賀曽利隆 STILL ON THE ROAD !

世界を駆けるバイクライダー・賀曽利隆(かそりたかし)。地球をくまなく走り続けるカソリの”旅の軌跡”をまとめていきます。

『忘れられた日本人』再び:第2回

 (初出:「ゴーグル」2006年7月号)

「偉大なる旅人」誕生の10ヵ条

 宮本常一先生は瀬戸内海に浮かぶ周防大島に生まれた。1907年(明治40年)の8月1日生まれで、来年は生誕100年になる。先生が生まれたのは周防大島東部の旧家室西方村で、戦時中に白木村と改称し、1955年(昭和30年)には東に続く森野、和田、油田の3村と合併し、東和町になった。さらに2004年(平成16年)には周防大島の久賀町、大島町、橘町、それと東和町の4町が合併し、1島1町の周防大島町になっている。

 宮本先生は16歳のときに故郷を離れ大阪に出るが、そのときお父さんの善十郎さんからいろいろなことを教えられた。それは次のようなことだった(文藝春秋刊の『民俗学の旅』より)。

1、汽車へ乗ったら窓から外をよく見よ、田や畑に何がうえられているか、育ちがよいかわるいか、村の家が大きいか小さいか、瓦屋根か草葺きか、そういうこともよく見ることだ。駅へついたら人の乗りおりに注意せよ、そしてどういう服装をしているかに気をつけよ。また、駅の荷置場にどういう荷がおかれているかをよく見よ。そういうことでその土地が富んでいるか貧しいか、よく働くところかそうでないところかよくわかる。

2、村でも町でもあたらしくたずねていったところはかならず高いところへ上がって見よ、そして方向を知り、目立つものを見よ。峠の上で村を見下ろすようなことがあったら、お宮の森やお寺や目につくものをまず見、家のあり方や田畑のあり方を見、周囲の山々を見ておけ、そして山の上で目をひいたものがあったら、そこへはかならずいって見ることだ。高い所でよく見ておいたら道にまようようなことはほとんどない。

3、金があったら、その土地の名物や料理はたべておくのがよい。その土地の暮らしの高さがわかるものだ。

4、時間のゆとりがあったらできるだけ歩いて見ることだ。いろいろのことを教えられる。

5、金というものはもうけるのはそんなにむずかしくない。しかし使うのがむずかしい。それだけは忘れぬように。

6、私はおまえを思うように勉強させてやることができない。だからおまえには何も注文しない。すきなようにやってくれ。しかし身体は大切にせよ。三十歳まではおまえを勘当したつもりでいる。三十すぎたら親のあることを思い出せ。

7、ただし病気になったり、自分で解決のつかないようなことがあったら、郷里へ戻って来い、親はいつでも待っている。

8、これからさきは子が親に孝行する時代ではない。親が子に孝行する時代だ。そうしないと世の中はよくならぬ。

9、自分でよいと思ったことはやってみよ、それで失敗したからと言って親は責めはしない。

10、人の見のこしたものを見るようにせよ。その中にいつも大事なものがあるはずだ。あせることはない。自分のえらんだ道をしっかりあるいていくことだ。

 ぼくはこれは「偉大なる旅人、宮本常一」誕生の10ヵ条だと思っている。宮本先生のお父さんのお言葉は胸にしみるものがあり、親が子に送る最高の言葉だと思うし、とくに前半の1から4までの項目はぼく自身、長年に渡って実践していることでもある。まさに旅の基本といっていい。

聖地巡礼

 宮本常一先生の故郷、周防大島はぼくにとっては聖地のようなもの。いままでに4度、バイクで「日本一周」をしているが、そのたびに周防大島には立ち寄っている。

 一番最初の「日本一周」は1978年。空冷エンジンのスズキ・ハスラーTS50でまわった。先生の故郷は御子息の宮本光さんと紀子さん夫妻がしっかりと守っていた。光さんは「農業こそ人間にとって一番大事な仕事!」と東京農業大学卒業後、農業の実習を積み重ね、故郷の周防大島に戻ってミカンづくりをしていた。奥さんの紀子さんは武蔵野美術大学の出身で宮本先生の教え子。11月5日に有料の大島大橋で周防大島に渡り、宮本家に行った。光さんとは「ヤーヤーヤー」と久しぶりの再会を喜び合い、何度も握手をかわしたが、お2人のしっかりとしたユニークな生き方に心を打たれた。

 その夜は宮本家で泊めてもらった。腹いっぱい夕食をご馳走になったのだが、その中で出たソーメンウリが珍しく、またおいしく、遠慮もせずに丼1杯、食べた。その名の通り、煮るとソーメンのように細長くほぐれてくる。食後は大島の話、大島の農業の話、島の青年たちの話、さらには光さんの大好きな時刻表や地図の話…と、夜遅くまで光さんの話を聞くのだった。

 翌日は宮本夫妻についてミカン園に行った。仕事は肥料の鶏糞をまくことだった。軽トラックの荷台に鶏糞の入った袋を満載にし、山道を登っていく。周防大島は島全体が山がちで、平地が少ない。そんな山々の斜面を耕しているので、決して楽な農業ではない。道が行き止まりになると、そこから先は「ネコ」と呼ばれるエンジン付きの一輪車と、背負子に袋を積み替え、急な山の斜面を登っていった。

 ミカンの木には鈴なりのミカンが成っていた。もう半月もすれば収穫が始まり、そうなると猫の手も借りたいほどの忙しさになるという。宮本夫妻の手伝いをし、一緒になって鶏糞をまいた。休憩時間になると光さんには「カソリさん、食べたいだけ食べていいよ」といわれ、大粒のミカンをもぎとり食べまくったが、周防大島のミカンの甘さといったらなかった。瀬戸内海を見下ろし、海を渡って吹いてくる風に吹かれながら食べるミカンの味は格別だった。

 午後は宮本夫妻と一緒に白木山に登った。白木山は標高377メートル。山頂まで自動車道がついている。中腹まではミカン園が続き、その上は森林。松の木が多いのだが、すっかり松くい虫にやられ、無残にも赤茶色に枯れていた。白木山の山頂からの眺めはすばらしいもので、宮本先生の故郷の集落を眼下に見下ろし、周防大島の海岸線を一望できた。まるで地図を見ているかのようで、周防大島の概観が一目でわかった。

 翌日はハスラーで周防大島を一周。もうひと晩、宮本家で泊めてもらい、伊保田港から四国の松山にフェリーで渡った。四国を一周したあと、11月11日に周防大島に戻ってきた。再度、宮本家に泊めてもらい、翌日は地元の東和中学校で話をすることになった。光さんがすべて段取りしてくれたことだった。1年生2クラスの生徒80名を前にして、アフリカ大陸をオートバイで旅したこと、今こうして50ccバイクで日本一周をしていることなどを話した。45分の授業だったが、最後の10分間は質問の時間。どのようにしてアフリカの人たちと話したのか、毎日何を食べていたのか、病気になったときはどうしたのか、動物は怖くなかったのか…と、次々に質問が飛んできた。

 大汗をかいた授業だったが、誰もが行儀よく、生徒たちの澄んだ目に圧倒されてしまった。そのあと宮本夫妻と固く握手をかわして別れ、周防大島を離れ、こうしてぼくの最初の「聖地巡礼」は終わったのだ。

「日本一周」を終えて東京に戻ってからのことだが、日本観光文化研究所で宮本先生にお会いしたとき、周防大島に立ち寄り、光さん夫妻にすっかりお世話になったことを伝えた。すると先生は「そうか、それはよかった!」といってたいそう喜んで下さった。

 前出の『民俗学の旅』(文藝春秋)で宮本先生は次のように書かれている。

「私の若いときからの一つの夢は六十歳になったら郷里へ帰って百姓をすることであった。そして地域社会の持っている問題を郷里の人たちと考えて見たかった。ところが隠居する年になって学校へ勤めるようになった。勤めているうちに十年余りたってしまった。帰住するために、古くなった家を建てなおしたら次男が郷里へ帰って百姓することになった。私の郷里は昭和三十二年頃からミカンの植栽が進んだ。米や麦を作るよりはミカンを作る方が経済的にも安定するし苦労も少なくなると思ったが、生産過剰になって、ミカン作りでは生活がたちにくくなった。そしてミカンを作っていた若い者は都会へ出てゆくか、役場や農協へ勤めるようになった。そして人口7000余の町で二十歳台で百姓をしている者は一人もいなくなった。そうしたところへ帰ってミカンを作っても生活のたつ道を見つけたいと努力している。ミカンを台木にして、新しい品種の穂木を接木している。私にできなかったことをやってくれるのではないかと期待しているけれど、人間のあるいてゆく道の長さを近頃思い知らされることが多い。人の生きてゆかねばならない道は無限につづいているのである。」

 宮本先生はこのように書かれているが、その行間には光さんが先生の故郷をしっかりと守り、先生の夢を受けつないでくれたことへの感謝の気持ちと喜びが満ちあふれているように思えてならない。

カソリの「聖地巡礼」はつづく

 第2回目の「聖地巡礼」は宮本先生が亡くなられてから8年後の、1989年のことだった。その年の3月31日には先生のつくられた日本観光文化研究所が閉鎖され、一切の活動を停止した。ぼくが水冷エンジンのスズキ・ハスラーTS50で「日本一周」に出発したのは8月17日。有料の大島大橋を渡って周防大島に入ったのは、東京を出発してから72日目の10月27日のことだった。

 まずは宮本先生の故郷の神宮寺に行き、先生の墓参りをしたあと宮本家へ。光さんはぼくと顔を合わせるなり、「カソリさん、ちょうどよかった。明日、明後日の2日、山口の農業祭なんですよ。一緒に行きましょう」と誘われる。その農業祭で光さんは自分でつくった自慢のサツマイモ、「東和きんとき」の焼きいもを売るというのだ。光さんはミカンからサツマイモへと比重を移していた。農閑期には何かイベントがあると、焼きいもの道具一式を軽トラックに積んで出かけているとのことで、それがまた光さんにとっては「ハレの日」にもなっていた。

 ひと晩、宮本家で泊めてもらい、翌朝、宮本夫妻はまだ暗い午前5時30分に軽トラックで出発。ぼくも同乗させてもらう。光さんの運転で120キロの距離を走り、山口市郊外の農業試験場内の農業祭会場へ。山口県下の農協婦人部の「ふれあい喫茶」の隣りが光さんの「石焼きいも」のコーナーだった。さっそく石焼きいものカマをセットする。マキを焚いてカマの底に敷きつめた土佐産の小石を熱し、その上にサツマイモをのせていく。1時間半ほどたつと、焼き上がりはじめる。

「さー、いらっしゃい、いらっしゃい。おいしい、おいし~い大島の東和きんときの焼きいもですよ~!」

 と声を張り上げる。光さんの石焼きいもの人気は上々で、行列ができるほどの盛況ぶりだった。

 農業祭の2日目は光さんにかわってぼくが客を呼び込んだ。

「光クン、これなら焼きいもを売りながら、日本一周できるよ」

 ぼくが冗談半分にいうと、

「それはいいアイデアだ。カソリさん、やろう、やろう!」

 と、光さんは相槌を打ってくれた。

 2日間の農業祭を終え、周防大島に戻ると、宮本家で泊めてもらった。そして宮本夫妻の見送りを受けて四国に向かったのだが、周防大島の伊保田港からのフェリーがなくなっていたので、柳井港から松山行きのフェリーに乗った。

 第3回目の「聖地巡礼」は1999年。このときはスズキDJEBEL250GPSバージョンを走らせての「日本一周」だった。4月26日、無料化された大島大橋を渡って周防大島を一周し、その途中で宮本家に立ち寄った。農作業で忙しい時期だったのにもかかわらず、光さん、紀子さんはぼくを待ち構えてくれていて、お昼をご馳走になった。光さんは次の日は高知へサツマイモの苗を仕入れに行くことになっていて、地図を見ながら、

「竹原から今治にフェリーで渡って、そこから寒風山トンネルを通って高知まで行くんですよ」

 とうれしそうに話してくれた。完成したばかりの国道最長トンネルの寒風山トンネルを通るのをすごく楽しみにしているようだった。

 第4回目の「聖地巡礼」は2001年。このときはスズキSMX50でまわった。

「日本一周」の66日目、10月20日に周防大島に渡った。そして「周防大島一周」の途中で宮本家に立ち寄った。隣の平郡島へのフェリーの時間があったのでなんともあわただしい訪問になってしまい申し訳なかったが、わざわざ待ってくれていた光さん、紀子さんに挨拶し、光さんとひとしきり話をして出発しようとした。すると「カソリさん、途中でこれを食べて下さい」と、紀子さんから宮本農園産のミカンと蒸かしたサツマイモを手渡された。神宮寺の宮本先生のお墓に手を合わせたあと、周防大島のキラキラ光る海を見ながらホカホカのサツマイモを食べたのだ。

 このときの「日本一周」は島めぐりが一番の目的で、154日間で188島をまわった。島といえば宮本先生のまさにフィールド。全45巻の『宮本常一著作集』(未来社)の中でも『日本の離島』は第1集、第2集と2巻を占めている。「島めぐり」の日本一周では、宮本先生の世界に一歩でも足を踏み入れたいという強い思いもあったのだ。

 こうしていままでに4度の「日本一周」をなしとげ、そのたびに宮本常一先生の故郷の「聖地巡礼」をしてきた。カソリの「聖地巡礼」は、これから先もまだまだ、ずっとつづく。「聖地巡礼」というのは「熊野巡礼」や「メッカ巡礼」などの例を上げるまでもなく、回数を重ねれば重ねるほどいいものなのである。