「青春18きっぷ2010」(45)
第6日目(新潟→東京・その3)
会津若松駅前で目立つのは「白虎隊士」の像。「会津」といえば誰もが「白虎隊」を連想するのではないか。
慶応3年(1868年)3月、会津藩は官軍を迎え討つにあたって、軍制を改革。年齢によって白虎隊(16歳~17歳)、朱雀隊(18歳~35歳)、青竜隊(36歳~49歳)、玄武隊(50歳以上)の東西南北を意味する白、赤、青、黒の4隊に分けた。
8月になると、官軍は圧倒的に優勢な武力でもって、会津に進軍。少年兵の白虎隊も動員されたが、官軍の猛攻の前にはなすすべもなく、全員が飯盛山に逃れた。
飯盛山から城下を見下ろしたとき、少年兵たちの目に映ったのは炎と黒煙に包まれた若松の町並みだった。鶴ヶ城の天守閣も燃えているかのように見え、
「もうこれまで!」
と、少年兵たちは自刃したり、互いに刺し違えて死んでいった。20人の白虎隊士のうち、ただ1人、飯沼貞吉のみが生き環った。
その翌々月の10月14日には、徳川幕府第15代将軍の慶喜は大政奉還をし、日本は一気に明治維新へと突入していく。そんな激動の時代に白虎隊の若き隊士たちは散っていった。
駅前には会津の観光キャラの「赤べこ」が飾られている。その由来は次のように書かれている。
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1611年の会津を襲った大地震により、柳津町の円蔵寺が崩壊したため、会津藩主蒲生秀行の夫人、振姫(徳川家康の三女)の寄進により、現在の地の岩山上に再建することにした。
しかし、巌上での建造のため、大材を運び上げることが出来ずに困っていた。その時、副住職の宝海上人が「赤べこ」の大絵馬を本尊の虚空蔵菩薩に供え、7日7晩の祈祷をつづけたところ、満願の日に「赤べこ」が絵馬から抜け出して裏山に消えた。
その夜明けに、「赤べこ」は赤毛の牛の大群を連れて現われ、ほかの牛たちと力を合わせて大材を運び上げることとなり、見事に虚空蔵堂を建てることができた。
虚空蔵堂の完成が間近になった頃、いつの間にか赤毛の牛の群れは裏山に姿を消し、「赤べこ」も元の大絵馬に収まっていたとのことである。残念ながらこの大絵馬は、1818年の本堂の火災によって焼失してしまった。
それ以降「赤べこ」は福牛といわれ、赤色は魔除けの色とされ、今に伝わっている。
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そうか、「赤べこ」発祥の地は柳津の福満虚空蔵尊だったのか。
会津若松の駅前には「貴婦人」といわれた蒸気機関車、C57の動輪も置かれている。これは実際に使われていたもの。現在、磐越西線の「新潟駅~会津若松駅」間には、大人気のSL列車が運行されている。
会津若松では9時11分発の快速「会津ライナー2号」に乗車。6両編成の電車で、元特急の車両。前4両が自由席で後2両が指定席になっている。東北本線を走っていた特急「はつかり」の車両であろうか。
快速「会津ライナー2号」は会津若松駅を発車すると、次は磐梯町駅。磐梯山は雲に隠れて見えない。磐梯町駅を過ぎると雪になり、雪景色が広がる。猪苗代湖畔の翁島駅を通過すると雪はやみ、薄日が差してくる。ところが猪苗代駅に到着すると小雪が待っていた。天気がめまぐるしく変る。
猪苗代駅を出て、奥羽山脈の中山峠を越えると雪はやんだ。列車は磐梯熱海駅に停車し、次が終点の郡山。郡山の市街地に入るころには天気は回復し、青空が見えていた。
快速「会津ライナー2号」は10時11分、郡山に到着。会津若松からはちょうど1時間。ここでは1時間以上あるので町を歩くことにする。
駅前の「白虎隊士」の像
駅前の「赤べこ」
C57の動輪
快速「会津ライナー2号」
会津若松の市街地を抜けていく
磐梯町駅を過ぎると雪景色
翁島駅を通過すると日が差してくる
中山峠を越えると雪はやんだ
郡山駅に到着