賀曽利隆 STILL ON THE ROAD !

世界を駆けるバイクライダー・賀曽利隆(かそりたかし)。地球をくまなく走り続けるカソリの”旅の軌跡”をまとめていきます。

アフリカ縦断2013-2014(その2)

「ナイロビ→ケープタウン編」(2)

 2013年12月16日、「アフリカ縦断」の出発点、ケニアの首都ナイロビに到着した。赤道直下(南緯1度17分)のナイロビだが、標高1660メートルという高原に位置しているのでじつにすごしやすい。雨期と乾期はあるものの、一年中、日本の初夏のような気候。冬の日本からやってきたので、ナイロビ国際空港に降り立つと冬用の上着を脱ぎ捨て、半そで1枚になった。それが何ともいえずに気持ち良いことだった。

 今回の「アフリカ縦断」はぼくにとっては12回目の「アフリカ行」になるが、ナイロビはいままでのアフリカ旅では何度となく重要なポイントになった。

「アフリカ一周」(1968年~69年)ではナイロビを拠点にしてケニアタンザニアウガンダの東アフリカ3国をまわった。「六大陸周遊」(1973年~74年)ではやはりナイロビを拠点にして東アフリカ、北アフリカアラビア半島をまわり、さらにナイロビから赤道アフリカを横断して西アフリカに向かった。「子連れ旅」(1977年~78年)では妻と生後10ヵ月の赤ん坊を連れてサハラ砂漠を縦断し、西アフリカから東アフリカへ。9ヵ月あまりの旅のゴールはナイロビだった。

 それだけにナイロビ国際空港に降り立ったときは、あまりのなつかしさで、胸がいっぱいになってしまった。

 入国手続きを終えてケニアに入国すると、まずは空港内の銀行で両替する。

 100USドルを両替すると8337シリング10セントになった。1ケニア・シリングは約1・2円。これが46年間の変化というものだ。

 1968年の「アフリカ一周」のときは、1ケニア・シリングは約50円。当時はケニアタンザニアウガンダの東アフリカ3国のシリングは等価で、イギリスのポンドとリンクしていたので強い通貨だった。

 それに対して円は弱く、1ドル360円(固定レート)。ブラックマーケット(闇レート)で替えると、1ドルは400円とか410円、420円で、弱い円に泣かされた。今回は羽田空港で両替したが、1ドルは102円。1ケニア・シリングが約1・2円というのは、46年間で円は世界でも突出した強い通貨になり、ケニア・シリングはすっかり弱い通貨になってしまったことを意味している。

 ケニア・シリングを手に入れると、さっそく空港内の売店コカ・コーラを買った。1本70シリング(約84円)。100シリングを払ったが、店のオバチャンは20シリングのコインと「これでね」といって飴玉をくれた。飴玉が10シリングのコインの代わりということなのだろう。

 我々はナイロビ国際空港から2台のトヨタハイエースに乗ってナイロビ市内へ。何年ぶりかのナイロビは、さらにトヨタ車が増えていた。レクサスも走っていた。すれ違った10台の車を見ると6台がトヨタ、1台がレクサス、1台がミツビシ、1台がVW、1台がランドローバーという結果だった。

 驚かされたのは猛烈な交通渋滞。46年前のナイロビからは想像もできないような光景だ。片側2車線の幹線道路でナイロビの中心街に向かったのだが、反対車線には何キロにもわたって延々と渋滞がつづいた。ナイロビの中心街に近づくと、市内方向も渋滞に巻き込まれた。これは何も特別なものではなく、日常的な渋滞なのだという。

 ナイロビでの我々の宿はナイロビ郊外の「オソイタロッジ」。ナイロビ・ナショナルパーク沿いの道を走ったところにある。ナイロビ国際空港から2時間以上かかって「オソイタロッジ」に到着。宿の中庭には我々のバイク10台がズラリと並んでいた。

 バイクは各人の愛車で、横浜港からコンテナに積み込み、ケニアのモンバサ港に送った。それを現地の業者がカルネ(旅行用で使う車やバイクの無税通関帳)で通関し、モンバサ港からナイロビまではトラックに積んで運んだ。10台のバイクはまったく無傷。それがとってもうれしいことだった。

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ナイロビ国際空港に降り立つ!

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ナイロビの大渋滞

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うれしい愛車との再会!