アフリカ縦断2013-2014(その1)
「ナイロビ→ケープタウン編」(1)
2013年12月15日。いよいよ「アフリカ縦断」出発の日を迎えた。我が家は神奈川県の伊勢原市にある。飛行機は成田発ではなく羽田発なので、すごく楽だ。妻と夕食を食べてから、家を出る。小田急→相鉄で横浜へ。横浜駅から羽田空港までは京急一本。伊勢原駅から2時間もかからずに、羽田空港国際線のターミナルビルに着いた。
そこで、旅行社「道祖神」のバイクツアー「賀曽利隆と走るシリーズ」第18弾目の「アフリカ縦断」に参加するみなさんと落ち合った。
翌12月16日、01時30分発のエミレーツ航空EK313便でドバイへ。飛行時間は約11時間。ドバイで乗り換えてケニアのナイロビに向かうのだ。今回の「アフリカ縦断」はぼくにとっては12回目の「アフリカ行」になるが、機内では最初の「アフリカ行」がしきりと思い出されてならなかった。
ぼくが初めてアフリカに行こうと思いたったのは、ある日、突然のことだった。
1965年、17歳の高校3年の夏休みに、クラスメイトの前野君、横山君、新田君と「おもいっきり、泳ごうぜ!」と、東京から房総半島の太平洋岸、外房海岸に向かった。 ぼくたちが目指したのは鵜原海岸。思い思いにテントや食料を持ち、キャンプをしながら泳ぐつもりでいた。その日は、真夏の太陽がギラギラ照りつける、とびきり暑い日だった。外房線に乗ったのだが、東京から千葉まで切れ目なくつづく市街地を抜け出し、広々とした水田風景が車窓に開けてきたとき、心の中がサーッと洗われるような思いがした。「広いなあ!」
胸の中に溜まっていた重苦しいものから一時的にでも解き放たれたからだろう、思わずぼくの口からそんな言葉が飛び出した。この「広いなあ!」の一言が、我が人生を大きく変えることになる。40数年間にわたり、世界を駆けめぐってきた「生涯旅人カソリ」の原点がここにある。
「広いって、いいなあー」
「狭っくるしいところは、もう、たくさんだ」
「俺たち、もっと、もっと、自由でなくてはいけないよな」
「そうさ、自由さ。もっと、もっと自由でなくてはいけないよ」
高校3年の夏休みというと、翌春にひかえた大学入試のため、寝る時間を削ってでも受験勉強をしなくてはならなかった。とくにぼくたちの世代、「昭和22年生まれ」というのは戦後のベビーブームで大量生産(!?)された団塊の世代のはしりなのだ。ベルトコンベアに乗せられて続々とつくられていく工業製品と同じで、それだから、まわりからは受験が大変だといわれつづけて大きくなった。
ぼくは中学、高校とサッカーをやった。授業をさぼってでも、放課後のサッカーの練習だけには行った。それほど好きなサッカーだったが、高校3年生になる前にやめた。成績がどん底にまで落ち、もうこのままでは浪人しないことには大学に入れないと自分自身でわかったからだ。大学に入ってあれをしたいとか、これをしたいとか、卒業したら何になりたいといった希望はまったくなかったが、ただひとつ、浪人だけは絶対にしたくなかった。一日も早く社会に飛び出したかったのだ。
受験勉強がはじまった。あさましいとしかいいようのない受験勉強だったが、試験の点数だけは上がった。それとともに、自分でもよくわからないいらだたしさ、むなしさを強く感じるようになった。
「なんで、こんなことをしてるんだろう」
「あー、サッカーをやめたのが、間違っていたのではないか」
ぼくはある日、急ブレーキをかけるようにして立ち止まった。
「すべが見えてしまった」からだ。逃げたくても逃げることのできないレールに乗せられた自分の姿が鮮明に見えてしまった。それは一度落ち込んだら、もう二度と這いだすことのできない蟻地獄のようにも見えた。
「これではいけない、絶対にいけない」
そんな背景があっての外房線の車中での「広いなあ!」だった。
「広いなあ!」の一言に端を発したぼくたちの会話はさらに広がり、いつも冗談をいってはみんなを笑わせる前野がいった。
「オイ、いくら広いといっても、アフリカなんか、こんなものじゃないぞ」
さもさも見てきたかのような口ぶりだ。
「俺、アフリカに行ってみたいなあ」
前野は今度は冗談とも本気ともつかないような口調でいった。
前野の口から出た「アフリカ」が、ぼくの胸をギュッとつかんだ。アフリカと聞いた瞬間、映画や写真で見たことのある大自然が、稲妻のように頭の中を駆けめぐった。はてしなく広がる大草原、昼なお暗い大密林、灼熱の大砂漠といったアフリカの風景が次々にまぶたに浮かんだ。それは、もう、どうしても自分自身のものでなくてはならないように思えてきたのだ。
「アフリカか。アフリカ、いいなあ」
「行けないことなんて、ないよな」
「行けるさ。足があれば」
「そうさ、意思があれば。男ならば」
そのような会話をかわしているうちに、どうしてもアフリカに行きたくなった。日本を飛び出し、広い世界をおもいっきり駆けまわりたくなった。
「よーし、アフリカに行こう。なー、俺たちアフリカに行こうじゃないか」
ぼくたちは、しょっちゅう、冗談をいう。まるで、ほんとうのことのように冗談をいいあう。だが、そのときは違った。誰もが冗談っぽい話の中に、本気の部分を強く感じた。 外房海岸の鵜原から帰ると、ぼくの頭の中は「アフリカ」でいっぱいになった。
夏休みが終わり、2学期がはじまると、ぼくたち4人は学校(都立大泉高校)に近い西武池袋線大泉学園駅前の喫茶店「カトレア」に集まった。ここで夏休みの間中考えていたおのおのの案をぶつけた。それら各自の案を3時間も4時間もかけてまとめたのが、次のような「アフリカ縦断計画」だった。
1、アフリカ大陸南端のケープタウンを出発点にし、東アフリカを経由してアフリカを縦断し、地中海のアレキサンドリアに出る。
1、アレキサンドリアからはさらに北アフリカを地中海沿いに走り、モロッコのタンジールをアフリカの最終地点とする。
1、ジブラルタル海峡を渡ってヨーロッパに入り、西アジアの国々を通り、インドから日本に帰ってくる。
1、全コースをバイクで走破する。
1、出発は3年後の春とし、2年間で計画を達成する。
1、計画の資金は誰の援助も受けずに、すべてを自分たちでまかなう。
1、大学の入試を終えたらすぐに資金稼ぎのバイトをはじめる。計画を達成するためには体を鍛えなくてはならないので、朝は新聞配達か牛乳配達をし、昼は別な仕事をする。
1、西アジア横断の資金はヨーロッパで仕事をして稼ぐ。
以上のようなことをまとめると、ぼくたちは「カトレアの誓い」だといって、「アフリカ縦断」の実現を誓い合った。
それから3年後の1968年4月12日、横浜港からオランダ船「ルイス号」に乗って「アフリカ縦断」に旅立った。4人のメンバーは賀曽利&前野の2人になっていたのが何とも寂しいことだった。そんな20歳の旅立ちのシーンが、つい昨日のことのように思い出されてくるのだ。
ドバイでエミレーツ航空EK719便に乗り換え、12月16日14時55分、ナイロビ国際空港に降り立った。日本とケニアの時差は6時間。羽田から20時間余りをかけて「アフリカ縦断」の出発点ナイロビにやってきた。
エミレーツ航空で羽田を出発
アラビア半島の砂漠を見下ろす
ドバイの町並みを一望!
ドバイに到着
ドバイで乗り継ぎ
アフリカ大陸を見下ろす
ナイロビの上空
ナイロビ国際空港に着陸