賀曽利隆 STILL ON THE ROAD !

世界を駆けるバイクライダー・賀曽利隆(かそりたかし)。地球をくまなく走り続けるカソリの”旅の軌跡”をまとめていきます。

『旅の鉄人カソリの激走30年』JTB

第1章 西アフリカ横断

満身創痍だが愛車は快調!

「タカシ! 早く来て、ほら、ベルデ岬よ」

 レズリーの弾んだ声に、ぼくはデッキにかけ寄った。真っ青な大西洋の大海原のその向こうに、アフリカ大陸最西端のベルデ岬が見えてきた。オーストラリアのブリスベーンで生まれ育ち、イギリスの大学で学んでいるレズリーにとって、アフリカはまさに未知の大陸であった。彼女はダカールの大学での夏期講習を受けるために、西アフリカの、ここ、セネガルまでやって来たのである。

 ぼくはこれまでに、アフリカ南部、モザンビークのロレンソマルケス(現マプト)を出発し、東アフリカ経由でアフリカ大陸を北上して1年間、約5万キロ、20ヵ国を250㏄バイクで走破していた。いったんヨーロッパに入って、ロンドンで2ヵ月間アルバイトをしながら英気を養い、いま、こうして、再びアフリカの大地に挑戦しようとしているのだ。

 今度はダカールから西アフリカを南下して、一路ケープタウンまで、約2万キロを走破する計画だ。次第に大きくなる緑色のベルデ岬を目前にして、ぼくの胸は高鳴るばかりだった。

ダカールの町はあの岬の先端ね」

 ふり仰いだレズリーの明るいブルーの瞳がまぶしかった。モロッコカサブランカ港で知り合ってから4日間、彼女のおかげで本当に楽しい船旅だった。しかし、この旅のプロローグも、もう終わろうとしている。船と速さを競う、すっかりお馴染みになったイルカの群れに目をやりながら、ぼくたちは無言だった。

 奴隷の積み出し地として知られたゴレ島のわきを通り、3万トンの真っ白なフランスの客船はダカール港に接岸した。

 船倉からバイクが下ろされる。1年間、文字通りぼくの足となって苦楽をともにしたこのスズキTC250は、すでに満身創痍。それでもスイッチを入れ、思い切りキックすると、小気味よいエンジン音をあたりに響かせた。

 入国手続きは至極あっさりしたもので、フリーパス同然だった。

「グッド・ラック、タカシ! がんばって‥‥」

「ありがとう、レズリー。君もね!」

 黙って微笑むレズリーを残して、ぼくはひと足さきに港を走り出た。

 どこを向いてもアフリカ人の顔、顔、顔‥‥。彼らの邪気のない明るい顔が手の届くところにある。ぼくは思わず、

「またアフリカに来たゾ!」

 と、誰彼かまわずに大声で叫びたい衝動にかられた。こうして西アフリカの一角に立っていると、ロンドンに近いクロイドンのYMCAの一室で、

「早くアフリカに行きたい! 一刻も早くアフリカに戻りたい!」 と、そればかりを考えていた頃がまるでうそのようだった。

1日の食費はたったの50円!

 久しぶりにアフリカの空気を吸い込んで、ぼくの気持ちははやる。さっそく町なかのマリ大使館に行ってビザ(入国査証)を手に入れると、首都のバマコを目指してTC250のアクセルを開いた。

 サハラ砂漠の南側一帯は雨期の真っ最中。道の状態は最悪で、いたるところに大きな水たまりができている。ついうっかりと深い水たまりに突っ込もうものなら、バイクはすっぽりと水の中にはまり込んでしまう。ゆるやかな丘陵地帯の谷間にあたる部分にいたっては、必ずといっていいほど川になっていて、胸まで水につかりながらバイクを押し、対岸に渡らなくてはならなかった。

 しかしそれ以上に大変なのは夜である。雨期の村々には恐ろしくなるほどの蚊がいて、夜になると彼らの一斉攻撃を受けるからだ。蚊の猛攻から逃れるためにシュラフ(寝袋)にもぐり込むと、夜間でも気温が高いので、シュラフは流れ出る汗でたちまちグショグショになってしまう。苦しくなって顔や体を外に出そうものなら、待ってましたとばかりにところかまわず刺されてしまう。

 いきおい、一晩中、シュラフにもぐったり顔を出したりということになって、不眠症になってしまう。こんな夜が毎日続くのだから、たまったものではない。夜が恐ろしくなろうというものである。しかし、窮すれば通ずで、昼間、木陰で1時間ほど寝るようになってからは、大分楽になった。

 西アフリカでの食費は1日最高、日本円で50円と決めていた。どんなに苦しくとも、この掟だけは守ろうと思った。所持金はざっとアメリカドルで600ドル(約22万円)ほどあったが、じつはこれで、アフリカ一周のあと、南米アルゼンチンのブエノスアイレスに渡り、アンデスの山々を越え、アメリカ西部まで行くつもりにしていたからである。 このため毎日の食事は惨憺たるもので、毎日つけていた食料関係のノートによると、

7月22日 朝-抜き、昼-パンと塩(パンに塩をパラパラふりかけ、水を飲みながら食べた)、夜-雑穀の粉を練ったものにドロドロのスープのかかったもの(村人が出してくれた)。

7月23日 朝-抜き、昼-パンと塩、玉ねぎ1個(この玉ねぎは市場で買ったもので生でかじる。とっても涙が出た)、焼肉(市場の屋台で買った)、夜-パンと塩。

7月24日 朝-抜き、昼-南京豆(畑でとれたばかりのもので、半分は豆の中に虫が入っていて食べられず)とヨーグルト(ヤギのミルクでつくったと思われる。この南京豆とヨーグルトは村人にもらう)、夜-抜き。

 といった調子だから、空腹感に襲われっぱなしなのである。

 しまいには、バイクに乗っていても、周囲に見えるものすべてが食べ物に見えてくる。道の石っころがほかほかのパンに、草原の草が野菜に、森の木の実が食べられそうな果物に見えてくるのだ。こうした幻の食べ物に無意識に手を出そうとしている自分に気づき、はっと我に返ることもしばしばだった。

泥まみれになって知る“人の心”

 ダカールから460キロ東のタンバコウンダの町を過ぎると、もう道らしき道はなくなる。ぼくはサハラ砂漠ギニア湾岸の熱帯雨林地帯の間に広がるサバンナ地帯を東へ、東へと進んでいった。この一帯は砂の深い砂漠に近いような乾燥地帯、広々とした草原地帯、熱帯雨林を思わせるような密林地帯が混じりあっていた。 グディリという村を過ぎると、道の状態は一段とひどいものになった。

「マリまでもう100キロないんだ。ガンバレ!」

 自分で自分を叱咤激励しながら湿地帯を越え、川を越えて雨期の悪路を突き進む。

 しかし‥‥、ついに森林地帯がわずかに開けた湿地帯の泥深いところでダウンしてしまった。ズボッともぐってしまい、まったく身動きがとれない‥‥。アクセルをめいっぱいにふかしても、全然、動かないのだ。そこで、バイクの予備パーツや工具、シュラフ、ガソリンを入れたポリタンなど、荷物のすべてを入れたステンレス張りの木箱を荷台から下ろし、再度、押してみる。だめだ、バイクは泥にはまり込み、ピクリともしない。

 ぼくは完全に疲れきってしまい、泥沼に座り込む。どうしたらいいんだろうと、泣きたくなるような気持ちだった。極度の疲労と空腹、睡眠不足がすべての思考能力を奪っていく。もうどうでもいいような気がして草の上にごろんと横になる。樹の間ごしに仰ぐ空は、厚い重苦しい雨雲で覆われていた。

 何とかしなくては、と思い直し、大声で「オーイ!助けてくれ」と必死になって叫ぶ。しかし人声はおろか、こだまさえしない。10キロほど手前にあった小さな集落に戻って助けを求めようかとも思ったが、なにしろ激しい空腹感のため全く足が出ない。

 時間だけがどんどん過ぎていく。3時間ほどたったであろうか、太陽が西の空に傾きはじめたころ、「誰かいないか、助けてくれ」と叫ぶと何回目かにかすかに返事があったような気がした。ぼくはさらにあらんかぎりの声をふりしぼって叫び続けた。すると確かにそれは人の声でだんだん近づいてくる。ぼくが「オーイ」と叫ぶとその人も「オーイ」と応答する。助かった! ほっとすると同時に、またまたぼくは泥の中にぐたんと座りこんでしまった。

 しばらくすると、手製の斧を持った一見きこり風の人が前方の森から現れた。彼は即座に事態をのみこむと、泥沼の中に飛び込んで手を貸してくれた。しかし2人がかりで必死になって押しても、泥沼の壁は厚く、うまくいかない。木を伐り、それをてこがわりにしてバイクを泥の中から引きずり出そうとしたが、これも徒労に終った。

 彼は一瞬どうしたものかと困った様子だったが「ちょっと待っていろ、すぐ戻るから」と言い置くと、あっという間に森の中に姿を消した。

「頼む、戻ってきてくれ!」

 ずいぶん長い時間がたったような気がした。森の中から人の声が聞こえてくる。約束通り戻って来てくれたのだ。しかも、もう1人、屈強そうな若者を連れて。小躍りするぼくと若者を促して、彼は再び泥沼に飛び込んだ。3人とも渾身の力をふりしぼって、これでもか、これでもかとばかりにバイクを押す。もちろん、アクセルも目いっぱいにふかす。すさまじい爆裂音が森の空気を震わせる。泥水を2人の男の身体中にはねあげながら、バイクはじりじりと前に進み出した。抜けられる、きっとこの泥沼を抜け出せる!

 ついに脱出成功!

 ぼくは思わず飛び上がってしまい、2人と固い握手をかわした。

 彼らは近くの村から木を伐りにこの森に来たそうで、叫び声を聞きつけてとっても驚いたという。典型的なアフリカ人といった2人は純朴そのもの。泥沼から抜け出たことを自分たちのことのように喜んでくれ、おまけに「森の中の道をいったほうがいい、教えてあげるから」ともいってくれる。教えてくれたのは、人が通るのであろう、そこだけが草の倒れた草むらの中の一条の道であった。

 ぼくは2人の男の見送りを受け、薄暗くなった夕暮れの、その道を辿る。振りかえると、彼らはいつまでもいつまでも手を振ってくれている。思わず胸がじーんとしてくる。日本も含めた文明国の人々が、とっくの昔に失ってしまった“人の心”をアフリカの人たちはたくさん持っている。その心のひとつに触れて、ぼくは無上の喜びにひたるのだった。

走行不能、ついに列車に乗る

 セネガルとマリの国境を流れているファレメ川は、アフリカの大河セネガル川の支流。雨期を迎えて水量を増したその流れはじつに悠然たるもので、川畔にある国境の村ナエからは対岸のマリの村が見えた。ナエの上流数百キロのギニア高地がこの川の水源で、ナエの下流数百キロの地点、セネガルとマリ、モーリタニアの三国が国境を接しているところでセネガル川に合流する。

 予定ではナエからフェリーボートで対岸のマリに渡るつもりだった。ところが地図には載っているフェリーが実際にはなかった。考えてみれば、それも当然のこと。なにしろ雨期の悪路で交通はいたるところ途絶え、1週間に1台、車が通るかどうかというなところなのである。川畔で立ち往生を余儀なくされて弱りきっていると、村人が「4キロほど下流に行くと橋がある。そこを通ればマリに行けるよ」と教えてくれた。それはセネガルダカールとマリのバマコを結ぶ全長千数百キロの鉄道の鉄橋で、橋の長さは200メートルほどあるという。

 教えられた通り、ナエから川に沿って4キロほど行くとキディラの村に着いた。さっそくキディラ駅に行って駅長に事情を説明し、線路内を走る許可を得た。汽車の来ないのを確かめ、近くの踏切から線路内に入る。大粒の砂利が敷きつめられているのですごい振動だ。やがて鉄橋にさしかかる。眼下には真っ茶色に濁ったファレメ川が、渦を巻いて流れている。枕木と枕木の間に砂利が入っていないので、枕木をひとつ越すのになんとも苦労する。また枕木を越す時にはハンドルをとられ、グラグラッとすることもある。一歩間違えればファレメ川にまっさかさまだ。

 ガッタンガッタンとものすごい音をたてながら1本1本枕木を越えていき、ついに対岸にたどり着いた。そこはもうマリである。極度の緊張のため、全身は汗ばみ、喉がやたらに乾いた。とにかく、こんな国境越えは、後にも先にもあるものではない。

 さらに線路内をすこし行くとディボリ駅に着いた。駅といってもプラットホームがあるわけでなく、駅事務所の小屋があるだけ。ここまで来ても、道らしい道は見当たらない。仕方なく、駅長のママドゥーさんに、どうしたらカイの町まで行けるか聞いてみた。

「線路沿いの人が通る道を20キロほど行くとグルンボという村に出る。そこからカイに通じている道がある」という。しかし彼は「6月から9月までの雨期の間は無理だ。道はズタズタだよ」とつけ足した。

 切羽つまった形のぼくだったが、どんなことをしてでも突破してやる、と覚悟を決めてカイに向かった。道は人一人が通れるほどの小道で、途中、所々にキャッサバ(西アフリカの主食用のイモ)や落花生を栽培する猫の額ほどの畑があった。

 10キロほど行くと沼に出くわした。今度は用心深く、バイクを降りて沼の中に入ってみる。とてもだめだ。残された道はただひとつ、デォボリに戻るだけである。しかし、戻ってどうなるというのだ。第一、マリの金を一銭も持っていないではないか。でもまあいい、なんとかなるさと、半ば捨てばち気味にぼくは原野の中に続く道を走り、ディボリに戻った。先に進めずに、来た道を引き返すというのはなんともやりきれない。今までにこんなことはなかった。先に何があろうと、とにかく前に突き進んできたのだ。

 ディボリ駅に戻るなりママドゥー駅長に、「お願いします、どうかバイクごとカイまで汽車に乗せて下さい。金はカイに着いたらすぐに両替して払います」と必死になって頼み込んだ。

 幸いママドゥーさんはすぐにぼくの窮状を察して、いろいろと骨を折ってくれ、特別の乗車券とカイの警察署長宛の手紙を書いてくれた。バイクに乗った薄汚いただの旅行者にこんなに親切にしてくれるなんて‥‥、ほんとうに感謝感激である。

 ホッとすると急に眠気が襲ってきた。ママドゥーさんが木製のごついベットをもってきてくれる。御礼もそこそこに、ぼくは木陰で死んだように眠りを貪った。

 昼前、ママドゥーさんに、「列車が来たよ!」と、揺り動かされて飛び起きる。なるほど10両ほどの貨車を引っ張ったイギリス製のジーゼルカーがセネガルの方向からやって来る。灌木の入り混じったサバンナ地帯の、その恐ろしく大きな広がりの中をノロノロと近づいてくる。やがてファレメ川を渡り切ると、ぼくの目の前で停まった。

 

夢中で食べた丼3杯の粥

 バイクを積み込むと、ママドゥーさんに別れを告げて、ぼくは列車に飛び乗った。列車といっても貨車で、さしずめぼくも、その辺に積まれた貨物と同じ存在だ。

 列車は途中いくつかの小さな村々に停まり、薪が積まれた。薪は落花生と並ぶ村人たちの唯一ともいえる貴重な現金収入源なのである。時速60キロほどであろう、列車は広大な西アフリカの原野をつき進んでいく。全く単調な景色の連続。ぼくは床に腰を下ろし、外に足をぶら下げる格好で、飽きることなく、こうした風景を眺めつづけた。沿線を彩る色彩といえば、いたるところに咲く純白の大きなユリの花が唯一のものだった。

 50キロほど行くと、セネガル川の川畔の村アンビデディに着いた。一人の少年が走り寄って来て、セネガル川で取れた魚を油で揚げたものを、ぼくの鼻先に突き出した。ホウロウびきの洗面器に入った魚は30センチ位もある大きなやつ。これが1匹わずか10フラン(1マリフランは約0・8円)だという。すでに3日ほど満足に食べていなかったので、よだれが出るほどだった。しかし全然、金がない。物々交換でもと思ったが、あまりにも自分がみじめに思え、よだれをおさえてぐっと空腹感をこらえた。

 夕方、列車はカイ駅に着いた。バイクを貨車から下ろすと、その足でカイ警察署に行く。温厚そうなティディニ署長は、手紙にざっと目を通すなりニッコリ頷き、すぐに銀行に連れていってくれた。銀行は既に閉まっていた。レバノン人の行員は明日でないと両替できないといったが、ありがたいことに署長の一言で両替できたのだ。

 カイの町で目についたのは、レバノン人やシリア人、ユダヤ人の商人が多いこと。彼らはちょうど東アフリカのインド人のような存在だった。インド人はケニアのモンバサからウガンダに通ずる鉄道や、モザンビークのベイラからマラウィのサリマに通ずる鉄道などの建設を契機に本国から移住してきたといわれている。しかし、通称レバシリといわれるレバノン人やシリア人などはどうして西アフリカにやってきたのだろうか。ティディニさんに色々聞いてみたが、わからずじまいだった。

 両替がすむとティディニさんにセネガル川に近い青空市場に連れていってもらう。市場は路上に200メートルほどの長さで続いている。魚や果物などの匂いに思わず腹がグーと鳴る。なにしろ腹ペコなので立っているのもつらいほどだった。

 いきなり、ぼくは、マリ産のポロポロの黄色っぽいご飯にセネガル川で取れた魚のぶちこまれている粥に飛びついた。ひどく熱くて、手づかみで食べていると手のひらが火傷しそうになる。それでも無我夢中で食べ続け、金属製の大きな器で3杯も食べて、ティディニさんや市場のおばさん連中をびっくりさせた。1杯30フラン(約25円)、3杯分で90フランの代金を払おうとすると、ティディニさんは、まあ、まあと押しとどめ、有無をいわせず払ってくれた。

 ティディニさんの車で再び警察に戻ると、ぼくはさっそく、バマコへの道はどうかと聞いてみた。一番気になっていた問題だからだ。ぼくの予定ではカイからモーリタニアとの国境に近いニオロドサへルに行き、そこから500キロほど南下してバマコまで行くつもりにしていた。しかし彼の答えは心配していた通り、「ニオロドサヘルに行く途中に何本もの川がある。それを越えるのは不可能だ。どうしても行きたいのならここで10月まで待つしかない」というものだった。

 もう、いくら考えてもどうしようもない。ばくはカイにやって来た貨物列車に再び乗り込み、バマコに向かうことにした。貨物列車は真夜中の午前1時、カイ駅を静かに離れた。青白い月光に照らされた、灯ひとつない西アフリカの原野が不気味だった。聞こえるのは単調な列車の車輪の音だけである。ぼくはいつしかバイクのわきで眠っていた。

 カイを出てから12時間後、貨物列車はマリの首都バマコに着いた。予定を変更したとはいいながら、とにかくバマコまで来ることができた。ぼくは大きな難関を越えた喜びにひたりながら、バマコ市内を走る。郊外を流れる青く美しい大河ニジェールを見つめていると、苦しかった様々な出来事がまるで遠いはるかかなたの世界で起こったことのように思われるのだった。

(『旅』1971年5月号より)

 この雨期の西アフリカ横断を『旅』で書かせてもらったのは、なんともラッキーなことだった。『旅』編集部の川田充さんは、“花の16年(昭和16年生まれ)組”ということで親しくしていた『世界の秘境』(双葉社刊、1972年に休刊)編集長の川瀬浩邦さんからぼくのことを聞き、それが『旅』に書かせてもらうきっかけになった。川田さんは編集者魂の塊のような人だった。

 市販の400字詰原稿用紙30枚以上にびっしりと書いたぼくの原稿(超悪筆!)を川田さんは字の汚さには一言もふれずに、たんねんに目を通してくれた。当時の『旅』編集部は東京・神田にあったが、神田駅近くの喫茶店「小鍛冶」で、川田さんは半日近くもかけて原稿に赤(添削)を入れてくれた。川田さんの熱心さと、川田さんに教えてもらった文章の構成の仕方、文章の書き方、ちょっとした言葉づかいなどが自分の体にしみ込んでいった。そのときカソリ、23歳。バイクでの「世界一周」の出発を目前にしていた。

 当時のぼくは世界をバイクで駆けまわることしか頭になく、自分が将来、文を書く人間になるとは露ほども思わなかった。それが30代以降、本格的に文を書くようになってからというもの、神田の「小鍛冶」で川田さんに教えてもらったことがまさに生きてくるのである。

 本書の原稿を書きはじめる前に、神田の「小鍛冶」に行ってみた。ほぼ30年ぶりに行ったのだが、「小鍛冶」は未だ健在で、すっかりきれいになっていた。1階が洋菓子店なのは当時とかわりなく、2階に上がり、窓際の席で1人、コーヒーを飲んだ。ガラス張りの窓越しに車の流れ、人の流れを見下ろしていると、この過ぎ去った30年という月日が瞬時によみがえってくるようだった。

 ところでマリのバマコからはコートジボアール、ガーナ、トーゴと西アフリカの国々を走り、ダホメ(現ベニン)まで行った。だが、その先のナイジェリアはビアフラ戦争の最中で入れず、ダホメのコトヌーから船でカメルーンドアラに渡った。隣国の中央アフリカのバンギからはウバンギ川→コンゴ川の川船でコンゴキンシャサまで行き、そこから命を張ってアンゴラ国境を越えた。当時のアンゴラポルトガル領で、コンゴとの国境を越えるのは不可能だといわれていたのだ。それを奇跡的に成しとげ、アンゴラの首都ルアンダに着いたときは、ゴールのケープタウンが視界に入ってきた。

 ところがルアンダ南アフリカ領事館では、日本人にはビザ(入国査証)を出せないと南アフリカへの入国を拒否され、ぼくは前にも進めず、かといって戻ることもできなくなってしまった。結局、ポルトガルリスボンから来た船でモザンビークのロレンソマルケスまで行き、そこをアフリカの旅の最後にし、1969年12月に日本に帰ってきた。