賀曽利隆 STILL ON THE ROAD !

世界を駆けるバイクライダー・賀曽利隆(かそりたかし)。地球をくまなく走り続けるカソリの”旅の軌跡”をまとめていきます。

日本食べある記(21)三国のタラと花らっきょう

(『市政』1995年7月号 所収)

九頭竜河口の三国へ

 前回にひきつづいて、また福井にやってきた。今回は京福電鉄の三国芦原線に乗って九頭竜川河口の町、三国に向かうのだ。

 JR福井駅に隣りあった京福電鉄の福井駅を出ると、1両のワンマンカーの電車は広々とした福井平野を走る。やがて、福井県第一の大河、九頭竜川にかかる鉄橋を渡る。

 この九頭竜川は、岐阜県との境の油坂峠を源とし、中流に大野盆地、勝山盆地をつくり、下流に福井平野をつくり、三国で日本海に流れ出る。全長が119キロの川で、水源から河口までが福井県になる。

 前回ふれた戦国大名、朝倉氏の本拠地、一乗谷を流れる一乗谷川や、禅宗・曹洞宗の大本山、永平寺を流れる永平寺川も九頭竜川の支流になる。

 福井県は敦賀の北方、旧北国街道の木ノ芽峠あたりの山並みを境に、北は嶺北、南は嶺南と大きく二分される。そのうち嶺北の大半は九頭竜川の水系。九頭竜本流と支流の日野川や足羽川の水系になっている。

 福井駅から30分ほどで、福井県では最大の温泉地、芦原温泉のある芦原湯町駅に着く。ここでひと風呂、浴びていくことにする。

 芦原温泉には全部で70軒以上の温泉旅館、ホテルがあるが、京福電鉄の駅から歩いて5分ほどのところには、「セントピアあわら」という絶好の立ち寄り湯がある。

 近代美術館を思わせるような洒落た建物に入ると、展示コーナーになっている。

「温泉とは何か?」といったパネルや日照りだった明治16年に、あちこちで井戸を掘ると、湯が湧きだしたという芦原温泉の起源を紹介するパネルなどが展示されている。

 500円の入浴料を払って入ったここの湯はすばらしい。「天の湯」と「地の湯」があって、水曜日ごとに男湯と女湯がいれ替わっている。私が行った日は「地の湯」が男湯になっていた。

 ふんだんに木を使った湯船は、高温の湯と低温の湯に仕切られ、打たせ湯や寝湯、蒸し風呂などもある。銭湯とユートピアを掛け合わせての「セントピア」なのだろうが、温泉天国そのものといったところだ。

九頭竜川河口の三国港

 芦原湯町駅から、さらに京福電鉄の電車に乗ると、10分ほどで終点の三国港駅に着く。九頭竜川河口の三国港が目の前だ。

 三国港は江戸時代には千石船の北前船の出入りする港としておおいに栄え、その繁栄は明治初期までつづいた。今でも三国の古い町並みを歩くと、当時の栄華を偲ばせるような家並みに出会うことができる。

 北前船の航路は日本海経由の西廻り航路のことで、当時の日本にとっては太平洋経由の東廻り航路よりも、はるかに重要な航路になっていた。

 北前船は瀬戸内海を拠点にして日本海を北上していくものと、日本海の港を拠点とし、南下して瀬戸内海に向かっていくものがあった。

 春の三月ごろには、北の船が下ってきた。そして瀬戸内海の三原や尾道、牛窓といった港、さらには終点の大坂(大阪)で積み荷を売りさばき、北へと帰っていった。風運のいいときには、秋の9月、10月にもう一度、大坂に向かい、翌春に北の海に戻った。

 瀬戸内海から出る船は、4月の春風を利用して日本海を北上して、秋風の立つ頃に下ってきた。年に一往復というのが、だいたいふつうの航海であった。

 北前船の航路は北は深浦や十三湊、鰺ヶ沢といった津軽の港から、さらに蝦夷の松前まで延びていた。

 北前船は北国のニシンやサケ、コンブなどの海産物や羽州や北陸の米などを大坂に運び、大坂や瀬戸内からは、木綿や砂糖、塩、酒などを北国に運んだ。

 三国漁港の魚市場に行く。

 三国の魚市場は、夕方にセリがおこなわれる。タラや若狭ガレイなどが水揚げされていた。若狭ガレイは、この地方の名産。“若狭”とつくくらいだから、若狭が本場なのだろうが、越前の海でもけっこうとれるようだ。

 三国の町の宿に一晩泊まり、夕食は町の食堂で福井の地酒を飲みながら、タラのコブじめとハタハタの焼き魚を食べた。ハタハタといえば、秋田県の男鹿半島を思い出すが、男鹿半島の漁民のみなさんは、ハタハタがとれなくなったといって嘆いていた。ところが越前の海では、男鹿半島の海でとれなくなったハタハタがけっこうとれるという。

 それと、コブじめで食べたタラである。11月に入ったこの季節、三国漁港に水揚げされる魚の中ではタラが一番目立っていたが、北陸でタラというと富山県宮崎の名物料理タラ汁などでもわかるように、この地方にとってはなくてはならない魚なのである。

 民俗学者、宮本常一先生の『食生活雑考』(宮本常一著作集第24巻・未来社刊)の中に「タラ飯」の話が出てくるが、きわめて興味深いものなので、それを引用させてもらおう。宮本先生が昭和17年12月に能登半島を旅したときの、七尾湾口の鵜浦という漁村での話である。

◇◇◇

「タラがとれたぞォ、タラがとれたぞォ」と外を叫んで通っていく人がある。その声を聞くと息子の嫁になる人は籠を持ってとび出していった。息子が今日、漁に出ていっているのである。家の母刀自は早速イロリの火を強くし、大鍋を自在鉤にかけ、準備してまっている。そこへ息子と息子の嫁が、籠にいっぱいのタラを持って帰って来た。それを見て家族の者は歓声をあげた。井戸端でその魚を洗い、頭をはね、腸を出し、尾をとったものをザルに入れて台所へ持って来て、煮えたぎっている鍋の中へ入れる。やがて煮え上って来ると、母刀自は鍋をおろして蓋をとり、輪切りにした魚から骨をとる。そのたくみな手さばきに見ている方が心をうばわれる。骨をとり、皮をとり、煮た湯を捨て、あたらしい水を加えて、杓子で魚肉をつきくだくと米の御飯のようになる。煮上がるとイロリの火を細くし、鍋の中から茶碗へ魚肉をもりわける。人びとは熱いのをフウフウ息をふきながら食べる。

◇◇◇

 タラを飯にして食べる食べ方に驚かされてしまうが、実際に食べてみると生臭くもなく、魚肉を食べているという感じも少ないとのことで、とれたてのタラだからこそこのようなタラ飯にできるのだろう。かつての北陸の海では「タラ飯」にするほどタラが獲れた。

三国のラッキョウ畑

 翌日は三国の古い町並みを歩き、北前船の資料館を見学し、バスに乗って東尋坊に行く。輝石安山岩の柱状節理が日本海の荒波によって切り立った海食崖になり、高さは25メートルにも達する。断崖の先端に立って日本海をのぞきこむと、怖くなるほどだ。

 東尋坊は福井県でも屈指の観光地で、断崖へとつづく道の両側には、みやげ物店がずらりと建ち並んでいる。

 そこでは店先につるされた若狭ガレイの一夜干しが目についた。また小鯛のささ漬け、魚の糠漬けのヘシコなどもみやげ物といて売られていた。それともうひとつ目についたのは、三国特産の花らっきょうである。

 それを見て東尋坊から三国に戻ると、ラッキョウの産地の三里浜に行ってみた。

 三国の町は、九頭竜河口の右岸に位置しているが、新保橋で九頭竜川を渡った対岸の、左岸一帯が三里浜になる。三里浜は日本一のラッキョウの産地なのである。

 三里浜は日本海に沿った東西12キロの砂丘地帯で、現在、この地域の約8割の農家がラッキョウを栽培している。私が行ったときは、ちょうどラッキョウの赤紫色の花が三里浜の砂地一面に咲いていた。地味な色合いの花だ。10月中旬から11月にかけてが花の季節だという。

 ラッキョウはユリ科に属する多年草の草木で、オオニラとかサトニラともいわれる。原産地は中国およびヒマラヤ地方で、日本に伝播した時期ははっきりしていないが、江戸時代にはすでに栽培されていたという。

 三里浜一帯にラッキョウ栽培が定着するまでには多くの困難があった。

 江戸時代、三国港は日本海航路の千石船が出入りする港としておおいに栄えたが、九頭竜川をはさんでそのすぐ西の三里浜一帯は、日本海から吹きつけてくる強風のために田畑は砂に埋まり、村人たちは他の村へと逃げていくほどだったという。

 そのような惨状を目にした敦賀の唯願寺の住職大道(1768年~1840年)は防砂に取り組み、最初にネムの木を植えて砂地を落ちつかせ、次にマツやシイを植えて風を防ぎ、人が住めるようにし、徐々に耕地をふやしていった。

 明治初期になると天蚕糸の行商人がラッキョウを持ち込み、その栽培がはじまった。

 三里浜の砂地はラッキョウに合い、栽培面積は年ごとに増えていった。それを三国の商人が買い集め、京阪神市場で売りさばいた。大正年間になると、販路はさらに広がり、東京市場にも進出し、三里浜一帯は全国屈指のラッキョウの産地になった。

 この地方のラッキョウは一年掘りをしない。一年掘りのラッキョウは粒が大きくなり、やわらかくなるが、三里浜のように二年掘り、もしくは三年掘りするラッキョウは分けつするので粒が小さくなり、コリコリッとした歯ごたえで固くなる。それが越前名物の花らっきょうなのである。

 塩漬けされた三里浜の花らっきょうは大手食品メーカーにも大量に出荷され、そこでまた味つけされて、日本中に出荷されている。