賀曽利隆 STILL ON THE ROAD !

世界を駆けるバイクライダー・賀曽利隆(かそりたかし)。地球をくまなく走り続けるカソリの”旅の軌跡”をまとめていきます。

賀曽利隆の「70代編日本一周」(3)

 2017年9月1日に出発した「賀曽利隆の70代編日本一周」ですが、東日本編(45日)の12478キロ、西日本編(49日)の12818キロ、合計すると25296キロを走り、2017年12月17日に出発点の東京・日本橋に戻ってきました。ここまでは第1部。その直後に第2部に出発し、2018年12月31日に日本橋にゴールし、「70代編日本一周」を終えたのです。ゴール直後に書いた『地平線通信』をお読みください。

●みなさ~ん、こんにちは。すっかりごぶさたしました。地平線会議の「40年祭」は盛大にやりましょう~!といっておきながら、何らかかわれず、参加することもできず、ほうんとうに申し訳なく思っています。それ以上に、何とも残念なことでした。大盛況のうちに終わったと聞いてホッとしています。昨年の『地平線通信』(2018年1月号)でもお伝えしたように、70歳の誕生日を期して出発した「賀曽利隆の70代編日本一周」をつづけていたからなのです。おかげさまで、昨年末の12月31日をもって、終了させることができました。最後は最初と同じ、「伊豆半島一周」で終わらせました。2018年12月31日の21時15分に東京・日本橋にゴールしたのですが、その瞬間、2017年9月1日に日本橋をスタートしたシーンがよみがえり、胸がジーンとしてくるのでした。

●日本一周の相棒、Vストローム250のメーターは81626キロを表示していました。この走行距離は2017年8月1日~8月31日の「日本一周プレラン」(4174キロ)、9月1日~12月17日の「日本一周・第1部」(25296キロ)、2017年12月20日~1918年12月31日の「日本一周・第2部」を合わせたものです。そのほかに、『ツーリングマップル東北2019年版』の表紙撮影&実走取材で使用したVストローム1号(7328キロ)、2万キロごとのタイヤ交換やチェーン、スプロケット等の交換時に用意してもらったVストローム2号(685キロ)、Vストローム3号(3752キロ)がありますので、全部で4台のVストローム250で成しとげた「日本一周」。全走行距離は93391キロになりました。10万キロに到達しなかったのがちょっと残念です。

●「賀曽利隆の70代編日本一周」の第2部の「テーマ編」は、第1部を終えた直後の2017年12月20に開始しました。「1年365日、毎日、バイクに乗ってやる!」という意気込みでスタートさせました。12月20日の浜松往復を皮切りに、峠越え(ヤビツ峠)、伊勢原探訪、三浦半島一周、江ノ島探訪、峠越え(朝比奈峠)、大楠山登頂(三浦半島最高峰)、箱根スカイライン、伊豆スカイライン、大山登頂、大山街道(田村道)と一日の休みもなくバイクを走らせました。

●2018年に入っても1月1日の元日ツーリング(初詣、初日の出、初富士、相模の神社めぐり)を皮切りに富士山一周、伊豆半島一周、東京探訪(江戸城)、峠越え(正丸峠)、高麗山登頂、小田原探訪、峠越え(箱根峠)、峠越え(足柄峠)、大山街道(矢倉沢街道)、安房国探訪、弘法山登頂、峠越え(山伏峠・道志村)、峠越え(雛鶴峠)、真鶴探訪、街道を行く!(東海道・平塚宿→日本橋)、東京探訪(品川宿)、街道を行く(東海道・沼津宿→府中宿)、大山街道(二宮道)、相模川探訪(河口→昭和橋)、相模川探訪(昭和橋→小倉橋)、峠越え(篠窪峠)、国道走破行(東京~横浜間の超短国道)、相模川探訪(小倉橋→日連大橋)、相模川探訪(日連大橋→山中湖)、新東名厚木南IC(15時に開通)、峠越え(鶴峠)、峠越え(小仏峠)、峠越え(高麗峠)と、やはり1月も1日も休むことなくバイクを走らせました。

●このようにして2月以降も、「峠越え」や「温泉めぐり」、「岬めぐり」、「街道を行く!」、「林道走破行」、「島めぐり」…など様々なテーマで日本を駆けめぐりました。中でも特筆すべきなのは「鵜ノ子岬→尻屋崎」です。東日本大震災の発生した3月11日に、我がライフワークにもなっている「鵜ノ子岬→尻屋崎」に出発しました。鵜ノ子岬は東北太平洋岸最南の岬、尻屋崎は東北太平洋岸最北の岬。「鵜ノ子岬→尻屋崎」を走ることによって、東日本大震災の大津波で大きな被害を受けた東北太平洋岸の全域を見てまわれるのです。ということで始めた「鵜ノ子岬→尻屋崎」も今回が第20回目。今回も東北太平洋岸の日々変わっていく姿を見てきました。

●「12345678910ツーリング」も忘れられません。日本の幹線国道の国道1号から国道10号までの国道走破行です。国道1号→国道2号→国道3号で「東京→鹿児島」を走り、国道10号→国道9号→国道8号、さらには国道17号で「鹿児島→東京」を走りました。つづいて国道4号→国道5号で「東京→札幌」を走り、青森に戻ると、国道45号経由で「仙台→東京」の国道6号を走りました。最後の国道7号は東京から国道4号で青森まで行き、「青森→新潟」の国道7号を走り、国道17号で東京に戻ってきたのです。毎年、恒例の「東京→青森・林道走破行」もやりました。全部で20本の林道を走り、ダート距離の合計は160・1キロになりました。

●我が旅人生は1968年4月12日に旅立った「アフリカ一周」に始まります。カソリ、20歳の時のことでした。日本に帰ってきたときは22歳になっていましたが、「こんなにおもしろいことはほかにはない。これからはとことんバイクで世界を駆けまわるぞ!」と、22歳の誓いをたてたのです。その「22歳の誓い」どおりにというか、「アフリカ一周」にひきつづいて、「世界一周」、「六大陸周遊」で世界を駆けめぐったのです。20代のカソリの世界旅は超貧乏旅行の連続で、基本は宿泊費ゼロ。1000夜以上の野宿をしました。

●ぼくが日本に目を向けたのは20代も後半になってからのことです。そのときに日本をテーマで見ていこうと思いたち、「峠越え」や「温泉めぐり」、「岬めぐり」などをテーマにして日本を走り始めたのです。「日本一周」も日本を見るためのテーマのひとつでした。30代は日本に夢中になりました。40代、50代は日本と世界をキャッチボールするような感じで、日本を見た目で世界を見る、世界を見た目で日本を見る、それをくりかえしたのです。60代以降は日本に重点をおいた旅をつづけています。

●ぼくにとっての最初の「日本一周」は30代編でした。今となっては20代編をやっておけばよかったと悔やむ気持ちもあります。30代編日本一周にひきつづいて40代編、50代編、60代編、70代編と「年代編・日本一周」をつづけています。その間には「島めぐり日本一周」、「温泉めぐり日本一周」、「林道日本一周」の「テーマ編・日本一周」があります。

●10年ごとの「年代編日本一周」はまさに我が人生の節目を見るかのようです。「30代編日本一周」は妻と生後10ヵ月の赤ん坊を連れての「シベリア横断→サハラ縦断」から帰ったあとのことでした。2人目の子供が誕生したのを見届けると家にあった10万円を旅の資金にし、妻には「わるいな、それでは行ってくるから」と言い残して旅立ちました。全費用10万円の日本一周なので、全泊野宿でした。「40代編日本一周」は出発直前に胸の腫瘍がみつかり、「あー、我が人生もこれで終わりか…」と、じつに暗い気持ちで旅立ちました。それからの10年間は「死の恐怖」に怯えながらの旅の連続。40代の後半になって胸の腫瘍を除去してもらったときは、「これでまだまだ大丈夫!」と生き返るような思いでした。「50代編日本一周」の出発は1年、遅らせました。何と50代に突入してまもなく心臓発作に見舞われ、家の階段も登れなくなってしまったのです。なんとかバイクに乗れるくらいまで回復したあとは、重度の不整脈に見舞われました。医師にはまるで人ごとのように、「よくこれで普通の生活が送れますね」といわれたほど。そんな不整脈を抱えての旅立ちでしたが、日本橋を旅立ってから13日目、四国の四万十川沿いの道を走っているときに、不整脈はピタッと止まったのです。病院では治せなかった不整脈がバイクで治ったのです。それから20年間、不整脈は一度も出ていませんし、心臓発作の再発もありません。

●「60代編日本一周」は「還暦」との戦いでした。還暦が重い重圧となって、のしかかってきました。それを乗り越えたとき、新たな地平が目の前に開けたような気がしました。「そうだ、還暦だから元に戻れるのだ、自分の原点はアフリカ一周に旅立った20歳。20歳に戻ろう!」と思ったときの気持ちの軽さは今でも忘れられません。そして「70代編日本一周」ですが、まさに「老いとの戦い」。日々、迫りくる老いとの戦いの連続でした。それを乗り越えたとき、「よーし、これでまだまだできる、今度は80代編日本一周を目指そう!」という気持ちになるのでした。みなさん、ぜひとも1月29日の報告会にはおいでください。みなさん方とともになって、カソリの「日本一周」を語り合いたいと思っています。