賀曽利隆 STILL ON THE ROAD !

世界を駆けるバイクライダー・賀曽利隆(かそりたかし)。地球をくまなく走り続けるカソリの”旅の軌跡”をまとめていきます。

日本食べある記(20)福井の名産品と精進料理

(『市政』1995年7月号 所収)

福井駅前で見る名産品

 禅宗の曹洞宗の大本山、永平寺に行こうと、東京を出発。新幹線で米原まで行き、北陸本線の特急「雷鳥」に乗換え、福井で降りた。

 まずは福井駅周辺の名産品店を見てまわる。

 小鯛のささ漬けやヘシコ、上庄のサトイモ、銘菓羽二重餅などが目についた。

 福井県は東部の越前と、西部の若狭という旧2国から成っているが、小鯛のささ漬けは若狭の小浜の特産品。ささ漬けの小ダイはマダイとは違う種類で、大きくはならず、小浜周辺ではレンコダイと呼ばれている。

 今では全国区的に知られている小鯛のささ漬けも、戦前までは小浜市内で売られる程度だったが、戦後になると県内に広がり、さらに県外にも販路が広がっていった。

 その製法だが、ウロコを落とし、頭や内蔵、骨をとり除いた小ダイを三枚におろし、それを塩水に浸してから米酢に浸したものである。杉樽の中にたんねんに一枚づつ重ねて入れていくのだが、その際、防腐のために、小浜地方の山野に自生しているササを酢で洗って入れておくので「ささ漬け」の名がある。

 小鯛のささ漬けは私の大好物だ。酒の肴には絶好で、そのまますぐに食べられるところがすごくいい。

 福井県では、魚の糠漬けのことをヘシコといっている。魚はイワシ、サバ、コウナゴなどが使われるが、イワシとサバが一般的である。隣の石川県になるとイワシが多くなり、それをコンカイワシ(イワシの糠漬け)と呼んでいる。また、京都になると、魚の糠漬けのことをヘシコといっている。言葉の上からも、福井は京都に近い。

 話は横道にそれるが、福井の海と京都はきわめて近い。なおかつ、歴史的な結びつきも古い。

 京都から途中峠、花折峠と越えて琵琶湖の湖畔に出、さらに敦賀に至る越前街道は「トト(魚)街道」と呼ばれ、京都から周山を経て小浜に至る若狭街道は「サバ(鯖)街道」と呼ばれている。

 京都人にとって福井県の越前、若狭の日本海に通じる街道は、京都に海の幸をもたらす、まさに「魚街道」なのである。

 京都名物のサバズシにしても、京都でサバがとれるはずもなく、その食材は、福井産のサバなのである。日本海の浜でひと塩されたサバは、峠を越えるころには塩がなじみ、京都の台所、錦小路の市場に並ぶころには、ちょうど食べごろになっていた。

 話をヘシコに戻そう。

 イワシのヘシコだが、毎年5月、6月になると、越前海岸の沖合には、イワシの大群が押し寄せてくる。それを網漁で取るのだが、ヘシコに使うのには体長15センチほどのウルメイワシがいいとされている。ウルメイワシだと、骨がやわらかいので、ヘシコにしたときに骨ごと食べられるからである。

 イワシのヘシコの作り方だが、まずイワシの頭と内蔵をとり、塩漬けにする。

 桶に塩をまき、イワシを並べ、その上からまた塩をふる。このようにして塩をしたイワシを重ねて漬けこみ、押し蓋をし、重しをかけて1週間から10日ほど漬けこんでおく。桶の上に汁が上がってくるころをみはからって、一度、全部をとり出し、上汁でイワシの一匹一匹をていねいに洗う。

 次に、米糠に漬けこむ。使い古した米糠がいいとされている。ヘシコを漬けこむ米糠は、イワシから出る血汁と、一緒に入れるトウガラシで赤く染まっている。新しい米糠だと、なかなかいいヘシコはできないという。

 さて、糠漬けだが、塩漬けしたイワシと米糠を交互に重ね、一番上には塩をふって押し蓋をし、その上に重しをかけて漬けておく。夏の土用を過ぎたころから食べられるようになる。

 ヘシコは米糠を落として焼き、熱いご飯の上にのせて食べるのが、ふつうの食べかたになっている。

「上庄のサトイモ」というのは、九頭竜川流域の大野盆地の旧上庄村(現大野市)でとれるサトイモのことで、イモは小粒だが、身がしまっており、どんな料理につかっても煮くずれしないといわれている自慢のイモだ。

 福井駅近くのビジネスホテルで一晩泊まり、夜は居酒屋で飲んだ。酒の肴にはイワシのヘシコと「上庄のサトイモ」の「ころ煮」を頼んだ。イワシのヘシコは、私の口にはちょっと塩が強すぎたが、砂糖醤油で煮つめたサトイモのころ煮はうまかった。

永平寺の精進料理

 福井からはまず越美北線の列車に乗って一乗谷に行った。

 福井平野から山地に入っていくあたりに一乗谷駅があるが、そこから足羽川の支流、一乗谷川沿いにさかのぼったあたりが一乗谷になる。戦国大名の北陸の雄、朝倉氏の根拠地だったところだ。

 一乗城山(436m)の山頂を中心に一乗谷城があったが、今、残されているのは山麓の館跡や庭園ぐらいでしかない。朝倉資料館を見学し、福井に戻った。

 次に福井駅から京福電鉄越前本線に乗り、勝山まで通じている本線の東古市駅で永平寺線に乗換え、終点の永平寺に行った。

 永平寺も、一乗谷に似たようなところにある。九頭竜川が山地を抜け出、福井平野に流れ出るあたりに東古市駅があり、駅周辺が永平寺町の中心になっている。そこから九頭竜川の支流、永平寺川をさかのぼったところが、曹洞宗の大本山の永平寺だ。

 永平寺駅から永平寺までは300メートルほどあるが、その間の参道にはみやげ物店が軒を並べている。そこでは永平寺名物の永平寺そばや永平寺味噌、胡麻豆腐、ヤマゴボウの味噌漬けやたまり漬けなどを売っている。すりこぎなども見られる。店先に置かれた栗の実が季節を感じさせた。

 永平寺は、中国の宋に渡って禅を学んだ道元禅師が寛元2年(1244年)に開山した禅道場で、曹洞宗の大本山になっている。

 今でも厳しい修行の道場として、多くの修行僧が入山している。

 全山、深い杉木立につつまれた永平寺は、一般人の参詣者のにぎわいと、修行道場としての静けさを合わせ持っている。

 永平寺の参拝を終えたところで、門前の料理店で名物の精進料理を食べた。

 そのメニューは、次のようなものだ。

 1・ご飯

 2・湯葉入りのそば

 3・永平寺味噌を添えた胡麻豆腐

 4・ヤマイモをすりおろしたとろろ

 5・山菜料理(ワラビ、キクラゲ、ネマガリダケの竹の子が入っている)

 6・辛子味噌を添えたコンニャクの刺し身

 7・ミツバの胡麻あえ

 8・酢の物(ニンジン、キューリ、ワカメ、シラタキなどが入っている)

 9・煮物(サトイモ、ニンジン、フキ、シイタケ、凍み豆腐が入っている)

 10・漬物

 精進料理は肉や魚などの動物性の材料を一切使わずに、野菜や豆腐などの植物性の材料だけでつくりあげた料理だが、その精進料理のフルコースを食べてみると、まるで肉、魚をも食べたかのような満足感と満腹感を味わえた。最後に、茶菓子をつまみながら熱いお茶を飲み、永平寺の精進料理のフルコースを食べ終えた。

 ところで永平寺は、曹洞宗の大本山としての、禅道場として知られているだけではなく、日本の精進料理の中興の地としても重く見られている。

 というのは宋の禅宗の僧院での生活規範を道元がこと細かく伝え、その中に僧院での料理の作法、食事の作法もあったからだという。

 もともと禅宗では僧自身の労働を重要視し、それも修行とみなすところがあって、食事もすべて僧がつくった。僧院の料理長を典座といい、典座が雲水(修行僧)たちを指揮し、大勢の食事をつくったという。道元の著作には、料理と食事の作法を説いた『典座教訓』がある。

 さて、永平寺の精進料理だが、台所は庫院という建物にある。そこで雲水たちの食事や、一般の参籠者や来賓用の食事がつくられる。雲水たちの食事はきわめて質素なもので、精進料理のフルコースは来賓用の食事なのである。

 それは次のようなものだ。

 本膳に二ノ膳がつく。本膳は一汁四菜か五菜、二ノ膳は一汁三菜か四菜。食器は漆塗りの木器だ。

 本膳の汁は、豆腐にミツバなどの菜を入れた八丁味噌仕立ての味噌汁。平物は飛龍頭(がんもどき)とシイタケ、生湯葉、それにサトイモなどをつけた煮物。木皿は赤カブやレンコンなどのなます。小木皿はクワイセンベイなど。壺は胡麻豆腐。香のものとしては、カブラなどの一夜漬け。

 二ノ膳の汁は、清汁で、マツタケにキヌザヤを入れたり、そのほかのキノコ類や麸、キヌザヤを入れたようなもの。木皿にはお浸し。壺はユリ根やコンニャクを使ったあえもの。香のものとしては、シロウリの奈良漬け。

 私が永平寺の門前の料理店で食べた精進料理というのは、このような永平寺の来賓用精進料理を模したミニ版といったものなのである。