賀曽利隆 STILL ON THE ROAD !

世界を駆けるバイクライダー・賀曽利隆(かそりたかし)。地球をくまなく走り続けるカソリの”旅の軌跡”をまとめていきます。

カソリの島旅(89)長崎→東京

(『ジパングツーリング』2002年8月号)

 日本の西の玄関口、長崎に到着すると稲佐山(332m)に登った。

 山上の展望台からは長崎を一望できる。眼下には深く切れ込んだ長崎港。天然の良港で「鶴の港」といわれるように、鶴が大きく羽を広げたような形をしている。足下の海岸には林立する造船所のクレーン。鉄を打つ音やサイレンが聞こえてくる。長崎港から東シナ海に出ていく船の汽笛も聞こえる。魚市場を見下ろし、漁港岸壁にずらりと並んだトロール漁船を見る。

 そんな稲佐山の山頂に届く音や山頂から見る風景はまさに港町、長崎そのもの。長崎港の出口にはいくつかの島々が浮かんでいる。その向こうには東シナ海の大海原が広がる。そこにこれから向かう五島列島の島々が点在しているのだ。

 稲佐山を下り、長崎港へ。17時発の九州商船「フェリー福江」にスズキSMX50と一緒に乗り込み、五島列島の福江島へ。3時間25分の船旅だ。

 福江島の福江港に到着すると、港近くの「うおくに」で「うおくに定食」(1500円)を食べた。これがよかった。寒ブリの刺し身、カツオの煮魚、タコの甘露煮、エビのあえもの、タイのチゲ鍋風汁と魚三昧。さらに店の主人は「おまけだよ」といってしめさばをつけてくれた。うまいサバだ。

 福江の民宿「たが美」で泊まり、翌朝は7時半に出発。朝から雨が降っている。冷たい冬の雨‥。雨の中、五島列島最大の島、福江島を一周する。反時計周りでの「福江島一周」だ。

 最初は県道162号を行く。福江島東部の海沿いの道。いくつもの島々を見ながら走る。五島列島の五島はかつて宇久氏の支配時代に宇久島、中通島、若松島、奈留島、福江島の5島を総称したことに由来しているというが、実際には142島もの島々がある。県道162号からの眺めは、日本有数の群島の五島列島を強く感じさせるもの。福江島北部になると深く切れ込んだ入江沿いの道になる。雨はますます激しさを増し、SMX50に乗りながら泣きが入った。

 福江島北部の岐宿町で国道384号に合流。福江島西部の玉之浦町には荒川温泉。新しい建物の共同浴場の湯に入った。この湯には救われた。湯から上がると、生き返り、また「バイクに乗って走ろう!」という気になった。福江島南部の富江町でも富江温泉の湯に入った。ここを最後に福江に戻る。「福江島一周」は92キロ。最後の最後まで雨に降られた「福江島一周」だ。

 福江港発12時の九州商船「フェリー長崎」に乗って中通島へ。奈留島を経由し、13時40分、南北に細長い中通島の南端近くの奈良尾港に到着。ありがたいことに雨は上がった。

 国道384号を北上。白魚峠を越え、若松町、上五島町と通り、有川町の有川港へ。国道384号はここで尽きる。さらに北へ。中通島最北端の津和崎を目指す。細長い半島が20キロ以上も延びている。奈良尾港から69キロ走り、津和崎に到着。岬に立ち、目の前の野崎島、左手の小値賀島を見た。津和崎からは、来た道を奈良尾に戻った。

 中通島南端の奈良尾に戻ると、高台上にある奈良尾温泉「温泉センター」(入浴料200円)の湯に入り、民宿「あらた」に泊まった。ここの夕食がすごい。五島の海の幸を存分に味わう。ヒラスの刺し身、しめさば、サバの揚げもの、アジの生ずし、特大サザエの壺焼き、それと赤い魚のイトヨリの鍋と、まさに五島の魚づくしの夕食なのだ。民宿の奥さんはさらにかんころ餅を焼き、ザボンを切り、天日で干した自家製の干し柿を出してくれた。

 かんころ餅は五島名物。水の乏しい五島列島では、耕地の大半は畑。そこでは昔からサツマイモがつくられた。かつては島民の主食だった。そのサツマイモの皮をむき、1センチほどの厚さに切って半ゆでにし、寒風に当てて乾燥させたものが保存食のかんころ。それを糯米と一緒に搗き合わせたのがかんころ餅で、昔は正月でないと食べられないような御馳走だった。

 翌日はすばらしい天気。中通島から島づたいに日島まで行ってみる。まずは若松大橋を渡って若松島へ。次に漁生浦橋を渡って漁生浦島に渡り、堰堤上の道を通って有福島に入る。最後が日島。やはり堰堤上の道を通る。奈良尾港から日島までは30キロだ。

 日島の海岸には石塔群。鎌倉時代の後半から室町時代にかけての宝篋印塔や五輪塔、江戸時代以降の自然石を使った板碑などがずらりと並んでいる。その背後は断崖。日島を最後に奈良尾港へ。「フェリー長崎」で長崎港に戻った。

 長崎では名物「長崎チャンポン」を食べ、国道499号で長崎半島南端の樺島に向かっていく。海岸に出ると、高島が間近に見える。この島の炭田の歴史は古く、江戸時代中期には採炭されていたという。日本最初の西洋式採炭が行われたのも高島炭田だ。さらに南下すると、今度は端島が見えてくる。“軍艦島”で知られる端島は高島同様、炭田の島。炭鉱の施設や高層のアパートが林立し、対岸から見ると、まるで波を切って進む軍艦のように見える。

 長崎半島突端、野母崎の権現山展望台に立ったあと、もうひとつの岬、脇岬から樺島大橋で樺島に渡る。漁港近くでは特産のカラスミを干していた。それがいかにも樺島らしい光景。“日本の三珍味”で知られるカラスミはボラの腹子(卵巣)を原料としたもの。中でも樺島産や野母崎産のカラスミは最高級品として知られている。

 島先端の樺島灯台へ。展望台からは右手に野母崎、左手に天草諸島を見る。前方に広がる東シナ海に島影はない。

 樺島から長崎に戻り、島原半島に入っていく。海沿いに走り、最南端の瀬詰崎に立ち、早崎瀬戸対岸の天草諸島の島々を見る。島原港からは九州商船「フェリーくまもと」で有明海を渡り熊本新港へ。そこから宇土半島突端の三角へ。JR三角線の終点、三角駅前の旅館「うめや」に泊まった。

 三角からは天草諸島の“島めぐり”がはじまるが、その前に、戸馳大橋で宇土半島対岸の戸馳島に渡った。温暖な気候の戸馳島では果樹栽培が盛んで、ちょうどミカンの出荷の最盛期だった。ミカンよりもはるかに値段の高い柑橘類のデコポンもたわわに実っていた。花卉栽培も盛んでビニールハウスをあちこちで見かけた。

 戸馳島東側の若宮海水浴場の砂浜からは、八代海の対岸に青く連なる九州本土の山なみを眺めた。西側の行き止まり地点からは、天草諸島の維和島を目の前に眺めた。戸馳島には島一周の道はないが、道が入り組んでいるので、小さな島をぐるりとまわって戸馳大橋に戻ると、26キロも走っていた。

 戸馳大橋からすぐ近くの三角駅に戻ると、カンコーヒーを飲んで出発。さー、行くゾ、天草諸島の島々へ!

 三角から国道266号を行く。交通量が多い。天草五橋の1号橋、天門橋で大矢野島に渡る。天門とは“天草の門”からきている。まさに「天草、ここよりはじまる!」といったところ。ぼくは“天草”の語感が好きだ。そんな天草は大小合わせて110余の島々から成る一大群島だ。

 国道266号を離れ、さきほど戸馳島から見た維和島まで行く。西大維橋を渡って野牛島へ、次に東大維橋を渡って維和島に入った。維和島の西側はリアス式海岸で、そこでは盛んにクルマエビが養殖されている。ここは日本でも有数のクルマエビの生産地なのだ。

 大矢野島に戻ると、西大維橋のたもとにある藍の湯温泉「生潮」(入浴料400円)の湯に入った。天草の1湯目。浴室からは西大維橋を見る。若干の塩分。肌にやさしい湯の感触だ。

 国道266号に戻り、南へ。国道沿いには「天草四郎メモリアルホール」。大矢野島は江戸時代初期の島原の乱で16歳にして首領になり、幕府軍と戦い、戦死した天草四郎の生まれた島だといわれている。天草四郎は永遠の美少年、英雄として天草人の心に今も残る。

 大矢野島から天草上島まではわずか2キロほどでしかないが、その間で天草五橋の2号橋(大矢野橋)、3号橋(中の橋)、4号橋(前島橋)、5号橋(松島橋)と次々に渡っていく。その間で目にする島々が風光明媚な天草松島。天草随一といってもいいほどの風景だ。遊覧船がそんな島々の間を縫って行く。

 天草上島に渡ったところで、千厳山(166m)山頂の展望台に登り、そこから今、通ってきた天草五橋や大矢野島、天草松島を見下ろした。さらに宇土半島や九州本土の山並みをも一望した。この山は手杓子山とも呼ばれているが、天草四郎の島原出陣のとき、この地で手杓子で祝酒を酌みかわしたのが山名の由来になっているという。

 千厳山を下ると、松島温泉の「ホテル天松」の湯に入り、近くの「清光鮮魚店」で貝汁定食(800円)を食べた。大きな椀にアサリがゴソッと入った汁。生け簀料理を食べさせてくれる店だが、活魚の小売もしている。今度天草の来るときは、ここでぜひとも生け簀料理を食べてみようと、そう思わせるような店だった。

 天草の中心、本渡に向かう。すぐに国道266号と324号に分岐するが、324号が本渡へのメインルートになる。北側の海岸線に出ると、対岸の島原半島がよく見える。雲仙普賢岳の平成新山もはっきりと見える。

 天草の上島と下島を結ぶ瀬戸大橋に近づいたところで、徒歩で「日本一周」中の小川貴裕さんに出会った。横浜の人だが、鹿児島を出発してからすでに8ヵ月。太平洋岸を北上して北海道まで行き、今度は日本海岸を南下して天草までやって来た。鹿児島からはさらに沖縄へと南下していくという。バイクと徒歩という違いはあるが同じ「日本一周」の同志。ガッチリと熱い握手をかわして小川さんと別れた。

 天草下島の中心、本渡からは海沿いの国道324号を行く。前の日に立った島原半島南端の瀬詰崎を今度は天草側から見る。島原半島の口ノ津港へのフェリーの出る鬼池港と、通詞大橋でつながっている通詞島に寄り、富岡港へ。ここからは長崎半島の茂木港行きのフェリーが出ている。港の一角には白っぽい石が積まれていた。これが天草下島特産の天草石。磁器の原料だ。港正面の高台には富岡城跡が見える。

 富岡からは西海岸を通る国道389号を南下。山々が海に迫っている。苓北町から天草町にかけてのこの一帯には採石場が多い。それらはさきほどの磁器の原料となる天草石の採石場だ。下田温泉の共同湯「白鷺館」(入浴料200円)の湯に入り、大江と崎津の天主堂を見、国道266号に合流。

 天草の4湯目、牛深温泉の「温泉センター」(入浴料400円)の湯に入り、天草下島南端の牛深へ。熊本県下では一番の水揚げ量を誇る漁業の町なだけに、牛深には活気があった。牛深からは通天橋で対岸の下須島に渡り、砂月海岸の民宿「さつき」に泊まった。

 下須島の民宿「さつき」のある砂月海岸はすばらしくきれいな砂浜だ。海水浴場になっている。朝日が昇ると、砂月海岸の海はキラキラと黄金色に輝いた。

 下須島から牛深に戻ると、8時発の三和商船のフェリー「天長丸」に乗って対岸の長島へ。フェリーの甲板から離れていく牛深港を見る。港をまたぐ牛深ハイヤ大橋が目立つ。やがて牛深港が遠ざかり、牛深の町なみが遠ざかり、天草下島も遠くなっていく。天草との別れ‥。フェリー「天長丸」は長島海峡を横断し、8時30分、長島の蔵之元港に到着した。ここはもう鹿児島県だ。

 蔵之元港からは国道389号を南下。長島の土は赤い。この赤土の畑で特産のジャガイモをつくっている。見事な段々畑がつづく。ひとつひとつの畑は石垣で囲まれている。先人たちの血のにじむような苦労がみてとれる石垣だ。

 黒之瀬戸にかかる黒之瀬戸大橋を渡って九州本土へ。国道3号で阿久根を通り、川内から串木野へ。串木野港から甑島列島へのフェリーが出ているのだ。13時発の甑島商船のフェリー「こしき」に乗った。

 甑島列島は上甑島、中甑島、下甑島の3つの島から成っている。「フェリーこしき」は3つの島々に寄港し、下甑島の手打港が終点になる。ぼくは一番最初に着く上甑島の里港で下りた。串木野港から里港までは1時間25分の船旅だ。

 さっそく上甑島を走り出す。北へ。

「長目の浜展望台」に立つ。ここからの眺めはすばらしい。鍬崎湖、貝池、なまこ池の3つの潟湖を一望する。手前の鍬崎湖には15キロもの大ウナギが生息しているという。ここはまさに神秘の世界だ。

 上甑島の北への道は桑ノ浦の集落で行き止まり。里港から16キロ。次に南へ。甑大明神橋、鹿の子橋と2つの橋を渡って中甑島に入る。道は中甑島の中心、平良で行き止まりになる。ここから帽子山の展望台まで登ると足もとには平良港を見下ろし、南に目を向けると、中甑島ごしに夕日を浴びた下甑島を見た。

 里港に戻ると、港前の里村温泉「甑島荘」(入浴料300円)の湯に入った。赤茶けた湯。タオルがあっというまに赤くなる。湯から上がると、民宿「かねきや」へ。夕食には鹿児島名物のキビナゴの刺し身と塩焼きが出た。

 翌日、串木野港に戻ると鹿児島へ。

 鹿児島からは、一気走りで北九州へ。鹿児島駅前から門司港駅前まで、国道10号経由で461キロ、それを15時間41分で走った。そして新門司港からオーシャン東九フェリーの「おーしゃん いーすと」で東京に向かった。