「旧満州走破行2004」(52)
10月7日(水)晴 満州里→ヤケシ(その4) 第16日目
チェンバラクチーの町で羊肉麺の昼食を食べ、ハイラルへ。
ハイラルでは町の入口でチーム・スズキのみなさんが待ち構えていた。
スズキ軍団のバイクに先導されてハイラルの中心街にあるスズキの販売店までいく。
そこには、
「熱烈歓迎日本著名旅行家賀曽利隆先生到佳音公司旅遊」
と書かれた横断幕が掲げられていた。
スズキセレモニーの開始。
スズキの宣伝カーの後についてハイラルの中心街をぐるりとひと回りし、そのあとは地元テレビ局とラジオ局、新聞社の取材を受けた。
このような一連のスズキセレモニーを終えたのは15時。
すこし無理してでも中国・モンゴル国境のハルハ川までは行きたかった。ハルハ川の河畔が「ノモンハン事件」のノモンハンになる。
1939年5月11日、ノモンハンで国境紛争事件が起きた。旧満州国の関東軍とモンゴルの国境警備隊が衝突したのだ。
そもそものきっかけは些細なこと。モンゴル国境警備隊の騎馬隊が大草原を流れるハルハ川の水を馬に飲ませたことがきっかけになったのだという。それによって関東軍(日本軍)と、モンゴル軍を支配下に置くソ連軍が激しく戦うこととなった。
この戦いを日本軍は「ノモンハン事件」といったが、ソ連軍やモンゴル軍は「ハルハ河戦争」といった。
5月から9月までのハルハ川の戦いでは、日本軍、ソ連軍双方に膨大な数の死傷者を出した。
日本軍の戦死者は8440人、戦傷者は8864人、ソ連軍の戦死者は7974人、戦傷者は1万5251人というすさまじさ。わずか4ヵ月の短期間で、これだけの戦死者、戦傷者を出したことを見ても、とてもではないがハルハ河の戦いは「ノモンハン事件」などといえるものではない。
このとき、日本対ソ連の全面戦争にならなかったのは、ソ連にとってはヨーロッパでの戦線の方がはるかに重要だったからだ。そのような背景があったのでソ連のスターリンは早々に、日本との停戦協定に調印した。
そんな「ノモンハン事件」の舞台をひと目、見て見たかった。
ハイラルから南に100キロほど行けば中国・モンゴル国境を流れるハルハ川に出る。
だが、残念ながらそこまでの道はあまり良くはないとのことで、ノモンハン行きを断念した…。
ハイラルからは国道301号で大興安嶺山脈の山麓の町ヤケシに向かった。
ヤケシまでは100キロほどだが、かなりの区間がダート。土煙りを巻き上げてスズキQS110を走らせた。
スズキの販売店に到着
ハイラルの中心街
国道301号のダート区間を行く