賀曽利隆 STILL ON THE ROAD !

世界を駆けるバイクライダー・賀曽利隆(かそりたかし)。地球をくまなく走り続けるカソリの”旅の軌跡”をまとめていきます。

「鈍行乗り継ぎ湯けむり紀行」(13)

(『月刊旅』1995年1月号 所収)

新潟平野から越後山脈

 前回では東京・上野駅を出発し、高崎線上越線信越本線と乗り継いで新潟までやってきたが、今回は、信越本線磐越西線磐越東線常磐線というルートで東京へと戻っていく。その途中では、福島県内の只見線に乗ろうと思うのだ。

 新潟駅近くのビジネスホテル「新潟パークホテル」で一晩泊まり、翌朝、新潟駅へ。

 午前5時、4番ホームに信越本線上りの鈍行一番列車、長岡行きが入線。その2両編成の電車に乗り込む。車内はガラガラ。眠い目をこすりながら、眠気ざましのカンコーヒーを飲む。

 この一番列車というのは、くりかえしていうが、ほんとうにいいものだ。ふだんは寝床のなかでヌクヌクしている時間に旅立つのだから、1日を最大限に使えるし、1日という時間がたまらなくいとおしくなってくる。ずっしりと重い充実感を感じることができるのが、一番列車なのである。

 5時28分、長岡行きが発車。まだ暗い新潟平野を走る。やがて夜が明けてくる。東の空がまっ赤に燃えている。5時45分、新津着。そのころには、すっかり夜が明ける。新津は鉄路の十字路。ぼくがこれから乗る本州横断の磐越西線(郡山→新津)の終着駅であり、日本海縦貫の羽越本線(新津→秋田)の起点駅になっている。

 新津発5時59分の磐越西線の一番列車、会津若松行きに乗る。2両編成の気動車。広々とした新潟平野の中をジーゼルのエンジン音を響かせて走る。さすがに日本有数の穀倉地帯だけあって、すでに稲の刈り取りの終わった水田が、見渡すかぎりつづいている。

 五泉を過ぎると山々が間近に迫り、山の端から朝日が昇る。馬下駅が、ちょうど平野と山地の境目になっている。このあたりが、鈍行列車の旅のよさ。沿線の地形が手にとるようによくわかる。そこを過ぎると、列車は水量豊かな阿賀野川に沿って、山中へと入っていく。平野から山地へと、車窓の風景は、鮮やかに変わる。それは、越後と会津を分ける越後山脈へとつづく山並みだ。

“湯元館”は立ち寄り湯の狙い目だ

 磐越西線が新潟平野から山中に入った最初の駅、咲花で下車。ここに咲花温泉がある。阿賀野川河畔の“駅前温泉”。全部で10軒あまりの温泉宿がある。残念ながら共同浴場はないので、温泉宿で入浴を頼むことにする。

 このようなとき、ぼくがまっ先に目をつけるのは、「湯元館」である。どの温泉地でも、「湯元館」は比較的、入浴させてもらいやすいし、それぞれの温泉地の歴史のしみついた宿が多いからだ。

 咲花温泉にも、やはり「湯元館」があった! 

 早朝の、朝食の準備で忙しい時間帯にもかかわらず、人のよさそうなおかみさんは、

「さ、どうぞ、どうぞ」

 と、笑顔でぼくを迎えてくれるのだ。

「うれしいよー!」

 と、内心、ガッツポーズをとりたくなるほど。

「湯元館」の入浴料は600円。ヒノキをふんだんに使った浴室に入ると、プーンと木の香が漂ってくる。同じくヒノキの木枠の湯船につかると、朝早く起きた疲れも、眠気もスーッと抜けていく。ガラス張りの浴室越しに、滔々と流れる阿賀野川を眺める。湯量の豊富な温泉で、硫化水素泉の湯がザーザーと音をたてて湯船からあふれ出ている。

 極楽気分で湯から上がり、駅へ。駅前には1軒、店がある。そこでカップラーメンを買い、湯をもらい、駅待合室で朝食にする。朝一番の湯に入ったあとの満ち足りた気分なので、それでも十分においしい朝食だった。

 磐越西線の第2湯目は、三川で下車する三川温泉。改札口を出ると、駅長さんに、「三川温泉までは、どのくらいの距離がありますかね」

 と聞いてみる。

「そうだな、4キロ弱といったところかな」

 という答え。

「あー、だめだ、次の列車までに行って帰ってくることができない……」

 と、三川温泉を諦めかけたときのことだ。

 待合室にいた婦人が、

「今、迎えの車が来ますが、よかったら乗っていきませんか」

 と声をかけてくれた。ここでは、“鈍行列車プラス徒歩”という旅の原則を曲げ、婦人の好意に甘え、すぐにやってきた車に乗せてもらった。

 三川温泉には、三川村営の立ち寄り湯「YOU&湯」があるが、10時オープンなので、3、4軒ある温泉旅館のうち、「力館」(入浴料500円)に行く。山裾の水田の中にある温泉宿。大浴場の大理石風呂の湯にさっと入る。帰り道は、3キロほどの道のりを急ぎ足で歩いた。

 磐越西線の第3湯目は、津川で下車する麒麟山温泉。

 阿賀野川の水運が盛んであった時代には、河港としておおいに栄えた津川だが、大正年間の鉄道の開通とともにその歴史にピリオドを打った。

 津川の町並みを歩いていると、山梨県鰍沢の町並みがダブッて目に浮かんでくる。鰍沢もかつては富士川の水運の河港として繁栄を謳歌したが、鉄道の開通とともに河港は衰退していった。

 津川や鰍沢は、河川交通から鉄道へと移り変わっていった日本の交通史の変遷を見ることのできる町なのだ。

 津川の町並みを抜け出、阿賀野川左岸にそそりたつ岩峰、麒麟山の真下の麒麟山温泉まで歩いていく。ここには5軒の温泉宿がある。1軒1軒、聞いてまわったが、入浴のみは不可…。残念だ。

 気を取りなおし、津川の次の鹿瀬駅まで歩く。家々の庭先では、ダイズやアズキ、クリ、クルミなどを干している。収穫の秋を感じさせる光景だ。

 鹿瀬では10時42分発の会津若松行きに乗ったが、ほんとうは、鹿瀬駅から角神温泉まで歩いていきたかった。だが次の列車(12時13分発)にすると、会津若松での、極端に本数の少ない只見線への乗り継ぎができなくなってしまう…。

 悔しい思いで角神温泉を断念したわけだが、またこのあたりが、時刻表と地図をにらみながら旅をつづける“鈍行乗り継ぎ”のおもしろさ。たえず頭をひねらないと、できない旅の仕方なのである。

越後山脈をブチ破る会津阿賀川

 磐越西線の3両編成の気動車は、鹿瀬駅を出ると、長いトンネルに入る。トンネルを抜け出ると、阿賀野川の峡谷に沿って走る。豊実駅を過ぎると、新潟県から福島県に入る。それとともに、阿賀野川阿賀川と名前を変える。このあたりの地形はきわめて興味深いのだが、阿賀川が力まかせに越後山脈をブチ破った、という感じなのである。

 阿賀川はすごい川。どのようにすごいかというと、福島県の西半分を占める会津のすべての水はこの阿賀川となつて、新潟平野に流れ出ていく(猪苗代湖の水が安積疎水となって郡山盆地に流れていくように、一部例外はあるが)。

 会津はその全域が、阿賀川の水系なのである。

 会津は“峠の国”で、どこへ行くのにも峠を越えていくが、唯一、峠を越えないルートがこの地点。さらに、会津のみなさんへの失礼千万を省みないでいえば、この地点に高さ200メートルほどのダムをつくれば会津の大半が巨大湖の湖底に沈んでしまう。

 会津はこのように、よその世界とは隔てられた独立した小国家のようなところなので、長い年月にわたって独自の歴史と文化を育んできた。東京だと「3代つづけば江戸っ子だい」などといっているが、会津若松では3代ぐらいだと、まだ旅の者、よそ者で、5代つづいてはじめて会津人という話も聞いた。

 そんな峡谷の県境を越えて会津に入ると、家々の周囲には、キリの木が多く見られるようになる。会津は日本有数のキリの名産地。かつては桐下駄や桐箪笥に使われたキリの木だが、今では需要が激減し、ほったらかしにされているキリ林が目につく。

 列車は広々とした会津盆地に入り、車窓の左手に飯豊連峰の山々、前方には磐梯山を眺める。会津盆地の北の中心、喜多方を通り、12時19分、会津若松に到着した。

 さあ、これからが大変な只見線の旅だ。

只見線の“はしご湯”に挑戦だ!

 会津若松。12時44分発の小出行きに乗る。この列車の次はというと、16時20分発になってしまう。只見線の列車の本数はきわめて少ない。小出行きは1日に、なんと3本しかない。それと只見行きが1本あるので、全部で4本の列車で只見線の“鈍行乗り継ぎ”をしようと思うのだが、まさに至難の業。難しいとわかっていてもなおかつやってみたいのは、只見線沿線は、知られざる温泉の宝庫だからなのである。

 13時27分着の会津板下で下車し、津尻温泉へと歩いていく。その距離は6キロ。途中には、板下温泉がある。ともに田園の1軒宿の温泉である。距離はちょっと長いけれども、駅前から電話を入れた津尻温泉に宿がとれたので気は楽だ。日暮れまでに、着けばいい。

 板下の町並みを通り抜け、国道49号に出、“山都11km”の標識に従って国道を右折し、あとは一本道の山都街道をただひたすらに歩く。正面に飯豊連峰の山々、右手に磐梯山を眺める。会津名産“みしらず柿”の収穫の盛りで、あちこちの柿園で摘み取りがおこなわれていた。

 会津板下駅から1時間以上歩いてたどり着いた板下温泉では、一軒宿「つるの湯・磐鏡荘」(入浴料300円)の湯に入った。湯の中で歩き疲れた足をよくもみほぐす。これが効くのだ。湯から上がり、さらに歩き、夕日が飯豊連峰の山々を赤く染めるころ、津尻温泉の「滝の湯旅館」に到着。ホッとする瞬間。ここはぼくにとっての、思いでの温泉宿なのだ。

 1991年、東京からバイクでサハリンに向かった。本州を走り、北海道を走り、稚内港からロシア船でサハリンのホルムスク(旧真岡)に渡った。その「東京→青森→稚内」の途中で1晩、津尻温泉に泊まったのだ。

“滝の湯旅館のおかみさん”は、

「あー、あのときの……」

 と、うれしいことに、ぼくのことをおぼえていてくれた。

 泊まり客に旧豊原(ユジノサハリンスク)生まれの人がいて、サハリン談義に花が咲いたこともあって、よけいにおぼえていてくれたのだろう。

 津尻温泉は近郷近在の人たちには人気の弱食塩泉の温泉。建て替えられたばかりの新しい建物。当然、湯船も新しく、石づくりになっている。夕食前にはさっと入り、夕食後に長湯する。湯につかりながら、「今年はよかった、大豊作だ」と、稲の収穫を終えた地元の人たちの話を聞く。いかにも骨休めで温泉にやってきたという風情で、みなさんの表情には安堵の色が浮かんでいた。

体に一番よく効く温泉は‥‥

 翌朝は5時に津尻温泉を出発。会津板下駅まで歩き、6時54分発の小出行き一番列車に乗る。2両編成の気動車は次の塔寺駅でゆるやかな峠を越え、会津盆地から只見川(阿賀川最大の支流)の谷間へと入っていく。

 7時17分着の会津柳津で下車し、有名な福満虚空蔵尊(円蔵寺)に参拝。そのあとで柳津温泉「町民センター」(入浴料300円)の湯に入る。モスグリーンの湯の色。只見川を見下ろす展望大浴場だ。

 以前は西山温泉(滝谷駅から入っていく)に近い荒湯から引湯していた柳津温泉だが、1987年に円蔵寺境内の掘削で、毎分510リッター、泉温47度という湯を掘り当てたという。まさに虚空蔵尊のおかげというものだ。

 会津柳津8時45分発の只見行きに乗り、9時08分着の会津宮下で下車。只見線福島県内の駅は、会津宮下のように、大半の駅に“会津”がつく。時刻表で駅名を見てみると、なんと29駅中17駅が“会津○○”で、只見線は“会津”連発路線なのである。

 会津宮下駅からはキリの並木道を歩く。家の庭先では、おばあさんがクルミを割っている。駅から徒歩5分の宮下温泉「栄光荘」(入浴料350円)の湯に入る。ほかに入浴客もいないので、秋の日の差し込む湯船にゆったりとした気分で入れた。

 宮下温泉からは隣の早戸駅に近い早戸温泉まで歩く。ひと駅とはいっても、距離は8キロほどある。只見川の渓谷を見下ろし、鮮やかに燃える紅葉を眺めながら、国道252号を歩きつづける。なにしろ列車本数の少ない只見線なので、会津宮下発の次の列車というと、5時間後になってしまうからだ。

 早戸温泉では「つるの湯旅館」(入浴料300円)の湯に入った。

 脱衣所こそ男女別々だが、中で一緒になる混浴の湯。傷とか打撲、骨折によく効くといわれる湯だけあって、男性のみならず、女性も次々に入ってくる。

 その年代は幅広く、ぼくがねばって長湯した間にやって来た女性は、30代から60代ぐらいだった。傷のなかでも、とくに手術後の傷によく効くとのことで、東京からやってきたという年配の人は、内臓の手術を受け、退院してまだ10日目でしかないという。奥さんと一緒に来ているのだが、1週間ほど湯治して帰るという。

 湯船は熱い湯、すこし熱い湯、ちょうどいい湯と3つある。飲湯もできる。黄土色をした湯の色。泉質は含芒硝食塩泉。湯船はそれほど広くないので、何人かで一緒に入ると、肌と肌が触れ合うくらいだ。張りのある女性の乳房を目の前にすると、ぼくなど目のやり場にこまってしまうが、湯治客や常連客が多いので、みなさん、男女ともにごく普通に湯につかっている。

 このような雰囲気の混浴の温泉というと、ぼくの知っている限りでは、八幡平山麓秋田県赤川温泉がある。

 ところで、栃木県の板室温泉では、混浴の湯治宿に泊まったことがある。そこでは、オバアチャンたちと湯の中で一緒になった。“昔美人”のおばあちゃんたちは、

「兄さん、どこが悪いの? どこも悪いようにはみえないけれど……」

 といいながら、うれしそうにぼくの肌をピチャピチャたたくのだ。青森県下北半島の恐山の境内にある恐山温泉でもまったく同じような体験をしたことがあるが、おばあちゃんたちはそうやってぼくをからかいながら、それぞれの顔にはまるで子供時代に戻ったかのような無邪気さを漂わせていた。

 温泉が体によく効くのは誰でも知っていることだが、見ず知らずの男女がひとつ湯船の中で、肌を接するようにして入る混浴の温泉こそ、効き目が一番大きいのでないかな……と、ぼくは心密かに思っている。

 混浴の湯で男女が一緒になることによって、男も女も確実に若返るし、体の芯から元気が出てくるというものだ。女は男にとっての元気の源だし、男はやはり女にとっての元気の源なのだ。男と女がいて、はじめて人間の世界になるという、このごくあたりまえのことを混浴の温泉は教えてくれている。

 早戸温泉の混浴の湯から上がると、湯治棟では昼食の最中だった。

 ちょっとのぞかせてもらっただけなのに、キノコ入りのうどんをご馳走になった。カンビールのおまけつきというありがたさだ。湯治棟の和気あいあいの空気がなんともいえずによかった。

 無人駅の早戸駅に行く。まだ、列車の来るまでには時間があっるので、ゴロンと昼寝した。温泉に入ったあとの2、30分ほどの昼寝は天国のような気分のよさだった。

 14時22分発の小出行きに乗る。15時02分着の本名で下車。次の会津越川駅まで歩く。会津宮下→早戸間と同じくらいの距離だ。その途中で、国道252号沿いにある橋立温泉の無料の共同浴場と、只見川対岸の、湯倉温泉「鶴亀荘」(入浴料300円)の湯に入る。橋立温泉は温めの湯、湯倉温泉は熱めの湯。ともに草色がかった赤茶けた湯の色をしている。2湯の湯から上がるころには日が暮れた。

 会津越川18時32分発の小出行き最終列車に乗り、次の会津横田で下車。駅から1キロほどの大塩温泉へ、夜道を歩く。それにしても、夜明け前から、日暮れの後まで、ほんとうによく歩いた1日だ。「温泉は歩いて入るもの!」を実践しているカソリなのだ。

 大塩温泉では、民宿「たつみ荘」に泊まる。馬刺やキノコ料理の夕食を食べ終わると、隣あった共同浴場にいく。入口の料金箱に入浴料200円を入れるようになっているが、泊まり客はタダで入れる。地元のみなさんが次々にやってくる共同浴場。只見川の流れの音が聞こえてくる湯だった。

奥羽山脈の峠越え

 翌朝は会津横田発7時44分の只見線の一番列車で会津若松へ。10時28分着の会津若松では、駅前を歩き、白虎隊像を見、それから磐越西線の「快速ばんだい」に乗り換える。

 郡山までは電化区間。人間の感覚って、おもしろいなあと思う。これは今までにも何度も体験していることだが、只見線気動車に乗りつづけ、その速度に慣れてしまうと、磐越西線の電車は目のまわるほどの速さに感じられてしまうのだ。

 左手に磐梯山を眺め、猪苗代湖を右手に眺めているうちに、電車は奥羽山脈の中山峠を貫くトンネルに入っていく。峠のトンネルを抜け出ると、同じ福島県でも、“会津”から阿武隈川流域の“中通り”へと世界が変わる。春先に、磐越西線を逆方向で乗ったときのことだ。中通り側は晴天でまったく雪がなかったのに、中山峠を越えた会津側は、一面の雪景色。雪がチラチラ降っていた。

 中山峠は本州を太平洋側と日本海側に二分する中央分水嶺の峠だが、中央分水嶺の峠を境にして、天気がガラリと変わるのは、よくあることなのだ。

 会津側から中通り側に入ると、磐梯熱海で下車し、駅前の「湯元元湯浴場」(入浴料300円)の湯に入る。大浴場。熱い湯と冷たい湯の2つの湯船がある。熱い湯船につかって体が火照ると、冷たい湯船で体を冷やす。そのくりかえしが気持ちいい!

阿武隈山地の峠を見極める

 中通りの中心、郡山盆地の郡山に着くと、ここで磐越西線から磐越東線に乗り換える。13時12分発の平行き。新型車両の3両編成の気動車ジーゼルのエンジン音が軽やかだ。郡山を出るとすぐに阿武隈川の鉄橋を渡る。前方には、阿武隈山地のゆるやかな山並みが連なっている。

「さー、今度は、磐越東線の温泉だー!」

 と、“三春人形”で有名な三春で降りる。

 磐越東線の第1湯目は、三春駅から徒歩30分の馬場ノ湯温泉。「三ツ美屋旅館」(入浴料350円)の湯に入る。新築の建物で、湯船もきれいなものだった。もう1湯、斉藤ノ湯温泉に行きたかったが、ちょっと距離があるので断念。

 そのかわりに三春駅の次の要田駅まで歩き、第2湯目の要田温泉「あぶくま保養センター」(入浴料350円)の湯に入った。赤茶けた湯。湯につかっていると、ガラス張りになった浴室のすぐ前を磐越東線の列車が通り過ぎていく。要田温泉は、要田駅から200メートルほどの、線路わきにある温泉だ。

 要田発15時45分発の列車に乗り、小野新町へ。その間の30分ほど、ぼくは目をこらして車窓の風景を眺めつづけた。列車のエンジン音にも耳を傾けた。阿武隈山地分水嶺の峠をみきわめようとしたのだ。だが、難しい。阿武隈山地の上は、中国地方の吉備高原に似た高原状の地形だからである。

 だが、さすがに“峠のカソリ”、日本の1000峠を踏破(1994年11月に達成)しただけのことはある。菅谷駅神俣駅のほぼ中間点が峠であることをつきとめた。この峠(ほぼ平らな地形なので、誰も峠だとはいわないが)を境に、西側は中通り、東側は浜通りということになるのだが、その間にもうひとつ必要。“阿武隈高原”だ。

 つまり、福島県の太平洋側は、阿武隈川流域の“中通り”と、“阿武隈高原”、それと太平洋沿岸の“浜通り”からなっているということが、鈍行列車の車窓からだとよくわかるのだ。

“鈍行乗り継ぎ”は、日本列島の骨組みを見る、知るのには、最適の旅の方法だと、ぼくは自信をもってそういえる。車窓の風景を眺めながら地図をみていると、いろいろなことがわかってくる。

 16時15分、小野新町着。この地が、平安時代の絶世の美女、小野小町誕生の地ということで、碑も立っている。そのせいか、一緒に降りた女子高生にも美人が多かった。磐越東線第3湯目は、駅近くの小町温泉。「太田屋旅館」(入浴料350円)の湯に入る。小町温泉も小野小町にちなんで“美人湯”ということで売っている。

 小野新町駅から今晩の宿、第4湯目の日影ノ湯温泉まで歩いていく。その距離8キロ。慣れというのは、恐ろしいものだ。歩いて、歩いて、また、歩いて……の毎日なので、8キロぐらいの距離には驚かない。一軒宿の宿には「素泊まりでお願いします」と頼んであるので、気が楽だ。

“駅前食堂”で満腹にし、夜道を歩く。小野新町の商店街を通り抜け、山中に入っていく。まったく灯がなくなると、けっこう不気味だ。日影ノ湯温泉に到着すると、さっそく湯に入り、湯上がりのビールを飲んだが、歩き疲れたこともあって、目をあけていられずに早々と寝た。ほかに泊まり客もいなかったので、宿全体がシーンと静まりかえっていた。

 翌朝は5時前に宿を出発。前夜と同じ道を歩き、小野新町発6時53分の一番列車、平行きに乗る。7時41分、平着。日本海岸の新潟から、信越本線磐越西線磐越東線と乗り継いで太平洋岸の平へと、本州を横断したのだ。

 平からは常磐線で東京へ。福島県内の湯本駅で下車するいわき湯本温泉共同浴場(入浴料70円)、茨城県内の大津港駅で下車する石尊温泉(入浴料300円)、川尻駅で下車する三京温泉(入浴料300円)に入り、最後は日立発13時33分の上野行きに乗る。7両編成の電車。途中、土浦で8両増結され15両編成となり、16時21分、上野駅9番ホームに到着した。

 前回の上越線信越本線篇と合わせ、全部で44本の鈍行列車に乗り継ぎ、39湯の温泉に入りまくり、また、上野駅に戻ってきたのだ。