賀曽利隆 STILL ON THE ROAD !

世界を駆けるバイクライダー・賀曽利隆(かそりたかし)。地球をくまなく走り続けるカソリの”旅の軌跡”をまとめていきます。

日本食べある記(19)アマゴとそば米

(『市政』1995年6月号 所収)

徳島から祖谷山へ

 四国の秘境といわる祖谷は、古くは祖山とか弥山、伊屋山などと書いたという。四国第2の高峰、剣山(1955m)を源とする吉野川の支流、祖谷川流域の山村で、平家の落人伝説でよく知られている。

 祖谷の地名の由来としては、忌部神(忌部氏は古代、中臣氏と並んで朝廷の祭祀をつかさどった氏族)の住むところなので、祖山としたという説や、阿波を四国の祖とし、その祖山だという説、山々が重畳と重なり合ったその風景からきたという説……など、諸説がある。この地が、古い歴史を秘めていることは間違いない。

 そんな祖谷にスズキの250ccバイク、DR250Rに乗って行った。

 出発点は徳島。「四国三郎」の異名を持つ四国第一の大河、吉野川に沿って、鴨島、川島、山川、穴吹と走る。右手には徳島と香川の県境に連なる讃岐山脈のなだらかな山並みが、左手にはそれよりもはるかに高い四国山脈の山々が見える。

 吉野川は全長194キロ。四国の最高峰、石鎚山(1982m)の東、瓶ヶ森山を源にしている。高知県内を東に流れ、徳島県に入ると北の方向に流れを変える。大歩危、小歩危の峡谷を流れ、祖谷川を合わせて四国山脈を縦断し、山地を抜け出た池田で流れを東に大きく変え、約80キロ流れて徳島で紀伊水道に注ぎ込む。

 穴吹からさらに貞光、半田、三加茂、井川とDRを走らせる。池田を過ぎると、風景は一変。吉野川の両側には切り立った崖がそそりたち、激流が岩をかんで渦を巻き、白いしぶきをあげている。

 JR土讃線の祖谷口駅を過ぎたところが、吉野川と祖谷川の合流点。そこで吉野川本流と別れ、祖谷川沿いの祖谷街道を行き、祖谷に入った。

祖谷を行く

 祖谷川沿いの祖谷街道は幅狭い道。松尾川が合流する地点にある出合の集落を通り過ぎると、「祖谷渓」と呼ばれる大峡谷を行く。断崖絶壁が連続し、祖谷川の流れをはるか眼下に見下ろす。神峡とか馬蹄渓、小金剛などの絶景ポイントがいくつもあり、その数は60近くにもなるのだ。

 池田町出合の集落から西祖谷山村の中心、一宇まで、10キロあまりつづく祖谷渓だが、その中に祖谷温泉がある。峡谷を見下ろす断崖上に一軒宿「ホテル祖谷温泉」が建っている。

 DRを止めて、ひと風呂、浴びていく。

 この祖谷温泉には露天風呂がある。祖谷川の谷底にある露天風呂で、傾斜角が42度という逆さ落としのようなケーブルカーに乗って下っていく。

 祖谷川右岸の源泉の湯温は約40度。毎分1500リッターの湧出量という湯量豊富な温泉で、祖谷川の渓谷を眺めながら気分よく入れる露天風呂だ。

 祖谷渓を抜け出、西祖谷山村の中心、一宇に着いたところで、食堂に入り、昼食にする。祖谷は昔からのソバの名産地。ここでは手打ちそばを食べた。

 さらに祖谷川沿いに上流へとDRを走らせ、善徳の集落にあるかずら橋へ。ゆらゆら揺れるカズラでできた橋を渡る。足元に祖谷川の渓流を見下ろす。

 山口県岩国市の錦帯橋、山梨県大月市の猿橋とともに「日本三奇橋」に数えられていが、この善徳のかずら橋は長さ45メートル、幅1・5メートルで、川面から15メートルの高さのところにかかっている。

 この橋は昭和3年に完成し、それ以降、3年ごとに架け替えられてきた。カズラの中の水分が少なく、虫のつきにくい12月から1月にかけて架け替えるのだという。

 祖谷のかずら橋の材料は海抜600メートル以上の高地に自生しているシロクチカズラ。このカズラは太いものになると、周囲は15センチにもなるとのこと。火にあぶると細工しやすくなるという。

 かつては祖谷のあちこちにあったかずら橋は、弘法大師がつくったものだとか、屋島の合戦で敗れた平家の一門が、追手を避けるためにすぐに切り落とせるようにしたものだとか、その起源には諸説がある。明治末には全部で8つのかずら橋がかかっていたという。

 ところで祖谷にかぎらず、日本の山村には、フジやカズラでつくった橋があった。だが、近代になって鉄製のワイヤーでつくったつり橋が普及すると、あっというまにその姿を消していった。それだけに、祖谷のかずら橋は貴重なもので、国の重要民俗文化財に指定されている。

 この西祖谷山村善徳のかずら橋のほかにも、東祖谷山村にひとつ、かずら橋が復活し、さきほどの祖谷温泉(池田町)にもひとつある。

 祖谷川沿いにさらにDRを走らせ、西祖谷村から東祖谷村に入り、阿佐という集落に寄り道をする。ここには平家の落人の子孫、阿佐家がある。

 周囲を険しい山々に囲まれた祖谷は、平家の落人伝説でよく知られている。屋島の合戦で源氏に敗れた平家一門は、この四国山中の山村に落ちのびた。平敦盛の次男、平国盛の子孫が阿佐家だとのことで、平家の大旗、小旗の赤旗が、子孫代々、大事に保存されている。阿佐家のほかにも、久保家、菅生家、奥井家、有瀬家などの平家の落人の子孫がこの地に住んでいる。

 祖谷川沿いに池田に通じる祖谷街道が開通したのは大正年間のこと。それ以前は小島峠を越えて貞光へ、落合峠、桟敷峠を越えて三加茂へ、水ノ口峠を越えて井川へ、京柱峠を越えて大豊へと、高さ1000メートル級の峠を越え、吉野川流域の町々に通じていた。

 それらはどれも険しい峠道で、越えるのは容易でなかった。祖谷はよその世界とは隔絶されたようなところで、まさに隠れ里。平家の落人が住みつくのにふさわしい地形なのである。

 東祖谷村の役場前を通り、最奥の集落、名頃を通り、剣山中腹の峠、見ノ越を目指して登っていく。すでに祖谷川は小さな流れだ。

 見ノ越には食堂や売店があり、剣山神社がまつられている。ここから剣山にリフトが出ている。それに乗った。リフトの終点から一時間ほど歩くと、剣山の山頂。「剣」という名前とは裏腹に、なだらかな山だ。山頂には、平家再興のために埋蔵したという軍用金の目印の宝蔵石がある。四国山脈の山々の眺望を目の底に焼きつけ、見ノ越に下った。

アメゴとそば米の夕食

 見ノ越から来た道を下り、東祖谷山村の民宿で一晩、泊まった。

 宿の夕食にはアマゴの塩焼きが出た。祖谷ではアマゴのことをアメゴといっている。

 アマゴは“渓流魚の女王”とまでいわれているが、サケ目の淡水魚で、体長30センチほど。中部以西の西日本に生息し、東日本に生息するヤマメと似ている。西のアマゴ、東のヤマメといったところだ。

 アマゴの背面は淡い青紫色で、小さな黒点がある。体側には小判形の斑紋と赤色の小さな点がならんでいる。このアマゴの塩焼きを肴に冷たいビールをキューッと飲み干した。

 吉野川はアユの名産地で知られているが、祖谷川になると、高度が高くなる分だけ水温が下がり、アユは生息できない。祖谷川は渓流魚のアマゴの世界なのである。

 かずら橋の周辺には食堂やみやげもの店が軒をならべているが、そこでの名物はアマゴの塩焼き。どの店も、店先に置いた火床の炭火のまわりに、串刺しにしたアマゴを円状に立て、遠火で焼いている。こんがりといい具合に焼けたアマゴは、川魚特有のほのかな香りをあたりに漂わせ、思わずゴクンとのどが鳴ってしまうほど。そのアマゴの塩焼きを今、食べている。

 そのほかの夕食の料理は、ワラビやキクラゲなどの山菜・キノコ料理、ゴボウやニンジン、凍豆腐、コンニャク、チクワの入った煮物、ダイコンなますといったもの。

 ご飯は麦(大麦)の入った麦飯だ。

「アーッ!」

 と、驚いたのは、米を大きくしたような、灰色の粒々の入った汁である。それは「そば米雑炊」だった。

 そば米というのは、ソバの穀粒をゆでて殻を取り除いたもの。

 ソバの食べ方は、ふつうは粉食で、穀粒をいったん粉にし、その粉に湯をかけて掻く「そばがき」や、粉を麺に打ち細く切る「そば切り」が代表的な食べ方になっている。ところがそば米は粉食ではなくて粒食なのである。

 さて、そば米雑炊である。

 まず、そば米をよく洗い、ゆでたあと水気を切っておく。次に、うす口醤油、酒、塩でだし汁の味を調え、鶏肉、野菜、ちくわ、油揚げなどを入れて煮る。最後にそば米を入れ、ミツバを添える。このそば米雑炊は、祖谷のハレの日の膳には欠かせない料理だったという。

 ソバの起源は中国・雲南地方とかバイカル湖の南側一帯などといわれているが、日本には7、8世紀ごろに伝わった。そば米というのは、その当時の古い食べ方を今にとどめている。その後、そばがきが一般的な食べ方になり、麺に打つようになったのは江戸時代になってからだ。我々がふつうに「そば」といっているソバの食べ方は一番新しい食べ方なのである。

 日本は「粒主粉従(粒食が主で粉食が従)」の国。粉食の代表格の麦でさえ、麦飯のように粒食にしてしまう国なのだ。ソバも、もともとは粒食だったことが、そば米からうかがい知ることができる。