アフリカ縦断2013-2014(その8)
「ナイロビ→ケープタウン編」(8)
12月21日、モロゴロを出発。ザンビアの首都ルサカに通じるタンザニアの国道1号(T1)を行く。
モロゴロから50キロほど走るとミクミ・ナショナルパークに入った。
東アフリカの野生動物の楽園のナショナルパークはどこも2輪は通行禁止だが、このタンザニアのミクミ・ナショナルパークやケニアのツァボ・ナショナルパーク、ウガンダのクイーンエリザベス・ナショナルパークのように幹線道路が通ってるところは自由に走れるし、入園料は取られない。
ミクミ・ナショナルパークでは、キリンやシマウマ、バッファロー、インパラ、トムソンガゼルなど、次々に野生動物を見た。キリンの群れと出会ったときは、思わず相棒のスズキDR-Z400Sを止めて見入ってしまった。
ミクミ・ナショナルパークを抜け出、ミクミの町を通り過ぎると、インド洋に流れ出るグレートルアハ川を渡る。ここはカソリの忘れることのできない思い出の地なのだ。
1968年の「アフリカ縦断」では、今回とは逆にザンビアの首都ルサカからタンザニアの首都ダルエスサラーム(現在のタンザニアの首都は内陸のドドマ)に向かった。
このルサカからインド洋の港町ダルエスサラームまでの道は「ヘルラン」(地獄の道)と呼ばれ、恐れられていた。
内陸国のザンビアにとって最大の輸出品である銅と、石油や機械などの輸入品の輸送ルートを確保できるかどうかは、この国の存続にもかかわる大問題。1965年にローデシア(現ジンバブエ)がヨーロッパ人絶対優位の国家として独立を宣言するまでは、ローデシアを経由して南アフリカやモザンビークの港に通じる鉄道が利用されていた。
ところが、ローデシアが一方的な独立を宣言してからというもの事態は一変した。
ローデシア問題は大きな国際問題となり、世界各国はローデシアに対して経済制裁を加えた。ザンビアもそれに同調し、ローデシア経由の輸送を全面的にストップしたのだ。
ザンビアの輸送ルートは大幅な変更を余儀なくされ、タンザニアのダルエスサラーム港からの約2000キロのトラックルートが使われるようになった。その途中には険しい山道もあり、とてもではないが大型トラックやトレーラー、タンクローリーなどがひんぱんに行き来する道には見えない。そのため事故は日常茶飯事で、いつしかこの道は「ヘルラン」と呼ばれるようになったのだ。
そのヘルランを悲壮な覚悟で走った。すさまじい道で、路面は洗濯板状に波打ち、内臓がもみくちゃにされるほどガタガタ揺られながら、必死になってバイクのハンドルを握った。ZTRS(ザンビア・タンザニア・ロード・サービス)とかCARS(セントラル・アフリカ・ロード・サービス)などの文字をつけた大型トラックが轟音をとどろかせて走り過ぎていく。そのたびに土煙がもうもうと舞い上がり、1メートル先も見えなくなってしまう。生きた心地がしない。トラックにはねとばされないようにするので精一杯だった。
ザンビアからタンザニアに入ると、より険しい山道がつづいた。暑さも厳しくなった。バオバブの木が多くなり、猿がひんぱんに道に飛び出してきた。グレート・ルアハ川を渡るあたりは砂深い道。ここで痛恨の転倒。そのはずみで右足がバイクの下にはさまった。脳天をハンマーで殴られるような衝撃を感じ、あまりの痛さに一瞬、気が遠くなったほどだ。
そのとき運よくタンクローリーが通りかかり、運転手の手を借りて起き上がった。右足はみるみるうちに腫れ上がり、痛みがひどく、頭がクラクラした。しばらく地面にうずくまっていたが、自分の見立てで骨は折れていないと判断し、痛みをこらえてダルエスサラームへと走った。右足の痛みはその後、2ヵ月以上もつづいたのだ。
そんな「ヘルラン」もいまでは2車線のハイウェイ。大型トラックや大型バスが100キロ前後の高速でビュンビュン走り抜けていく。
グレートルアハ川を渡り、渓谷沿いに走ると、ポツンと食堂があった。バオバブの大木の下にある食堂だ。チキンスープとウガリの昼食を食べていると、1968年の「アフリカ縦断」が無性になつかしく思い出されてくるのだった。
ミクミ・ナショナルパークのキリン
ミクミ・ナショナルパークを貫く国道1号
ミクミの町で給油
グレートルアハ川の渓谷を行く
青々と茂るバオバブの木
バオバブの木の下の食堂
昼食のウガリ