賀曽利隆 STILL ON THE ROAD !

世界を駆けるバイクライダー・賀曽利隆(かそりたかし)。地球をくまなく走り続けるカソリの”旅の軌跡”をまとめていきます。

「広州→上海2200キロ」(17)

 12月10日7時、朝食。楽清のホテル「東海暇日賓館」のレストランで、朝粥と炒飯を食べ、8時出発。アドレスV125Gのエンジンをかけ、「さー、行くぞ!」と、いつものようにひと声かけて走り出す。アドレスは今日も快調だ。

 国道104号を北へ。朝から雨が降っている。時速60キロから70キロぐらいで2車線の峠道を上り、ブラインドになった左コーナーにさしかかった時、何と雨で滑り、スピンしたトラックが自分の目の前に飛び込んできた。絶体絶命のピンチだ。

「あ、やったー!」。

 その瞬間、次々に頭の中から指令が飛んでくる。

「目をつぶるな」、「ここでは死ぬな」、「どうすれば助かるか考えろ」。

 トラックが自分の目の前で横向きになって止まるのと、アドレスで突っ込むのとはほぼ同時だった。すさまじい音とともにアドレスは吹っ飛ばされた。

 衝突の瞬間、ぼくは一瞬たりとも目を閉じることなく、目をカーッと見開いたままトラックに突っ込んでいった。そのときどうすれば助かるか、それだけを考えていた。

 トラックの中央部には人間が滑り込めるスペースがある。そこに賭けた。転倒し、右手、右膝で受身をとりながら、ものすごい勢いで滑り込んだ。その結果、思惑通り、そのスペースにすっぽり入り込むことができたのだ。

 トラックを降りてきた運転手はぼくの姿が見えないので、顔が青ざめるくらいの恐怖心を感じたという。さらにそのあとぼくがトラックの下から這い出してきたのでさらに恐怖心は増し、膝がガタガタ震えたという。

 それにしてもラッキーだった。トラックが止まるのと、それに衝突するのはほぼ同時だったが、ほんの1、2秒という、わずかな時間差があった。トラックの方が先に止まったのだ。この「1、2秒」でいろいろなことが見えるし、いろいろなことが考えられるし、いろいろなことが実行できる。そのおかげで助かったようなもの。

 それともうひとつラッキーだったのは、トラックの側面には日本のような巻き込み防止のバーがついていないことだった。百戦練磨のカソリ、全身を強打したのにもかかわらず、右手で防御し、頭だけは打たなかった。

 すさまじい痛みの中で道路上に立ち尽くし、警察が来るのを待った。その間にいろいろなことを考えた。12月10日が自分の命日になってもおかしくないような状況だったが、こうして生き延びられたことに感謝した。「生きている!」という実感。だが、すぐに考え直した。

「いや、生きているんではない。生かされているのだ」。

 ぼくはこのとき悟りの境地に入ったかのような心境になった。

 何か、目に見えない大きな力によって守られ、「オマエはまだ生きていろ!」といわれたような気がした。

「そうか、自分にはまだまだやりたいことがいっぱいある。よし、次は中国本土一周だな」と、事故現場で「中国一周計画」をブチ上げるのだった。

 二村さんや宗さんが素早く連絡してくれたおかげなのだが、中国警察の動きはじつに速かった。10分もしないうちに2台のパトカーがやってきて、事故現場を調べ、すぐに楽清の市民病院に連れていかれた。右手、右膝をやられたが、骨には異常ナシ。右膝を2針縫う程度で済んだ。次に警察署で事故調書がとられた。トラックの運転手が「すべては自分の責任です」と最初からいってるので、ここでもまったく問題ナシ。

 まるで警官が裁判官でもあるかのように、運転手は賠償金として5000元(約75000円)を払うようにと命令した。それぞれが調書に右手の人差し指で捺印したあとで、運転手は「私には子供が4人いまして…」と泣きついてくる。一人っ子政策の中国で、何で4人も子供がいるの?といいたかったが、まあ、仕方ない。病院代の2000元を払うということで和解した。

 事故でダメージを受けたアドレスだが、それはフロントのみ。エンジンのあるリアはまったく無傷で、エンジンもかかる。そんな強靭なアドレスに乗り、グローブのように腫れあがった右手でハンドルを握り、再度、楽清を出発した。

 臨海を通り、天台へ。遠くには天台山の山並みが青く霞んで見える。天台山というのはいくつもの山々の総称で、最高峰は標高1136メートルの華頂峰。ここには国清寺をはじめとして多くの寺があり、昔は中国仏教の一大中心地になっていた。日本からも多くの僧が渡り、この地で修行した。

 日本の天台宗の開祖、最澄遣唐使船で寧波に渡り、天台山で修行を重ね、帰国して天台宗を開いた。国道104号は内陸を通っているが、海沿いのルートを行けば、その寧波を通っていく。

 天台の食堂で昼食にする。ご飯とスープ、ソラマメ、タチウオ、イカやキノコ、ジャガイモなどの煮つけ、炒めたモヤシといったメニュー。タチウオのあんかけが美味でご飯を何杯もおかわりした。

 天台からは紹興酒で有名な紹興を通り、杭州へ。

 ところで福州から杭州までの国道104号だが、この道は「空海の道」なのだ。

 遣唐使船で遭難し、霞浦近くの赤岸に漂着した空海弘法大師)だったが、遣唐使船はさらに福州まで行った。そこで上陸した空海の一行は唐の都、長安西安)を目指した。陸路で温州を経由し杭州へ。このルートこそ、アドレスで走ってきた現在の国道104号なのである。空海の一行は杭州から大運河の船運で洛陽まで行き、最後は陸路で長安の都に入っていった。

 杭州で北京に通じる国道104号に別れを告げ、上海に通じる国道320号に入っていく。中国の国道というのは1本がきわめて長い。この国道320号も上海が起点で杭州、貴陽、昆明と通り、なんとミャンマー国境までつづいている。全長3000キロをはるかに超える。さすが大陸だ。

 杭州からはナイトランで上海へと向かい、その途中の桐郷で泊まった。宿は国道沿いの「銭塘新世紀大酒店」。ロビーには大きなクリスマスツリーが飾られていた。

 夕食はホテルのレストランで。酢豚や豆腐料理、アヒル、豚の胃袋、日本の素麺にそっくりな細麺などを食べた。

(楽清→桐郷388キロ)

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楽清の「東海暇日賓館」の朝食。朝粥と炒飯を食べる

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楽清の事故現場。あやうく命を落とすところだった

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小雨に霞む天台山の山並み

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天台の食堂で昼食

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昼食のタチウオのあんかけ

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杭州からはナイトランで上海に向かう

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桐郷で泊まった「銭塘新世紀大酒店」