賀曽利隆 STILL ON THE ROAD !

世界を駆けるバイクライダー・賀曽利隆(かそりたかし)。地球をくまなく走り続けるカソリの”旅の軌跡”をまとめていきます。

「鵜ノ子岬→尻屋崎2012~2018」(16)

■2013年3月12日(火)晴「四倉舞子温泉→蒲庭温泉」260キロ

 6時前に起き、四倉舞子温泉「よこ川荘」の朝湯に入り、早朝の海岸を歩いた。穏やかな海。やがて太平洋の水平線上に朝日が昇る。

「よこ川荘」に戻ると、渡辺哲さん、古山里美さんと一緒に朝食を食べ、7時に出発。渡辺さんはここからいわき市内の会社に出社し、古山さんは宮城県東松島市に向かっていく。カソリは「浜通り」を北上する。

「よこ川荘」のおかみさんは手を振って我々を見送ってくれた。

「また来ますよ~!」

 おかみさんにひと声かけて走り出す。海沿いの県道382号から国道6号の四倉の交差点に出たところで渡辺さん、古山さんと別れた。

 カソリは国道6号を北へ。スズキの250ccバイク、ビッグボーイを走らせる。トンネルを抜け出ると波立海岸。国道の脇にある波立薬師を参拝。ここも大津波に襲われた所だが、波立薬師は残った。目の前の弁天島の赤い鳥居も残った。

 波立海岸から久之浜へ。ここは大地震、大津波の後、さらに津波火災の大火に見舞われ、海岸一帯の町並みは全滅した。その中でポツンと秋葉神社の祠だけが残った。

 国道6号をさらに北上し、広野町から楢葉町に入る。今は楢葉町の全域に行けるようになっているが、住民はまだ戻っていない。住めるような状態ではないのだ。ここが渡辺さんの住む町。いわき市内からわずかな距離でしかないのに自宅に戻れず、さぞかし悔しい思いをしていることであろう。

 楢葉町を北上し、富岡町との境まで行く。そこが一般車両の通行止地点。警察車両が出て、警官が車を1台1台止めている。そこから先は許可証を持った車だけが入っていける。

 楢葉・富岡の町境で折り返し、国道6号の1本東側の県道244号を行く。県道244号の楢葉・富岡の町境は無人のゲートだ。

 国道6号、県道244号という2本のルートで楢葉・富岡の町境まで行ったところで、波倉の集落を抜け、太平洋岸に出る。大津波で破壊された堤防の向こうに東京電力福島第2原子力発電所がある。福島第2は楢葉町富岡町の2つの町にまたがっている。堤防がメチャクチャになっていることからもわかるように、福島第2も大きな被害を受けるところだった。

 もし福島第2が福島第1と同じような規模の事故を起こしていたら、「浜通り」は、というよりも日本はさらに大変なことになっていたのは間違いない。紙一重の差で残った「福島第2」もやはり「奇跡のポイント」といっていい。

 楢葉町富岡町の町境一帯にはおびただしい数の工事車両が出動し、各所で除染作業をしていた。道路沿いには刈り取られた草木などを詰めた黒い袋が無数、置かれていた。それらの除染用袋の集積場には大型のクレーン車が出て、黒い袋を山のように積み上げていた。その光景を見て、「これをどうやって処理するのだろう」と、素朴な疑問にとらわれてしまうのだった。

 楢葉町の海岸地帯を離れ、阿武隈山地の山裾を走る県道35号に出る。この道は国道6号のバイパス的なルートで、震災以前はかなりの交通量があった。それが今では無人の荒野を行くかのようで、すれ違う車はほどんどない。

 県道35号の楢葉町富岡町の境は開閉式のゲート。そこには警察官が出ていた。ここではバイクを止められ、免許証を調べられた。その場での警察官のチェックだけではなく、パトカーの無線を使って警察本部に免許証を照合している。このように「浜通り」の被災地でパトカーに止められると、必ずといっていいほど免許証を無線で照合して調べられる。これがわずらわしい…。

 県道35号から乙次郎林道経由で川内村に向かう。楢葉町に入れるようになったので、乙次郎林道も走れるようになった。林道入口から0・9キロ地点でダートに突入。舗装化の進む乙次郎林道だが、それでもまだ3区間のダートの合計は11・0キロと10キロを超えている。それが何ともうれしい。「林道の狼カソリ」は、10・0キロのダート距離をロングダートの目安にしているからだ。

 川内村に入ると滝谷林道が分岐するが、滝谷林道は通行止になっていた。また乙次郎林道に接続する小田代林道は全線が舗装路になっていた。

 川内村には村民が戻ってきている。人の生活のにおいがする。建設中の新しい家を見る。居酒屋もオープンしている。道路沿いの線量計の数値も「0・505マイクロシーベルト」と小数点以下まで下がっている。桃源郷のような山間の村、川内村が震災以前のような姿に戻ることを願うばかりだ。

 川内村からは国道399号を北上。田村市葛尾村と通って浪江町に入る。川内村田村市の境は名無し峠。田村市葛尾村の境は掛札峠、葛尾村浪江町の境は登館峠で、峠が市町村境になっている。

 浪江町の次は飯舘村だが、長泥地区が封鎖されているので、大きく迂回しなくてはならない。国道114号で水境峠を越えて川俣町に入り、川俣町の山木屋から飯舘村に入った。飯舘村は大半の村民が避難しているので人影はない。

 村役場に立ち寄り、線量計を見る。「0・59マイクロシーベルト」という数値で震災直後に来たときと比べると、大幅に下がっている。

 飯舘村からは県道12号で八木沢峠を越えて南相馬市に入った。

 国道6号に出たところにある道の駅「南相馬」でビッグボーイを止めた。長い長い迂回路だった。楢葉町から国道6号で来れば、南相馬までは1時間ほどなのに、それをを4時間以上もかけてやってきた。分断された国道6号の影響はあまりにも大きい。「浜通り」はひとつなのに、それが北と南に分断されてしまったのである。

 道の駅「南相馬」のレストラン「さくら亭」で昼食の「たんめん」を食べたところで、国道6号を南下し、浪江町との境まで行ってみる。南相馬と浪江の市町境が通行止地点で警察が1台1台の車を止めている。次に海沿いの県道255号で浪江町との境まで行ってみる。そこには無人のゲート。小高神社のある小高まで戻ると、海沿いの県道260号を行く。この道は大津波の影響で何ヵ所かで通行止になっている。

 道の駅「南相馬」に戻ると、今度は北へ。海沿いの県道74号で南相馬市から相馬市に入り、蒲庭温泉の一軒宿、「蒲庭館」に泊まった。この一帯の磯部地区では250人もの犠牲者を出したが、「蒲庭館」は残った。

 蒲庭温泉の湯につかり、湯上りのビールを飲み干したところで夕食。宿のおかみさんは震災当日の話をしてくれた。

「あの日は午後5時から、中学校の卒業式のあとのお別れ会がウチでおこなわれる予定になってました。PTAの会長さんら50人ほどが集まっての宴会になるはずでした。それがあのような大津波に襲われてしまって…。PTAの会長さん一家は6人全員が亡くなりました。お別れ会を夕方の5時ではなくて午後の3時ぐらいから始めていたら、みなさん、助かったのに…」といっておかみさんは嘆くのだった。

「鵜ノ子岬→尻屋崎2012~2018」(15)

■2013年3月11日(月)晴「いわき遠野→四倉舞子温泉」115キロ

東日本大震災」から2年後の3月11日の夜明けをいわき市入遠野の「遠野オートキャンプ場」で迎えた。寒い朝だ。おまけに昨夜来の猛烈な風が吹きまくっている。

 東京を出る前に見た新聞では、3月7日現在での「東日本大震災」の死者は15881人、行方不明者は2676人と出ていた。まだ2676人もの大勢の方々が行方不明というのが、何とも重く胸にのしかかってくる。震災から2年もたつと遺体の収容はきわめて難しいとは思うが、日本の国力をあげて、1人でも多くの犠牲者を発見して欲しいと願うばかりだ。それが復興への道の第一歩というものだ。

 明治29年(1896年)の「明治三陸津波」では21959人もの死者を出したが、行方不明者はわずか44人でしかなかった。これはすごいことだと思う。明治政府は軍を総動員して遺体の発見に全力をあげたという。

 それに対して昭和8年(1933年)の「昭和三陸津波」では、死者1522人に対して行方不明者はそれよりも多い1542人になっている。津波での犠牲者の発見がいかに難しいかを物語る数字ともいえる。

 さー、朝食だ。

 季節はずれの「遠野オートキャンプ場」には我々しかいない。『U400』編集の谷田貝さんが作ってくれた具だくさんの「朝うどん」を食べる。これが腹わたにしみ込むようなうまさ。そのあとは焚き火を囲んでモーニングコーヒー。谷田貝さん、武田さんとの話がはずむ。この時間が楽しい!

 日が高くなってきたところで「遠野オートキャンプ場」を出発。名残おしい遠野を後にし、県道14号でいわき湯本温泉へ。共同浴場「さはこの湯」に入り、湯から上がると近くの食堂で「タンメン」を食べた。

 東京に戻る谷田貝さん、武田さんとはここで別れ、カソリはいわき湯本ICで常磐道に入り、スズキの250ccバイク、ビッグボーイを走らせる。いったん南へ。次のいわき勿来ICで高速を降り、東北太平洋岸最南端の鵜ノ子岬へ。鵜ノ子岬北側の勿来漁港の岸壁に立った。ビッグボーイのニューカラーのブルーが東北の青い海によく映える。

「さー、行くぞ、ビッグボーイよ!」

 東北太平洋岸最北端の尻屋崎を目指して北へ、まずは小名浜へと、ビッグボーイを走らせる。

 小名浜海岸の臨海工業地帯の復興は速く、大津波の被害の痕跡は注意して見ていないと気がつかないほど。道路も新たに舗装され、段差はなくなり、消えた信号もない。通行止め区間もほとんどなくなり、海沿いの県道239号のごく一部の区間が通れないだけだった。

 小名浜の臨海工業地帯から小名浜漁港へ。魚市場は再開されているものの、風評被害をまともに受けて水揚げされる魚も少なく、小名浜漁港は閑散としていた。

 ここで運命の14時46分を迎えた。町中に鳴り響くサイレンの音に合わせ、海に向かって1分間の黙祷をした。

 2年前の2011年3月11日14時46分、三陸沖を震源とするM9・0という超巨大地震が発生した。M9・0以上の大きな地震をM8・0以上の「巨大地震」と区別して「超巨大地震」というが、日本では記録されたことがないような大きな地震だった。明治三陸津波をひき起こした地震はM8・5、昭和三陸津波をひき起こした地震はM8・1なので、それらをはるかに上回っている。

 三陸海岸には昭和35年(1960年)にも「チリ沖地震津波」が押し寄せ、岩手県の大船渡などが大きな被害を受けたが、このときのチリ沖地震はM9・5。20世紀以降では世界最大の地震になっている。

 小名浜を出発。ここからは三崎、竜ヶ崎、合磯岬、塩屋崎、富神崎といわき市の岬をめぐる。岬と漁港はセットのようなもので三崎には小名浜漁港、竜ヶ崎には中之作漁港、合磯岬には江名漁港、塩屋崎には豊間漁港、富神崎には沼ノ内漁港がある。

 これら岬の風景は大津波以降も何ら変わりが無いが、中之作漁港にしても江名漁港にしても豊間漁港にしてもかつてのにぎわいはなく、どこもひっそりとしている。東京電力福島第1原子力発電所の爆発事故による風評被害の大きさを見せつけられる光景だ。

 美空ひばりの歌碑の建つ塩屋崎を境にして北側が薄磯海岸、南側が豊間海岸になるが、ともに堤防を乗り越えた大津波によって、豊間も薄磯も大きな被害を受けた。いわき市内では最大の被災地だ。

 豊間では大勢の人たちが集まって盛大な慰霊祭が行なわれていた。次々にやってくる人たちが祭壇に花を供え、海に向かって手を合わせている。慰霊祭の会場や堤防の上にはキャンドルが置かれている。その数は3500にもなるという。地元のみならず、日本各地から送られたキャンドルもある。日が暮れると、いっせいに火が灯されるという。薄磯の方ではすでに慰霊祭は終ったのか、人の姿はほとんど見かけない。堤防のすぐ下の新しい慰霊塔に手を合わせた。

 塩屋崎の北に富神崎がある。

 富神崎の南側が薄磯で大津波の直撃を受け、集落は全滅した。すさまじいやられ方だ。多くの犠牲者も出ている。ところが岬北側の沼ノ内の集落はほとんど無傷のように見える。堤防のすぐ内側に家々が建ち並んでいるが、壊れた家は1軒もないし、ここでは1人の犠牲者も出ていない。地元のみなさんは富神崎が集落を守ってくれたといっている。

 沼ノ内を過ぎると、潮風を切って太平洋岸を走る。新舞子海岸の松林の中を走る。この道は県道382号。地震直後は夏井川にかかる橋に大きな段差ができ、しばらく通行止めがつづいたが、今ではきれいに舗装されてそれもわからなくない。

 今晩の泊まりは四倉舞子温泉の「よこ川荘」。おかみさんにまずはお礼をいう。震災の復旧工事や放射能測定の業者のみなさんが泊まり、ほぼ満室だったにもかかわらず、かなり無理して部屋を空けてくれたのだ。

「よこ川荘」には『ツーリングマップル東北』を持って東北各地をまわっている古山里美さんと、地元、楢葉町の渡辺哲さんが来てくれた。

 夕食の膳ではまずはビールで犠牲者のみなさんに「献杯」。夕食を食べながら渡辺さんには浜通りの現状をいろいろと聞く。古山さんには今日1日まわったところの話を聞いた。

 大広間での夕食だったが、同じテーブルで食事をしている女性がいた。震災2年後ということで、札幌からやってきた小田原真理子さんだ。何と小田原さんは被災地のみなさんに「鎮魂の舞踊」を見てもらいたくてやってきた。札幌にはご主人とお子さんたちを残してきたという。そんな小田原さんは食事がすむと「アベマリア」と「ラブ」の2曲に合わせて「鎮魂の舞踊」を踊ってくれた。一心不乱になって踊りつづける小田原さんの姿は感動的で、我々のみならず、「よこ川荘」のおかみさんもすっかり心を奪われてしまったようだった。

 小田原さんと別れ、部屋での飲み会を開始する。被災者の渡辺さんの差し入れだ。

 渡辺さんの実家は楢葉町。爆発事故を起こした東電福島第1原発の20キロ圏内ということで、いまだに自宅には戻れない。すでに大津波から2年もたっているというのに家族がバラバラになってしまった。そんな大変な思いをしているのだが、そこはライダー特有の明るさとでもいおうか、渡辺さんと話しているとかえって元気をもらってしまう。気持ちがいつも前向きなのだ。

 渡辺さんの差し入れをすべて飲み尽くしたところで飲み会終了。渡辺さんとは枕を並べて寝た。明日は「よこ川荘」からバイクで出社するという。

「鵜ノ子岬→尻屋崎2012~2018」(14)

■2013年3月10日(日)晴「白米鉱泉→いわき遠野」175キロ

 3月10日。白米鉱泉「つるの湯」の朝湯に入り、朝食を食べ、7時30分に出発。いわき勿来ICで常磐道に入り、スズキの250ccバイク、ビッグボーイを走らせ、いわき湯本ICへ。ここで『U400』編集長の谷田貝さんとカメラマンの武田さんに落ち合った。今日は『U400』(5月号)の取材で、「いわき遠野」の林道を走るのだ。こうしてビッグボーイでの「林道走破行」第2弾目、「いわき遠野編」が始まった。

 ところで東北には2つの「遠野」がある。岩手県の遠野と福島県の遠野でともに「林道の宝庫」という共通点がある。福島県の遠野は勿来同様、いわき市内にある。常磐道のいわき湯本ICから10分ほどで着くいわき遠野は、林道ツーリングには絶好のエリアなのである。

 3月上旬というと、日本各地の林道はまだ深い雪に埋もれているが、さすが「東北の湘南」のいわき市だけあって、いわき遠野の林道群に雪はほとんどない。たまに残雪の林道に出くわすと、適度に面白く雪中ランをできるので、いいことずくめなのだ。

 折松の集落から入っていく折松・硯石林道を第1本目にして全部で5本の林道を走ったが、それら5本の林道はすべてつながっている。ダート走行だけにこだわってルートを選択すれば、50キロ超の連続ダートが可能になる。

 いわき遠野は岩手県の遠野と同じように民話の宝庫。「カッパ伝説」が伝わり、いわき遠野版の「遠野物語」もある。上遠野には中世の山城跡が残されている。民俗・歴史的にみてもじつに興味深い。

 いわき遠野は入遠野と上遠野の2つの地区から成っている。我々が目指すのは入遠野。常磐道のいわき湯本ICから県道14号を行くと、上遠野の町並みを通り過ぎたところで県道20号との分岐に出る。右折して県道20号を北へ。清流の入遠野川に沿った道になる。アユで知られる入遠野川にはアユの簗場があるほど。そのすぐ先には温泉宿の「中根ノ湯」がある。ここは入浴のみも可。いわき湯本ICから10キロほど走ると入遠野の町に到着。ちょっとショックだったのは1年前にはあった旅館兼食堂がなくなっていたことだ。この入遠野の町がいわき遠野の林道走行の拠点になる。

まずは第1本目の折松林道へ。来た道を戻り、左折して折松の集落へ。そこから折松林道に入っていく。しばらくは舗装林道がつづくが、林道入口から2・5キロ地点で待望のダートに突入。そこから1・1キロ地点の分岐を左折し、ゆるやかな山並みの稜線近くを通っていく。展望ポイントからは入遠野の田園風景を見下ろす。折松林道では何度か猪に遭遇している。かわいらしいウリ坊に出会ったこともある。ダート5・9キロの折松林道を走り切ると、硯石林道とのT字路に出る。ここを右折。硯石林道を1・7キロ走ったところが鶴石山林道との分岐。直進が鶴石山林道で、硯石林道は左に折れる。

 以前はこの分岐から先はかなりラフなダートだったが、今ではすっかり整備されて走りやすくなっている。鶴石山林道との分岐から2・5キロ走るとT字路に出る。そこが硯石林道の終点。折松・硯石林道のダート距離は10・1キロ。我ら「林道派」にはうれしい10キロ超のロングダートだ。

 硯石林道の終点は渓流にかかる橋。橋を渡ったところでT字路に出る。右が官沢林道で左が盤木沢林道。まずは右折し、官沢林道に入っていく。ゆるやかな登りのストレートな区間がつづく。ここではビッグボーイでの快適なダートランを楽しめる。路面はほどほどにラフ。自由自在に山中を駆け抜けていく気分がたまらない。この一帯は林業地帯で杉の植林も多く、盛大に杉花粉を飛ばしているが、山中に入ると花粉症のきつい症状がそれほど出なくなるのが不思議だ。峠に近づくと状況は一変。北側斜面のコーナーは残雪に覆われている。雪中ツーリングの開始。ここではビッグボーイの足着き性の良さにおおいに助けられた。両足ベタ着きですこしづつ登っていく。アイスバーン区間は何とも走りにくい。ビッグボーイのタイヤのパターンがロードに振ってあるのでツルツル滑ってしまうのだ。路肩に逃げ、雪と草地の境目を走ったが、それでも何度かスタックし、ヒーヒーハーハー肩で大きく息をする。そんな難関をついに乗り切り、峠に到達。峠のゆるやかな下りの残雪は難なく突破し、官沢林道の5・2キロのダートを走りきって舗装路に出た。

 官沢林道を走り切るとT字の舗装路に出る。このT字路を右に行けば国道49号のいわき三和に出る。いわき三和も林道の宝庫で網の目状に何本もの林道が走っている。その大半はこの舗装路と県道135号の間に集中している。

 さて官沢林道終点からはT字路の分岐を左へ。狭路の舗装路を走り、県道20号に出る。遠野トンネルの近くだ。県道20号はいわき遠野の林道走行では一番、重要なルートになるので、しっかりと頭に入れておかなくてはならない。県道20号に出ると左へ。入遠野方向に1キロほど走ったところが、第4本目の盤木沢林道の入口になる。県道20号のヘアピンカーブから林道に入っていく。林道の入口からダートなのがうれしい。盤木沢の谷を右手に見ながら走るが、樹林に隠れて深い谷は見えない。この林道の周辺には落葉樹が多い。3月の初旬だと冬枯れの風景だが、5月になると新緑がまばゆいほどに輝く。夏の深緑、秋の紅葉も目に残る。盤木沢林道は官沢林道の南側になるが、官沢林道のような残雪の区間はまったくなかった。ちょっとした高度の違い、方角の違いによって雪はずいぶんと違ってくる。盤木沢林道の3・5キロのダートを走りきり、硯石林道、官沢林道、それと盤木沢林道の3本の林道の合流地点に戻ってきた。

 盤木沢林道、官沢林道、硯石林道の3本の林道の合流地点から、硯石林道に入り、2・5キロ走ると、鶴石山林道との分岐点に出る。ここを左折し、鶴石山林道に入っていく。林道の入口は短い舗装路。すぐに二又の分岐になるが、左は牧場への道。鶴石山林道は右に入っていく。この分岐からダートが始まる。牧場に沿った稜線近くの道を行くと、やがて鶴石山(767m)が見えてくる。山頂には電波塔。鶴石山周辺からの眺めの良さが鶴石山林道の魅力だ。樹林が切れたあたりでビッグボーイを止め、牧草地の向こうに、幾重にも重なりあった阿武隈山地のゆるやかな山並みを眺めた。穏やかさを感じさせる風景。鶴石山の山頂周辺に雪はほとんどない。

 鶴石山から下っていくと、コーナーは短い舗装路になっている。日渡高野林道との分岐を過ぎ、二本川林道との分岐に出る。この分岐はT字路。右が鶴石山林道、左が二本川林道になっている。ところが右の鶴石山林道は崩落で通行止。そこでダート1・4キロの二本川林道を走り、高野の集落に出た。ダート8・0キロの鶴石山・二本川林道。分岐でそのまま鶴石山林道を走ってもやはりダート距離は8・0キロだ。県道20号から盤木沢林道→硯石林道→鶴石山林道→二本川林道と、4本の林道を走りつなぐと14・0キロのロングダートになる。

 国道49号に出ると長沢峠を越え、国道349号→県道20号で入遠野に戻り、「遠野」のオートキャンプ場で泊まった。谷田貝さんが作ってくれたキャンプ料理を食べながらおおいに飲み明かした。武田カメラマンとは一緒にサハラ砂漠を縦断し、生死を共にした仲間なので、「サハラ談義」で盛上がった。

「鵜ノ子岬→尻屋崎2012~2018」(13)

■2013年3月9日(土)晴「伊勢原→白米鉱泉」357キロ(その2)

 3月9日12時、東北太平洋岸最南端の鵜ノ子岬を出発。国道6号に出ると、JR常磐線勿来駅前でスズキの250ccバイク、ビッグボーイを止める。駅前には「八幡太郎義家」で知られる源義家の像が建っている。

 勿来駅前の「朝日屋食堂」で昼食にする。ぼくは駅前食堂が大好きなのだ。

朝日屋食堂」は駅前旅館の「朝日屋旅館」に隣りあっている。

 ここでは豚汁定食(850円)を食べた。大きな丼に入った豚汁はボリューム満点。それとタコの刺身を追加で注文したが、歯ごたえのある新鮮なタコの食感がたまらない。

 駅前食堂での昼食に満足したところで、いわき市の「林道走破行」の第1弾目を開始する。まずは「いわき勿来編」だ。

 福島県の太平洋側は「浜通り」と言われている。阿武隈川流域の中通りに対しての浜通りになるのだが、このエリアは一年を通してバイクで走れる。「東北の湘南」と言われるほど気候は温暖で、雪はほとんど降らない。とくに浜通り南部のいわき市は雪の降らないところとして知られている。このいわき市は知られざる「林道天国」なのだ。それこそ数えきれないほどの林道が網の目状に延びているし、おまけに通行止めなどのうるさい規制はほとんどなく、自由自在に走れるのが何ともいい。

 JR常磐線勿来駅前から国道6号→国道289号で常磐道のいわき勿来ICの前を通り、四時川にかかる四時大橋を渡ったところで国道を左折し川部へ。ここから「いわき勿来編」の林道群を走りはじめる。

 第1本目の目兼横川林道の入口は川部近くの蛭田川にかかる山王橋。ここまでは常磐道のいわき勿来ICから5キロほどでしかない。山王橋の手前を右折し、0・8キロ走ると待望の目兼横川林道のダートに突入。路面は整備されていて走りやすい。最初の分岐は左へ、次は右へ、その次も右へ。ダート突入から3・6キロ地点の分岐を右に行くと、5・3キロ地点で切通しになった峠に到達だ。夏に走った時はここでウリ坊に出会った。ヨチヨチ歩きのウリ坊のかわいらしい姿が目に浮かんでくる。

 仏具山南側の峠を越え、ゆるやかな峠道を下っていく。仏具山林道との分岐点を過ぎ、弥太郎林道との分岐のT字路を右折すると横山だ。まずは第1本目の林道、ダート7・6キロの目兼横山林道を走った。

 この横山が「いわき勿来編」の林道の拠点になっている。四時川の川岸には東北電力の小さな発電所がある。それに隣合って家が一軒ある。以前は店屋をやっていた。このエリアの林道を走る時は必ずここでバイクを止め、パンを買って食べ、店のオバチャンと話したものだ。その店が今はない。それが寂しい。

 横川から第2本目の弥太郎林道を行く。0・6キロ地点でダートに突入。そこから0・1キロ地点の目兼横川林道との分岐点を直進し、渓流に沿って走る。ビッグボーイでの快適なダートラン。ダート突入地点から3・0キロ地点で藤ノ木沢林道との分岐点に出る。ここまでは幅広の走りやすい林道。路面もよく整備されている。

 藤ノ木沢林道との分岐点を過ぎると道幅は狭くなり、路面も若干、荒れてくる。以前はこの分岐から先は大荒れだった。大粒の石がゴロゴロし、路面には深い亀裂が何本もできていた。それも今は昔。福島・茨城県境の峠を目指して上っていく。

 福島・茨城県境の峠に到達。茨城県側に入ると熊ノ倉林道になる。峠から0・2キロ下ると舗装路に出る。花園渓谷沿いに走る県道27号だ。

 第2本目の弥太郎・熊ノ倉林道はダート6・6キロ。ここまでの連続ダート距離は14・2キロになった。

 県道27号に出たところで折り返し、3・3キロのダートを走り、藤ノ木沢林道との分岐まで戻る。そこには木の鳥居が立ち、階段を登ったところには山神をまつる祠がある。大山祇神社だ。この一帯の杉林は見事。きれいに枝打ちされた杉は空に向かって真っ直ぐに伸びている。雪国だとなかなかこうはいかない。この杉の美林ひとつを見ても、「いわき勿来」が雪の降らないところだということがよくわかる。

 大山祇神社前から藤ノ木沢林道に入っていく。0・8キロ地点で峠を越え、2・1キロ走ったところで四時川にかかる橋を渡る。そこは四時川林道の入口だ。

 第3本目の藤ノ木沢林道のダートは2・9キロ。ここまでの連続ダート距離は20・7キロになった。

 第4本目の四時川林道のダートに突入。四時川渓谷沿いの林道だ。四時川渓谷は落葉樹林なのでまだ冬枯れの風景だったが、紅葉の季節は目を見張るようなすばらしさ。紅葉美と渓流美の両方を見ながら走れる。新緑の季節もすごくいい。

 四時川阿武隈高地南端の朝日山(797m)を源にしている。四時川に沿って走りつづけると、次第に細い流れになり、やがて福島・茨城の県境を流れる川になる。このあたりは茨城県最北の地でもある。四時川の上流は関東と東北を分けている。

 四時川林道のダート7・4キロ走りきると舗装路に出る。右に行けば国道289号、直進すれば小集落で行止りになる。ここまでの連続ダート距離は28・1キロだ。

 舗装路に出たところで折り返し、四時川林道→藤ノ木沢林道→弥太郎林道と走り、横山に戻った。ここから目兼横川林道経由で第5本目の仏具山林道へ。仏具山林道との分岐に到着。T字路から0・8キロの地点だ。仏具山の山頂直下の峠に向かって登っていく。この登り区間はおもしろく走れる。適度に路面は荒れ、タイトなコーナーが連続する。ブラインドのコーナーでは対向の木材満載のトラックに要注意。

 目兼横川林道との分岐点から3・9キロ地点が峠。峠を越えるとすぐに分岐に出るが、そこを左に折れ、舗装路を登ったところが仏具山(670m)の山頂になる。仏具山からの展望を楽しんだところで分岐に戻り、国道289号へと下った。

 急勾配の下りはダート→舗装→ダート→舗装と斑模様の林道になる。最後のダート区間を下って国道289号に出ると、その角にはライダーにも人気の「おやじがんこそば」がある。

 第5本目の仏具山林道は5・5キロのダート。ここまでの連続ダートは47・7キロになった。その間、雪はほとんどなかった。これはすごいことだ。この季節だと、東北のみならず、日本のほとんど林道はまだ雪に埋もれて走れない。「いわき勿来」の林道群のすごさは、一年中、走れるということだ。

 これら「いわき勿来編」の林道5本は『ツーリングマップル東北』に詳しく出ている。 さー、オフロード派のみなさん、『ツーリングマップル東北』を持って「いわき勿来」に行きましょう。50キロ近い連続ダートを走れるエリアなど、日本中を探しても、そうそうあるものではない。

 国道289号に出ると、常磐道のいわき勿来ICに近い白米鉱泉「つるの湯」へ。ここはカソリの定宿。いつも夜の10時とか11時とか、遅い時間の到着なのだが、この日は18時とまだ若干、明るい。宿の小さめな湯船につかり、湯上りのビールで「鵜ノ子岬→尻屋崎」の旅立ちに乾杯だ。そのあとで刺身や煮魚、餃子などの夕食を食べた。

「鵜ノ子岬→尻屋崎2012~2018」(12)

■2013年3月9日(土)晴「盛岡→白米鉱泉」357キロ

東日本大震災」の2年後の東北太平洋岸を見ようと、3月9日4時、神奈川県伊勢原市の自宅を出発。相棒はスズキの250ccバイクのビッグボーイ。ほぼ新車でブルーのカラーリングが太平洋をイメージさせる。

 2010年の「林道日本一周」ではビッグボーイで92本の林道を走った。全走行距離は1万2667キロ。そのうちのダート距離は469・9キロだった。

 ビッグボーイというと、洒落た街乗りバイクのイメージが強いが、このように林道もガンガン走れる。今回はまず、いわき市の林道を走るのだ。 

 ビッグボーイはポジションの取り方がじつに楽なバイクなので、長距離走行に疲れないのがすごくいい。気負わずに自然体で林道を走れるので、まわりの風景を楽しめるし、自分と自然が一体になったかのような陶酔感を味わえる。ライトが明るいのでナイトランが楽。とくにハイビームの明るさは特筆すべきもの。燃費が良いのでタンクの小ささはあまり気にならない。給油警告灯が点灯しても50キロ以上は走れるので安心だ。

 高速道路での高速走行は想像した以上に楽で、最初のうちは100キロ走行だったが、そのうち110キロになり、120キロの長時間走行も大丈夫。粘り強いエンジンで熱ダレしない。それとチェーンが見た目以上にしっかりしている。そのおかげでチェーン調整をほとんどしないで長距離を走れる。このようにビッグボーイは林道ツーリングのみならず、長距離ツーリングを存分に楽しめるマシンなのだ。

 ところで今回の東北太平洋岸の全域を走る「鵜ノ子岬→尻屋崎2013」だが、2011年の東日本大震災によってもたらされた大津波は、想像を絶する被害を各地にもたらした。その様子を刻々と入ってくるニュースの映像で見ながらカソリ、正直いって体がまったく動かなかくなてしまった。あまりにもすさまじい映像の連続だったからだ。

 太平洋沿岸というと東北というよりも、日本の中でもぼくの一番好きなエリアといってもいいほどで、何度となくバイクで走ってきた。

ツーリングマップル東北』でも2011年版(2010年取材)の表紙は浜通り(福島)だし、2010年版(2009年取材)は南三陸海岸(宮城)だ。

 そんな自分の一番好きな世界が大津波に襲われたという衝撃は大きく、やっと動こうという気になったのは震災2ヵ月後の2011年5月11日のことだ。まずは大津波に襲われた東北太平洋岸の全域を見ようと、第1回目の「鵜ノ子岬→尻屋崎」を走った。鵜ノ子岬(福島)は東北太平洋岸最南の岬、尻屋崎(青森)は東北太平洋岸最北の岬になる。

 あまりにもすさまじい大津波の被害を目の当たりにして、

「これはもっともっと、しっかりと見なくては!」

 と、つづいて大震災3ヵ月後の6・11、大震災半年後の9・11に第2回目、第3回目の「鵜ノ子岬→尻屋崎」を走った。それのみならず年末まで間で、浜通りとか仙台市の海岸一帯、石巻・女川…といったように「鵜ノ子岬→尻屋崎」のパートを何度か走った。 そして思ったことは、

「これからは鵜ノ子岬→尻屋崎を定期的に走ろう!」

 ということだった。

 この時点で「鵜ノ子岬→尻屋崎」は「峠越え」や「温泉めぐり」、「岬めぐり」などと同じようにカソリのライフワークになったのだ。

 2012年3月11日には大震災1年後の「鵜ノ子岬→尻屋崎」を走り、夏にも走った。そして2013年の3月11日を迎えたのだ。ということで今回が第6回目の「鵜ノ子岬→尻屋崎」になる。

 さー、北へ。厚木ICから東名に入る。首都高を経由し、常磐道の三郷料金所へ。

 夜明けの常磐道を北へ、北へと走り、友部SAで朝食。「たまり醤油ラーメン」(650円)を食べた。ツーリングで食べる「朝ラーメン」は元気が出るものだ。

 我が家を出発してから4時間後の9時、230キロを走って北茨城ICに到着した。

 国道6号に出ると、大津漁港へ。岸壁は震災で崩れたり、陥没したままだが、やっと復興の兆しが見え始めている。漁港の一角では「市場食堂」が営業を再開し、市場食堂の隣の「よう・そろー」の物産館はまもなくリニューアルオープンする。残念ながら「北茨城市漁業歴史資料館」の方は、まだしばらくは閉館がつづくようだ。

大津漁港からは小半島をぐるりと一周する。南端の岬、鵜島ノ鼻を通り、大津岬灯台を見る。大震災で被災したが、震災1年後には新しい灯台が完成した。灯台の下には水仙の花が咲いていた。五浦岬では駐車場にビッグボーイを停め、岬まで歩いた。そこからは海越しに、やはり震災1年後に再建された「六角堂」を見る。

 五浦岬からは「六角堂」のある茨城大学美術文化研究所まで行き、「天心遺跡」(入園料300円)を見学。日本文化の近代化に大きく貢献した岡倉天心(1863~1913年)がこの地に移り住んだのは40歳の頃。「天心遺跡」には天心記念館や天心邸があり、海岸の岩場の上に六角堂が建っている。この六角堂が天心遺跡のシンボル。この近くには「天心記念美術館」もある。

 北茨城の最後は平潟漁港。鵜ノ子岬の南側で、ここが関東最北の漁港であり、関東の太平洋岸最北の地になる。大地震で鵜ノ子岬突端の岩山は崩れ、大岩が散乱していていたが、それがきれいに取り除かれていた。アンコウ漁で知られる平潟漁港も大きな被害を受けたが、漁港の岸壁のかさ上げ工事が行なわれていた。大震災2年目にしてやっと動き出したという感じで、元通りの平潟漁港の姿を取り戻そうとしている。平潟漁港の魚市場で、水揚げされたばかりの大物アンコウを持たせてもらった何年か前の日が、懐かしく思い出されてくるのだった。

 北茨城の平潟漁港からいったん国道6号に出ると、茨城県から福島県に入る。関東から東北に入ったのだ。すぐに国道6号を右折し、勿来漁港でビッグボーイを止めた。鵜ノ子岬北側の漁港で、ここが東北太平洋岸最南の地になる。

 テトラポットで守られている堤防の上に立ち、岩山が海に落ち込む鵜ノ子岬を眺める。岩肌にはくっきりと大津波の痕跡が残されている。ポッカリと開いた海食洞の大穴からは、鵜ノ子岬南側の平潟漁港が見えている。

「鵜ノ子岬→尻屋崎2013」の開始だ!