだ」

 クレーン車が、サハリンを走るスズキDR250SHをロシア船「ユーリー・トリフォーノフ号」(4600トン)の甲板につり上げる。すぐさまタラップを駆け上がって甲板へ。持ってきたロープでDRを甲板の手すりにくくりつける。これで準備完了だ。

 稚内港が、稚内の町並みが、だんだん遠くなる。船は宗谷海峡に出る。左手に野寒布岬、右手に宗谷岬。2つの日本最北の岬も、いつしか水平線のかなたに消えていく。

 船内のレストランで昼食。グリンピースを添えたハム、サラミ、塩ゆでしたエビ、トリ肉つきのライス、それとスープといったロシア料理。船に乗ったとたんに異国の世界に入っていた。

 食べ終わって甲板に上がると、サハリンの山々が手の届きそうなところに見えている。船はサハリンの西海岸の海岸線に沿って北上する。夕暮れの迫るころ、ホルムスク(旧真岡)に到着。稚内から8時間の船旅だった。

 入国手続きにとまどり、サハリンに上陸したのは22時。それから出迎えてくれたサハリンの旅行社の車のあとについて夜道を走り、24時、サハリンの州都、ユジノサハリンスクに到着。「ツーリストホテル」に泊まった。

 サハリンツーリングの拠点は、サハリン州の州都ユジノサハリンスク。日本時代の、樺太庁が置かれた豊原だ。カメラマンの「クール向後」こと向後一宏さんが同行してくれる。

 人口18万人というサハリン第一のユジノサハリンスクは、街路樹の涼しげな町で、札幌や旭川などの北海道の町々と同じように、碁盤の目状の道路が交差している。湿気の多い、むせかえるような暑さの東京とは違い、空気がサラッとしていて、まったくべとつきがない。

 いよいよサハリンツーリングがはじまる。ユジノサハリンスクを拠点に、今日は北へ、明日は南へと走り、一日の行程を走り終わると、またこの町に戻ってくるのだ。

 とはいっても、ぼくたちだけで、自由に走ることはできない。ガイドの乗った車と一緒に走る。それがひとつ、気の重いところだった。だが、ガイドがホテルにやってきたとき、そんな気の重さなどいっぺんに吹き飛んでしまった。

 なんと、ガイドはハッと息を飲むような美人女子大生。名前はキセニア。大学で日本語を勉強しているという。透き通るような白い肌、明るいブルーの瞳、栗色がかった金髪のキセニアは、チャメッ気もあって、好奇心旺盛な女子大生なのだ。そんなキセニアの明るい笑顔を見た瞬間から胸が高鳴り、胸がキューンと痛くなるくらいに、彼女に一目惚れ‥。

 トマトとキューリのサラダ、ソーセージつきのライスといったホテルの朝食を食べ、オホーツク海に面したオホーツコエ(旧富内)に向かって出発。オホーツク海の砂浜に出た ハマナスの咲く砂浜で昼食にする。キセニアは黒パンを切り、ソーセージを切り、サケのカンヅメを開け‥‥と、かいがいしく食事の用意をしてくれる。リンゴジュースを飲みながら、黒パンにトマト、キューリ、ソーセージをのせて食べる。キセニアと一緒にピクニックを楽しんでいるかのような気分になった。

 コルサコフに着くと、高台に立ち港を見下ろした。このコルサコフこそ戦前までは稚内へ連絡船の出ていた港。日本時代の大泊だ。稚内と大泊を結ぶ稚泊航路は、日本の北の海のゴールデンルートになっていた。

 コルサコフでは、キセニアの案内で町を歩いた。市場にも連れていってもらった。そこでキセニアは、「どうぞ」といって、アイスクリームを買ってくれた。それがなんともいえない味で、トロッと、舌の上でとろけるようなアイスクリームなのだ。

「どう、おいしい?」

「とっても」

 サハリンの第2日目。

 ぼくたちのサハリンツーリングに女子大生のジーニャが加わった。ジーニャはキセニアの同級生で、同じく日本語の勉強をしている。キセニアの将来の夢は、日本語か英語の先生になることで、ジーニャの夢は、日本語の通訳になること。

 うれしくなってしまうのは、ジーニャはキセニアに負けず劣らずの美人。キセニアとジーニャは美人なだけでなく、とっても気持ちがやさしい。2人は控え目で、それでいてよく気がつくし、かわいらしいチャメッ気もある。体を動かすことを少しもいとわない。

 ユジノサハリンスクからホルムスクへ(旧真岡)へ。距離は100キロ。途中で舗装は切れ、ダートに入り、そして峠を越える。峠はロシア語で“ペリェバオ”。この峠はホルムスク峠で、日本時代には熊笹峠と呼ばれていた。熊笹峠の名前どおり、峠の周辺は一面、クマザサで覆われている。見晴らしのいい峠で、日本海の大海原が見渡せた。

 ユジノサハリンスクへと引き返す。そこで好奇心あふれるキセニアとジーニャは、一瞬恥ずかしげな表情を浮かべながらいった。

「バイクに乗せてもらいたいの‥‥」

「喜んで!」

 ぼくがキセニアを、クール向後がジーニャを後に乗せる。キセニアはバイクに乗るのが初めてだという。ちょっぴり緊張した表情だ。DRのリアのステップを降ろしてあげる。彼女がリアシートにまたがる。

 ぼくだってタンデムの経験などほとんどなく、ましてや女性を乗せるのは初めてのこと。キセニア以上に緊張する。

 走りはじめる。キセニアは怖いのだろう、体を固くし、ギュッとぼくにしがみついてくる。彼女の胸のふくらみを背中で感じながら走る。これが…、これがたまらない。

 その翌日は、オホーツク海の砂浜での昼食のあと、すっかりバイクが好きになったキセニアとジーニャを乗せ、海岸を走りまわる。ぼくがキセニアを、クール向後がジーニャをのせる。波打ちぎわを走る。パーッと、波しぶきが飛ぶ。

「キャーッ!!」

 と、キセニア。そんな彼女の華やいだ声がオホーツクの波の音に混じり合う。

 あっという間に過ぎていったサハリンでの日々。ホテルのレストランで、キセニア、ジーニャと一緒に、最後の食事。ぼくたちのお別れパーティー。2人との別れが辛い…。 キセニアもジーニャも、ユジノサハリンスク郊外の団地に住んでいる。そんな2人をバス停まで送っていく。

 別れぎわ、キセニアに、

「ヴィ ムニュ スラビーチシ」

 と、一言いうと、彼女は赤くなってうつむいた。それは、オホーツクの浜辺で、昼食を食べながら彼女に教えてもらったロシア語。

「私は あなたが 好きです」の意味。

 バスが来る。2人が乗る。

「ドスビダーニア(さようなら)」

 これは後日談になるが、サハリンから小包が届いた。キセニアからで、中にはきれいな刺繍のテーブルクロスと木製のスプーンが入っていた。