賀曽利隆 STILL ON THE ROAD !

世界を駆けるバイクライダー・賀曽利隆(かそりたかし)。地球をくまなく走り続けるカソリの”旅の軌跡”をまとめていきます。

『世界を駆けるゾ! 20代編』フィールド出版

第1章 アフリカに行きたい!

17歳の夏の日

 ぼくが初めて世界に飛び出そうと思ったのは、ある日、突然のことだった。

 1965年(昭和40年)、17歳の高校3年の夏休みに、親友の前野幹夫君、横山久夫君、新田泰久君らと、

「おもいっきり、泳ごうゼ」

 と、東京から房総半島の太平洋岸、外房の海に向かった。ぼくたちは都立大泉高校で一緒だったが、おもしろいことにクラスが一緒だったのは1年生のときだけだったが、不思議と気が合ったのだ。

 ぼくたちが目指したのは鵜原海岸。一人一人が思い思いにテントや食料を持ち、キャンプをしながら泳ぐつもりでいた。その日は、真夏の太陽がギラギラ照りつける、とびきり暑い日だった。外房線に乗ったのだが、東京から千葉まで切れ目なくつづく市街地を抜け出し、広々とした水田風景が車窓に開けてきたとき、心の中がサーッと洗われるような思いがした。

「広いなあ!」

 胸の中に溜まっていた重苦しいものから一時的にでも解き放たれたからだろう、思わずぼくの口からそんな言葉が飛び出した。

「広いなあ!」というこの一言が、ぼくの運命を大きく変えた。この30年間にわたり、世界を駆けめぐってきたすべての原点が、ここにある、といっても過言ではない。

「広いって、いいなあー」

「狭っくるしいところは、もう、たくさんだ」

「俺たち、もっと、もっと、自由でなくてはいけないよな」

「そうさ、自由さ。もっと、もっと自由でなくてはいけないよ」

 高校3年の夏休みというと、翌春にひかえた大学入試のため、寝る時間を削ってでも受験勉強をしなくてはならなかった。とくにぼくたちの世代、昭和22年生まれというのは戦後のベビーブームで大量生産(!?)された団塊の世代のはしりなのだ。ベルトコンベアに乗せられて続々とつくられていく工業製品と同じで、それだから、まわりからは受験が大変だといわれつづけて大きくなった。

 小学校では校舎が足りなくて、午前と午後の2部授業だった。午前の授業と午後の授業を間違えて学校に行き、「今ごろ何しにきたのだ」と先生には怒鳴られ、友達からは嘲笑されたこともあった。中学、高校を通してひとクラスが50人を超え、教室はギュウギュウ詰めの満員電車のようなものだった。

「受験戦争」などという流行語が生まれたのもぼくたちの世代のころ。それだけに、目には見えない重圧に押しつぶされてしまいそうな環境にぼくたちはいた。しかしそれに対しての、猛烈な反発心もあった。

「冗談じゃないゼ。絶対に流されるものか!」

 ぼくは中学、高校とサッカーをやった。授業をさぼってでも、放課後のサッカーの練習だけには行った。それほど好きなサッカーだったが、高校3年生になる前にやめてしまった。学校の成績がどん底にまで落ち、もうこのままでは浪人しないことには大学に入れないと自分自身でわかったからだ。大学に入ってあれをしたいとか、これをしたいとか、また、卒業したら何になりたいといった希望はまったくなかったが、ただひとつ、浪人だけはしたくなかったのだ。一日も早く社会に飛び出していきたかった。

 受験勉強がはじまった。あさましいとしかいいようのない受験勉強だった。そのため試験の点数だけは、あっというまにグングンと上がっていった。それとともに、自分でもよくわからないいらだたしさ、むなしさを強く感じるようになっていった。

「なんで、こんなことをしているのだろう」

「あー、サッカーをやめたのが、間違っていたのではないか」

 机を並べている友人を一人でも追い抜いていくような受験勉強、その積み重ねの上に出てくる明日の自分の姿。ぼくはある日、急ブレーキをかけるようにして立ち止まってしまった。それは「すべが見えてしまった!」からだった。

 逃げたくても逃げることのできないレールに乗せられてしまった自分自身の姿が、あまりにも強烈に、あまりにも鮮明に見えてしまったのだ。それは一度落ち込んだら、二度と這いだすことのできない蟻地獄のようにも見えた。

「これではいけない! 絶対にいけない!」

 と、ぼくは大声で叫びたかった。

「人間なら誰しもが持っている無限の可能性、それはきっと自分にも与えられているはずだ」

 と、信じたかった。

 ところが、未来への可能性などどこかに吹き飛んでしまい、ただ黙々と敷かれたレールの上を進んでいくしかない明日、何かしたくてたまらないのに何もできない自分、そんな“見えてしまった明日”、“見えてしまった自分”が、ぼくを飛び上がらせたのだ。

アフリカ大陸縦断計画

 外房線の車中での「広いなあ!」の一言に端を発したぼくたちの会話はさらに広がり、いつも冗談をいってはみんなを笑わせる前野が、

「オイ、いくら広いといっても、アフリカなんか、こんなものじゃないぞ」

 と、さもさも見てきたかのような口ぶりでいう。

「俺、アフリカに行ってみたいなあ」

 と、前野は今度は冗談とも本気ともつかないような口調でそういった。

 前野の口から出た“アフリカ”が、ぼくの胸をギュッとつかんだ。アフリカと聞いた瞬間に、映画や写真で見たことのある大自然が、稲妻のように頭の中を駆けめぐった。はてしなく広がる大草原、昼なお暗い大密林、灼熱の太陽に焼きつくされた大砂漠‥‥といったアフリカの風景が、カラースライドでも見るかのように、次々と鮮明にまぶたに浮かんでいった。それは、もう、どうしても自分自身のものでなくてはならないように思えてきたのだ。

「アフリカか‥‥。アフリカ。いいなあ」

「行けないことなんて、ないよな」

「行けるさ。足があれば」

「そうさ、意思があれば。男ならば」

 そのような会話をかわしているうちに、どうしてもアフリカに行きたくなった。日本を飛び出し、広い世界をおもいっきり駆けまわりたくなった。

「よーし、アフリカに行こう。なー、俺たちアフリカに行こうじゃないか」

 ぼくたちは、しょっちゅう、冗談をいう。まるで、ほんとうのことのように冗談をいいあう。だが、そのときは、そうではなかった。誰もが冗談っぽい話の中に、本気の部分を強く感じていた。

 外房海岸の鵜原でキャンプしている間も、帰りの外房線の列車の中でも、ぼくたちは何度となく“アフリカ”を話した。いつしかバイクでアフリカを走ろうということになっていった。バイクでアフリカを走るという発想は、ごく自然なものだった。ぼくだけではなく、前野にしても新田にしても、バイクが大好きだった。横山は免許を持っていなかったが、取らせればいいということになった。

 外房海岸の鵜原から帰ると、ぼくの頭の中は“アフリカ”でいっぱいになった。夏休みが終わり、2学期がはじまると、ぼくたち4人は西武池袋線大泉学園駅に近い喫茶店「カトレア」に集まった。ここでぼくたち4人は、夏休みの間中考えていたおのおのの案をぶつけた。それら各自の案を3時間も4時間もかけてまとめたのが、次のようなことだった。

 ・アフリカ大陸南端を出発点にし、東アフリカを経由し、北アフリカの地中海に出る大陸縦断コースとする。さらに北アフリカを地中海沿いに走り、モロッコをアフリカの最終地点とする。ジブラルタル海峡を渡ってヨーロッパに入り、西アジアの国々を通り、インドから日本に帰ってくる。

 ・全コースをバイクで走破する。

 ・出発は3年後の春とし、1年半の期間で計画を達成する。

 ・計画の資金は誰の援助も受けずに、すべてを自分たちでまかなう。大学の入試を終えたらすぐに資金稼ぎのバイトをはじめる。計画を達成するためには体を鍛えなくてはならないので、朝は新聞配達か牛乳配達をし、昼は別な仕事をする。

 ・この計画を「アフリカ大陸縦断計画」と名づける。

 以上のことをまとめると、ぼくたちは「アフリカ大陸縦断計画」の実現を誓い合った。喫茶店の名前をとって「カトレアの誓い」だと、ガッチリ握手をかわした。

 とはいっても、アフリカは遠かった。アフリカはまったくの未知の世界で、雲のはるか上のような存在。ほんとうにぼくたちの手が届くのだろうかと、不安は大きかった。またアフリカに関しての知識も、何ら持ち合わせていなかった。それだから計画づくりといっても、学校で使う地図帳のアフリカの地図上に、アフリカ大陸南端のケープタウンと地中海岸のアレキサンドリアを赤線で結び、だいたいこの線に沿ってアフリカ大陸を縦断しようという程度のものだった。

 しかし、それからというもの、ぼくはアフリカに関しての本を夢中になって読みあさった。授業中に教科書を衝立にして隠し読んだこともある。資料も集めはじめる。アフリカに関する新聞記事が出ていればそれを切り抜いてスクラップ帳に貼り、アフリカが舞台の映画があれば見にいったりもした。アフリカの地形、気候、政治、経済、歴史、文化、民族、社会情勢、道路状況などについても調べていく。

 ひとつ、問題が起きた。新田である。新田はいった。

「わるいけど、アフリカ、やめるよ。そのかわり、何か手伝えることがあったら手を貸す」 ぼくと前野、横山の残った3人は、新田が抜ける寂しさはあったが、それ以上無理にはさそわなかった(なお新田はその後、東京商船大学に入り、卒業後は船乗りとして世界中を船でまわり、現在は大手商社に勤務している)。

横浜港での資金稼ぎ

 長い冬が終わり、春になった。大学の入試が終わると、まるではじかれたゴムまりのように、「ちょっと、旅行に出てくるから」といい残して家を飛び出していった。行き先は横浜。西武池袋線桜台駅で横山と待ち合わせ、横浜に向かった。薄汚れた服に長靴といういでたち。横浜に向かった理由は、港での荷役作業が金になると聞いていたからだ。いよいよぼくたちの「アフリカ大陸縦断計画」の資金づくりがはじまる。

 ぼくたちは寿町のドヤ街に泊まった。1泊120円の2畳の部屋でのゴロ寝。仕事はすぐにみつかった。1杯30円のうどんや50円のラーメンで空腹をしのぎ、毎日、必死になって働いた。

 仕事というのは、埠頭ではなく、沖に停泊している貨物船での荷役作業だった。沖まではハシケに乗っていく。ラワン材の積みおろしの作業では、突然クレーンのワイヤーが切れ、大惨事寸前の目にあった。10トン以上ものラワン材が、轟音とともに船底に落ちたのだ。マニラ麻のかたまりをころがしているときは、その下敷きになってしまい、あやうく押しつぶされるところだった。息ができなくなり、圧死寸前の目にあったのだ。化学薬品の容器を運んでいるときは、容器からもれた有毒液のために手がまっ白になってただれてしまった。ぼくは後に“強運のカソリ”といわれるようになるが、その強運をここでもいかんなく発揮した。

 荷役作業の監督は怒鳴ることが趣味のような人だったが、根は以外とやさしく、あまった昼飯の折り詰め弁当をぼくたちにくれたりした。とにかく腹がへるので、弁当を余分にひとつ食べられるのはありがたいことだった。

 1円でも多くの金をもらいたかったので、昼夜、ぶっ通しで仕事したこともある。その途中では目がまわりはじめ、酔っぱらったときのように足がもつれ、ふらついた。なんともきつい仕事だったが、一日の仕事が終わると、その日の分の給料をもらえるのがうれしかった。

 ドヤ街での生活も気に入った。初めてドヤ街に足を踏み入れたときは、自分とはまったく違う人種の人たちがそこに住んでいるような気がしたが、そこで2日、3日と過ごしていくうちになんとも居心地のよい、やすらぎのようなものを感じるようになった。誰もが自分をまったく飾らない。

 30円のうどんを食べさせてくれる店のお姉さんは、「はきだめに鶴だな」と、横山といい合ったほどの美人。「あのお姉さんとデートしようゼ」と、さっそくラブレターを書いたが、相手にされずにふられてしまった。

 隣の部屋のおやじさんはおもしろい人。

「きのうはな、パチンコ屋で3000円すって、男泣きに泣いたよ。それから飲み屋に行って、おかみに右手の親指を切ってくれって頼んだんだ。そうしたらおかみは、パチンコなんかやめればいいでしょって、ぬかしやがった。やめられるくらいなら苦労しないよ。なあ、そうだろ」

 そのおやじさんは、「さし入れだ。飲みな」といって1升びんを持ってきてくれた。

 横山とコップ酒を酌みかわしながら、ドヤ街の薄暗い、すえた臭いのする2畳の部屋でおおいに夢をふくらませた。話がはずみ、ぼくたちの目指すアフリカから、ぼくの小さいころからの憧れの地である中央アジア、さらには南米と、夢ははてしなく世界を駆けめぐった。幸せなひとときだった。ぼくたちの前途には、限りない未来が開け、自分たちの力で何でもできるような、そんな気分が体中に満ちあふれていた。

 横浜での10日あまりの仕事を終え、ぼくたちはせっかく稼いだ金だから、一銭も使わないで家に帰ろうと決め、横浜港の大桟橋から歩きはじめた。地図もない、あてずっぽうの旅だ。

 多摩丘陵では雑木林の中で道に迷ってしまい、ワンダリングをくり返してしまい、何度も同じ場所に出た。えらく時間をロスしたが、「ここはもしかすると、地球上のミステリーゾーンかもしれないゾ」などと冗談をいう余裕があった。

 横浜線中山駅に着いたときには、すっかり日が暮れていた。いやなことに糠のような雨が降りだし、おまけに霧がかかってきた。それでもまだ、「うーん、これはいい、なかなか神秘的だ」と、強がりをいえる余裕があった。しかし、霧は上がったものの、雨が激しくなり、それとともに急速に体力を消耗していった。

 真夜中に多摩川を渡った。雨は一段と激しくなる。傘など持っていないので、もうズブ濡れだ。体の芯から冷えきり、寒くて歯の根が合わない。あまりの辛さに我慢できず、多摩川の河原にひっくり返してあるボートをみつけると、その中で寝ようとした。だが、とてもではないが眠れたものではない。

 ぼくたちは夜通し歩いた。すでに疲労は極に達していた。泣きっつらに蜂とはこのことで、靴づれがひどくなり、裸足になって歩いた。夜が明けた。それとともに、やっと雨があがった。調布、吉祥寺と通り、横浜港の大桟橋を出発してから27時間後、ぼくたちは学校に近い西武池袋線大泉学園駅にたどり着いたのだ。

 次の日、ぼくはひどい高熱に見舞われた。ウンウンうなっているときに、横山がやってきた。「おい、カソリ、大丈夫か?」。横山はなんともタフなヤツなのだ。

アフリカ目指して1日20時間労働

 大学入試の結果は、さんざんなものだった。合格したのは前野だけなのである。ぼくたちの「アフリカ大陸縦断計画」は、最初から大きな試練にたたされてしまった。

 ぼくは早稲田大学政経学部商学部を受けた。入試直前の大学前の予備校での模擬試験では、5000余人中40何番という得点で、両学部とも合格の可能性は90何パーセントという回答だった。そのような入試直前の模擬試験の結果や、1年間も我慢して受験勉強したのだからという奢りもあって、ぼくは「入試には落ちるはずがない」と、たかをくくっていた。それだけに、入試の結果を見たときは、自分自身の傲慢さに鉄槌が下されたような思いがした。

 ぼくはこの時点で、すぐさま、「浪人はしないゾ」と決心した。進学しないといっても両親にはわかってもらえないと思い、家出した。

「入試を受けたあと、ぼくは結果を見ないうちから、合格したつもりでいました。そして考えたのです。大学を卒業する、会社に就職する、上役の顔色を見ながら身を削って仕事に精を出す、結婚する、安定した家庭生活を送る--このような将来像のなかで、いったいどこで子供のころから抱いていた漠とした夢を実現させればいいのでしょうか。いったいどこで自分の情熱を発揮させればいいのでしょうか。

 そう考えたとき、自分自身がすごく小さくなってしまったような気がして、いたたまれないほどの焦燥感にとらわれました。いけない、飛び出さなくては!と、強く思ったのです。

 入試の結果を見て、落ちたのがわかったときは、正直いってショックでした。しかし、それと同時に、今がチャンスだ、今をおいてほかにはないと、煽られるような気持ちのたかぶりもありました。どうぞ、ぼくのわがままを許して下さい」

 このような書き置きを残し、ふたたび、横浜のドヤ街に舞い戻ったのである。ここで「アフリカ大陸縦断計画」の資金稼ぎをするつもりだった。

「これで自分は、世界を自由奔放に羽ばたける

 と、雲の上を飛ぶような陶酔感に浸った。

 ところがその陶酔感も長くはつづかなかった。両親はぼくのことが心配でたまらなかったのだろう、横山に横浜のドヤ街の場所を聞いて捜しにきた。何日も捜したようだ。そして、ついに、みつかってしまった。

「もう、じたばたしても仕方ない」

 と、腹をくくり、家に帰った。

 しかし、それからというものは予期したこととはいえ、母親は「大学に行きなさい」と口うるさくいう。その矛先をかわすためにも、できるだけ早く仕事を見つけなくてはならなかった。幸いにも、仕事はすぐにみつかった。家の近くの牛乳屋で夜中の3時から7時が牛乳配達、それが終わると背広に着替え、満員電車に揺られ、築地の小さな印刷会社に通った。印刷会社は従業員が10人ほどの零細企業なものだから、何でもやらされた。そのおかげで、何でも見聞きできるおもしろさがあった。しかし、とにかく忙しくて、9時から5時までという勤務時間などあってなきがごとしだった。

 得意先や紙、写植、活字、製版、製本などの各業者、さらにはほかの印刷会社をめまぐるしくまわるのがぼくの仕事で、ホンダのカブやベンリーCD125、ドリームCB450などのバイクが足となった。朝から晩まで都内の道を走りまくり、時間に追われる仕事だったので、目茶苦茶に飛ばした。そのあげくにスピード違反で捕まったり、バイクをぶつけたり、荷台に積んだ製品を全部ばらまいてしまったり‥‥。だが、それもこれも、

「アイツはまだ若いのだから」

 ということで許してもらえるようなところがかなりあったように思う。仕事が終わるとよく飲みにも連れていってもらった。

 そのような毎日だから、帰りが夜中近くになることもしばしばで、寝たと思ったらもう目覚まし時計が鳴っている。腹立たしくなり、「うるさい、だまれ!」と、投げつけてしまったこともある。牛乳配達の途中であまりの睡魔に我慢できず、道端にひっくり返り、寝てしまったこともある。ひとつよかったのは、母親とは顔を合わせる時間がほとんどなくなったので、「大学に行きなさい」とうるさくいわれることがなくなったことだ。

 1日20時間労働の毎日がつづいた。自分で選んだ道なのに、なぜ自分だけがこんなにも苦しい思いを味わなくてはいけないのだろうと、情けない気持ちになることもたびたびだった。楽しそうにしている同世代の若者たちが、無性にうらやましかった。

 何度となく挫けそうになったが、そのたびに元気づけ、勇気づけてくれたのが“アフリカ”。“アフリカ”はまさに天の声だった。アフリカに行くためだったら、「アフリカ大陸縦断計画」をなしとげるためだったら、なんでも、どんなことでも我慢しなくてはならないと思うのだった。

 一方、前野はといえば、早稲田大学に通いながら、朝は新聞配達をし、夕方から夜にかけては学習塾の先生をした。前野のおおらかで、めんどうみのいい性格が受け、前野先生は生徒たちの人気の的だった。夏休みや冬休みに入ると、自動車工場の組立ラインの仕事をした。前野も「アフリカ大陸縦断計画」の実現に向けて一歩1歩、着実に資金を増やしていった。

 計画の資金の目標を一人100万円におき、前野と会うたびにいくら貯まったゾと、報告しあった。それと同時に、その間に得たアフリカの情報や資料を交換した。ぼくたちのアフリカがわずかづつでも近づいてくる喜びは、何にもたとえようがなかった。

「アフリカを目指してがんばろう!」

 これがぼくたちの合言葉になっていた。

3人が2人になった‥‥

 大きな問題が持ち上がった。横山が「アフリカ大陸縦断計画」から脱落していった。彼の両親がどうしてもアフリカ行きを許してくれない。ぼくと前野の2人で横山の両親に会いにいったが、大学教授の横山の父親に、

「いったい、何のためにアフリカに行くのだね」

「だいたい、オートバイでアフリカ大陸を縦断するというけれど、そんな夢のようなことがキミたちにできるわけがないではないか」

「途中で病気になったり、事故でも起こしたら、どうするつもりだね」

 と問われると、ぼくにしても前野にしても、両親を納得させるだけの返答はできなかった。正直なところ、アフリカに行きたいから行くのだし、行ってみないことにはわからないというのが、ぼくたちの本心だった。

 もっと悪いことに、横山自身の中でも、最初のころの燃えるような情熱は沈静してしまったようだ。ぼくたちが計画をたてはじめてから、すでに2年という歳月が流れていた。ぼくと前野は横山を断念しなくてはならなかった。

 こう書いてしまうと簡単なことのようだけど、これはショックという言葉ではいいあらわせないほどのものだった。3人が2人に減ったという数の問題ではない。痛みが自分の肌に現実に感じられるような悲壮感、虚脱感、挫折感‥‥といった感情に襲われる。

 前野、横山、新田らと、西伊豆の土肥まで歩いていき、そこでテントを張って泳ごうとしたことがあった。テントのほかに飯盒や米、かんづめなどの食料品をごっそり背負って中央線の武蔵境駅を出発点にした。

 高校1年の夏休みが間近な試験休みを狙っての脱出行だった。その日はとりわけ暑い、猛暑といってもいいような日で、情けないことに西伊豆どころか東京都を出ないうちにダウンしてしまった。それでも計画は捨てずに電車に乗って沼津まで行き、そこから船で土肥に近い大瀬崎に渡り、白い浜木綿の花が咲く浜辺で1週間、泳ぎまくって帰ってきた。ところが後日、学校にばれてしまい大目玉をくった。規則では、試験休みに遠出してはいけないことになっていたのだ。そのとき、かわいそうなことに、横山が一番矢面に立たされてしまった。

 その年の秋には、サッカーのユーゴスラビアナショナルチームが日本にやってきた。全日本との試合は、あいにくと遠足と重なってしまった。

「おい、横山、どうする。遠足にする? それともユーゴにする?」

「それはユーゴに決まっているさ」

 ぼくたちは遠足をさぼり、国立競技場にユーゴスラブビアと日本の試合を見にいった。世界でも超一流のユーゴスラビアがプレーするというのにスタンドには空席が目立った。しかし内容の濃い、白熱したゲーム展開。結局1対0で負けはしたが、日本が善戦したのでうれしくなり、帰り道、ぼくたちは有り金を全部はたいて祝杯をあげた。ところが翌日2人は呼び出された。

「おまえたちのような生徒は、即刻、退学させたい。私の一存でそれができないのがなんとも残念だ」

 と、担任の先生を嘆かせた。

 高校2年の夏休みには、前野、横山、新田らと、今度は静岡県御前崎に近い相良の海に行った。そこは横山の故郷。浜辺の松林にテントを張ったが、夜になると、前野はひたすらに片想いをしている同じクラスの女の子の話をするのだ。前野の話をさんざん聞かされ、すっかり頭に血がのぼってしまった。

「よーし、それならば」と、海にやってくる女の子たちに、次々に声をかけた。そのうちの一人、横浜の女の子とはすっかり仲よくなり、二人だけで御前崎に行った。白い灯台に登り、誰もいない砂浜を歩いた。彼女が横浜に帰る日、東海道線藤枝駅まで見送りにいった。列車がホームに入ってくると、彼女はネックレスをはずしてぼくに手渡し、「さよなら」と一言いったきりで、うつむいてしまった。

 横山とは東京・池袋で、すしの食べくらべをしたことがある。50個ぐらいまではなんとかいったが、それからがきつい。むりやり口の中に押し込み、お茶で流し込む。米粒が食堂の上まできているようで、1個食べるごとに死ぬほどの苦しみを味わう。とうとうぼくは70個でダウンしてしまったが、横山はさらに食べつづけ、80個という記録をつくって店のおやじさんを驚かせた。

 それからが大変だ。動こうにも動けない。人がぼくたちの歩いている姿を見たら、きっと酔っぱらいだと思ったことだろう。だが、それよりも、よっぽどひどい。気分が悪いだけではなく、口の中がへんに甘ったるくなり、詰め込んだ飯粒がブクブクと発酵してくるのではないかと思わせるほどのすさまじさだった。とうとう歩けなくなり、池袋の駅裏で1時間以上もひっくり返っていた。

 横山とはまた、かき氷の食べくらべをしたこともある。2杯目、3杯目あたりまでは楽なのだが、4杯目を過ぎると加速度的にきつくなる。地獄の拷問のような目にあいながらも、結局6杯で2人とも同数だった。だが横山の方が早く食べたので横山の勝ち。胃袋が氷づけになっているので、真夏の太陽のもと、震えながら歯をカチカチ鳴らして歩いた。 アフリカでは象の肉や猿の肉の食べくらべをしようなどと冗談をいい合った横山が、「アフリカ大陸縦断計画」から抜けていった(横山はその後、大学を中退し、自分ひとりで旅に出た。15ヵ月かけてユーラシア大陸をまわり、さらに、同じく15ヵ月をかけて南米を一周した。「アフリカ大陸縦断計画」からは抜けたが、彼は彼なりに自分の夢を追い求め、世界を駆けまわった)。

横浜港からの旅立ち

 資金稼ぎをはじめて2年目の秋になると、翌春の出発を目指し、前野とはひんぱんに会うようになった。問題点がいくつもあった。船や外貨、バイク、カルネ(バイクで国境を越えるときに使う通関手帳)などの問題である。

 また、アフリカに詳しい人や自動車やバイクでの海外旅行に詳しい人などに会って話を聞いたりもした。どの人も忙しい時間を気持ちよくさいて、いろいろなことをぼくたちに話してくれた。それがどれだけぼくたちを勇気づけてくれたかしれない。話の最後には、

「キミたちの計画の実現と成功を祈っている。がんばって」

 と、決まって励ましてくれた。

 自動車で世界一周した人が神戸にいると聞くと、どうしても話を聞かせてもらいたくて前野と2人乗りで神戸に向かったこともあった。バイクはホンダのベンリーCD125。ガタのきているポンコツだ。それが、ぼくにとっては初めてのロングツーリングといえるようなものだった。前野を後ろに乗せて走りはじめたときは、そのままアフリカ大陸まで突っ走っていくような意気に燃えていた。

 東海道を一路、西へ。箱根峠を無事に越え、快調に走ったが、浜松の手前の磐田ではスピード違反で捕まってしまった。名古屋を過ぎると雨になり、それとともにベンリーの調子が悪くなった。エンジンがブスブスいっている。名阪国道に入ったところで修理したがエアークリーナーのエレメントを外すとエンジンの吹き上げがよくなったので、乱暴にもそれを捨てて走った。

 ズブ濡れになって大阪に到着したときには、夜もかなり遅くなっていた。安宿に泊まり銭湯で一風呂浴びたときは、ホッと生き返ったような思いだった。結局、神戸までは行かずに終わってしまったが、この大阪行きで、「アフリカを目指してがんばろう」というぼくと前野の気持ちがぴったりと合ったように思う。

 東京に戻ったあと、船会社を訪ね歩くうちに、アフリカの喜望峰経由で南米に向かう船のあることがわかった。4月12日に横浜港を出るオランダのロイヤル・インターオーシャン・ラインの「ルイス号」という船で、モザンビークのロレンソマルケス(現マプト)から南アフリカのダーバン、ケープタウンと寄港し、大西洋を越え、ブラジルのリオデジャネイロからサントス、さらにはアルゼンチンのブエノスアイレスまで行く船だった。

さっそくぼくたちは「ルイス号」を予約した。それで、4月12日という出発日が決まった。

 外貨の持ち出しは、当時は1人500ドルまでだった。500ドルではどうしようもない。国内で1ドル400円くらいのレート(当時の公定レートは1ドル360円)なら、闇ドルに換えられるとも聞いたが、何も知らないぼくたちにはどうしたらいいのかわからなかった。どうしようかと頭を痛めていると、事情に詳しい人が、大きな声ではいえないがと前置きし、船が香港、シンガポールと寄港するのだから、そこで円をドルに換えたらいいと教えてくれた。日本円の持ち出しは、1人2万円に制限されていたが、それ以上に持ち出しても、まず調べられないだろうとのことで、そうすることにした。

 お金の問題はひとまず解決したが、1960年代後半の日本というのは、やっと海外への渡航が自由化されたばかりで、高度経済成長の道を走りはじめたとはいっても、その経済力はまだまだ弱く、貧乏国だった。その弱さが円の弱さになって現れていた。

 カルネの件では、JAF(日本自動車連盟)の田久保勇作さんに、ひとかたならぬお世話になった。JAFが日本でのカルネ発給団体になっていたが、その当時はまだ、日本から車やバイクを持ち出して世界を走るというケースはまれで、カルネの取得自体が容易ではなかった。そこで何度となく田久保さんに相談したのである。

 バイクはスズキに決めた。バイクで一番心配だったのは故障である。何万キロもの長い距離を走破しなくてはならないので、4サイクル・エンジンに比べて構造がシンプルな2イクル・エンジンのスズキかヤマハにしようと、前野と話していた。バイクに詳しい人が、スズキのエンジンはタフだというので、ぼくたちはスズキTC250という250ccバイクに決めた。まだ、ヤマハのDT1やスズキのハスラーTS250といったオフロード・バイクが登場する以前のことで、TC250というのは250・のロード・バイクのT20にエンジン・ガードがつき、マフラーがアップになったモデルで、それをスクランブラーと呼んでいた。

 1968年の正月を迎える。

「もうすぐだ。船が横浜を出るときは、でっかい声で叫ぼうゼ!」

 前野からはそんな年賀状が届いた。

 1月15日はぼくたちの成人式。

「もう20歳になっんだから、これをいい機会に酒もタバコもパチンコもやめような」

 などと冗談をいいながら、出発まであと3ヵ月、おたがいに気持ちを引き締めあっていこうと決意をかわした。

 2台のスズキTC250を購入し、自分たちのものになったときは、天にも昇るような気分だった。アフリカがいよいよ手の届く距離まで近づいたことを実感させた。ブルーとシルバーの2色のタンクがまぶしく光り輝いている。

 さっそくバイクの改造にとりかかる。デュアル・シートをシングル・シートに取り替え大型のリア・キャリアを取り付け、そこにステンレス張りした木箱をのせる。その木箱の中に荷物を入れる。パーツも購入した。アクセルやクラッチ、ブレーキのワイヤー類、ピストンやピストンリング、ピストンピン、各種ガスケット類、チェーン、前後のスプロケット、ポイント、クラッチ板、イグニッションコイル、ブレーキシュー、エアークリーナーのエレメント、ヘッドライトのバルブ、前後輪のインナーチューブ、スパークプラグなど、パーツだけでも段ボール1箱分になった。

 さらにテント、寝袋、シート、エアーマット、ロープ、ナタ、シャベル、炊事用のホエブス(ガソリン用コンロ)、コッフェルなどの装備品も揃える。これら諸々の荷物を全部合わせると、木箱の重さも加わって100キロというたいへんな重量になってしまった。 バイクの用意ができたところで、スズキにお願いし、即席の、TC250整備の講習を受けさせてもらった。泊り込みで3日間、サービス課の方がぼくたちにつきっきりでTC250の整備の方法、修理の方法を教えてくれた。このときの経験が、後にどれだけ役立ち、またどれだけ自信につながったかしれない。

 スズキからはアフリカをはじめとしてヨーロッパ、アジア各国のディーラーのリストをもらい、さらにありがたいことに各社宛の紹介状も書いてもらった。

 このころになると、アフリカの情報にもかなり明るくなっていた。なにしろアフリカに関するものだったら、本はいうにおよばず、新聞だろうがテレビ、映画であろうが、目の色を変えて読んだり、見たりしていたからだ。まだ、いくつかの問題点は残していたが、もう日本であれこれ心配しても仕方ないと思い、あとは現地に行ってから最善を尽くす以外にないという結論に達した。

 残念だったのは、ケープタウンである。ぼくたちはアフリカ大陸縦断の出発点をケープタウンにしようと、ずっと話してきた。ところが個人の旅行者では、南アフリカのビザ(入国査証)がどうしても取れなかった。そこで出発点を南部アフリカのモザンビークのロレンソマルケス(現マプト)にした。

 3月に入って牛乳配達も印刷会社もやめた。「アフリカ大陸縦断計画」のために働きはじめてから、ちょうど2年が過ぎていた。夜中に起きだし、また夜中に帰るといった1日20時間労働に最後まで体がもったことをありがたく思った。資金もほぼ目標どおりに稼ぐことができた。大学出の初任給が3万円にもならない時代に100万円を貯めたのだからえらいと自画自賛だ。とはいっても、ぼくにしても前野にしても親がかりで、食費には一銭も払わず、部屋代にも一銭も使わないですんだからこそできたことだが。

 出発の前夜、新田の家にぼくと前野、横山が集まって盛大な飲み会となった。新田の姉さんも顔を出してくれた。酒量はみるみるうちに上がり、とうとう夜明かしで飲みつづけた。

「おい、カソリ、前野、俺たちの分までがんばってきてくれよ」

 という新田と横山の励ましが胸にしみた(ぼくたち4人はあれから30年以上もたっているが、今でも年に何回か会っている)。