日本食べある記(22)与那国島の泡盛
(『市政』1995年9月号 所収)
日本最西端の地へ
日本最西端の島、八重山諸島の与那国島には,石垣島の石垣港から船で渡った。
午前10時、500トンのフェリー「よなくに」は、石垣港を出港。私はすぐさま甲板に上がり、八重山諸島の島々を眺めた。
“アイランドウォッチング”という言葉がぴったりなのだが、船上で地図を片手に島々を眺めるのは、この上もなくおもしろいことだ。
フェリー「よなくに」が石垣港の防波堤を出ると、目の前には竹富島,左手には小浜島と西表島が見える。西表島は沖縄県第二の大島だけあって、山々には厚い雲がたれこめ、すごみを感じさせた。
右手に鳩間島が見えてくると、西表島北端の宇奈利崎が近い。西表島が後方に去っていくと、もう前方に島影はまったく見えない。与那国島は絶海の孤島なのである。
石垣港を発ってから4時間後、フェリー「よなくに」は、与那国島の久部良港に入港した。目の前にそそりたつ断崖の先端の岬が、日本最西端の西崎である。
下船すると、さっそく西崎に行ってみる。岬には「日本最西端之地」碑が建っている。灯台と展望台もある。
私は西崎の断崖の先端に立ち、目をこらして水平線上を眺めた。晴れていたが、残念ながら台湾は見えなかった。西崎からは、年に数回は台湾が見えるというのだが‥‥。
地元の人に聞くと、
「台湾がはっきり見える日は、新高山(台湾の最高峰玉山3997m)がこんなに大きく見えますよ」
といって両手を大きく広げた。
その人の言葉によると、台湾は島ではなく、4000メートル近い台湾山脈の主峰群が水平線上にズラズラッと一列に連なって見え、大陸そのものなのだという。晴天のときよりもむしろ天気の崩れる直前のほうが、台湾がよく見えるという。
与那国島一周
日本最西端の島、与那国島は面積が28・5平方キロの楕円形の島。一島一町で、全島が与那国町になる。町役場のある祖納と、港のある久部良、それと比川が、主な三つの集落になっている。
久部良でバイクを借り、与那国島を一周した。島の一周といっても、その距離は40キロぐらいのものである。
久部良港近く海岸では、石灰岩の千枚岩の割れ目のクブラバリ(久部良割り)を見る。そこは悲しい歴史の現場で、次のように書かれた説明板が立っていた。
「クブラバリの割れ目は全長15メートル、幅の広いところだと3メートル、狭いところで1メートル、深さは7メートルある。その昔、中山王府は先島(宮古、八重山諸島)の人口を調査し、それまでの石高に応じて納めさせていた公租を人頭割りに改めた。それは、15歳以上すべての男女に賦課する過酷な人頭税制度であった。
その影響は、はるか遠い与那国にまで及び、村では人減らしのために妊婦を集めては、この岩の割れ目を飛び越えさせたという。体の丈夫な女は必死の思いで飛び越えることができたが、そうでない女は流産したり、転落死することもあったという」
久部良から比川へ。その途中では、水田を見た。ここでは1年に2度、米をつくる二期作をやっている。季節は10月も中旬が過ぎようかというころだったが、田に水を張り、これから田植えがはじまろうとしていた。その光景は、限りなく熱帯圏に近い与那国島を感じさせるものだった。
うらやましくなるほどきれいな、それでいて人一人いない比川ビーチを見たあと、与那国島の中心地、祖納に行く。
ここには、町役場があり、フェリー「よなくに」を運行している福山海運がある。スーパーマーケットもあるが、その前の交差点には島で唯一の信号がついている。信号を必要とするほどの交通量には見えないのだが、
「与那国にも、信号がありますよ」
と、いいたげなところがいじらしい。
祖納からは断崖絶壁のサンニヌ台、ローソク状の立神岩と見てまわり、与那国島東端の東崎まで行く。岬近くには、史跡にもなっている火番小屋のダテイクチデイがある。そこの案内板には、次のように書かれていた。
「1644年、尚賢王は、琉球官船の航路にあたる諸離島に対し、遠見番所の設置を命じ、火番小屋をつくらせ、海上監視や出入りする船の通報などをおこなわせた。三人の番人を置き、船が現れると、一人は早馬で村に駆け、“ンネー、ンネー”と連呼して、船が来たことを伝えた」
そのダテイクチデイの前を通り過ぎ、右手に太平洋、左手に東シナ海と、二つの海を眺めながら岬への曲がりくねった道を走る。
東崎は西崎以上の切り立った断崖で、海に突き出た細長い岬は牧場になっている。牛のほかに、与那国島特産の小柄な“与那国馬”が草を食み、たてがみを風になびかせていた。きれいな馬だ。“与那国馬”のいる東崎の風景は、目に残るものだった。
泡盛とカツオの刺し身
東崎から西崎に戻り、与那国島の一周を終えた。東崎から西崎までの与那国島横断は10キロぐらいの距離でしかない。
西崎に近い久部良の民宿で一晩、泊まった。日本最西端の宿だ。
夕食には、カツオの刺し身が出た。すこぶるうまいもので、いくらでも食べられた。カツオというとタタキで食べることが多いが、刺し身もなかなかのものだなと思わせる味。 民宿の奥さんは、
「これは取れたばかりのものなのよ。さー、どんどん食べなさい」
といって、カツオの刺し身のおかわりを持ってきてくれるのだ。
さらに度数60度という、ウォッカのように強い与那国産の泡盛「どなん」をひとビン、ドンとテーブルの上に置いていく。カーッと燃えるような60度の泡盛とカツオの刺し身は、不思議なほどによくマッチした。
民宿の奥さんの好意に甘え、遠慮なくカツオの刺し身を食べ、「どなん」を飲んだ。
泡盛といえば沖縄特有の蒸留酒。全県で50以上の醸造元があるが、アルコール度数が60度という泡盛は、与那国だけでつくられている。与那国島は人口が2000人にも満たない島だが、その与那国だけで「どなん」「舞富名」「与那国」と、三つの醸造元がある。
沖縄で酒といえば泡盛のことだが、与那国ひとつをとってみてもわかるように、沖縄の人たちは泡盛をよく飲む。
泡盛の製法は15世紀の初頭にシャムから伝わったといわれている。琉球と東南アジア諸国との結びつきの深さがうかがい知れる話だが、それが九州に伝わり、焼酎になったという説もある。
昭和初期に刊行された東恩納寛惇の『泡盛雑考』という本では、タイの蒸留酒ラオ・ロンと泡盛は香りと味、蒸留の装置、蒸留の仕方がきわめて似ていると指摘している。
琉球と東南アジアとの交易によって南蛮甕に入った南蛮酒が伝わったことにより、在来の醸造酒から蒸留酒に変わり、沖縄特有の泡盛が誕生したと考えられているのだ。
泡盛の原料は今でもタイ産の砕米である。日本産の米だと泡盛特有の、あの甘い香りの漂う濃厚な味がどうしても出ないという。製法の特色は沖縄独自の開発による「泡盛麹菌」という黒麹菌を使っていること。それを蒸した原料米に繁殖させて麹にし、仕込むのである。
麹100キロに水170リッターを加えてもろみにし、25度から30度くらいで10日間あまり、半分を地中に埋めた甕で発酵させる。
そのあとの蒸留は、直火式のかぶと釜蒸留機による。アルコール分40パーセントほどのものを南蛮甕に入れ、イトバショウの葉でくるんだ木栓でしっかりと栓をし貯蔵する。
泡盛のなかでも、長く貯蔵したものをクース(古酒)というが、泡盛の熟成効果は大きく、貯蔵すればするほど風味が増すので、クースはより価値のある酒になっている。20年ものとか、30年ものといったクースも珍しくはない。
泡盛の肴には、豆腐と塩辛が好まれる。私の好みをいえば、豆腐の加工品の“豆腐よう”である。中国から伝わったもので、豆腐を発酵させたチーズのような食品。先日、中国を旅したときに、“豆腐よう”とまったく同じものを食べ、あらためて両者の関係の近さを感じた。中国では朝粥のおかずとして出てきた。
泡盛の名は、もともとはアワでつくったからだという説、醸造するときに泡が盛り上がったからだという説、杯についだときに盛り上がるからだという説、水を混ぜて泡のたたなくなる水量で計ったからだという説など諸説があるが、それはともかく、泡盛を飲んでいると、「今、沖縄にいる!」という強烈な実感を感じることができる。