賀曽利隆 STILL ON THE ROAD !

世界を駆けるバイクライダー・賀曽利隆(かそりたかし)。地球をくまなく走り続けるカソリの”旅の軌跡”をまとめていきます。

「青春18きっぷ2010」(21)

第3日目(函館→旭川・その6)

 函館本線・小樽行の列車は14時04分、倶知安駅を出発。1両編成のディーゼルのワンマンカーにはかなりの乗客。さすがニセコをひかえた倶知安だけあって、ヨーロッパ人の姿が目立った。オーストラリア人か。

 列車は倶知安峠を越える。すると急速に雪が少なくなった。

 つづいて稲穂峠を越える。

 稲穂峠の「稲穂」はアイヌ語の「イナウ」(木の御幣)からきている。

「イナウ」は木の御幣といったが、たとえばこのような使い方をする。

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「あるメノコ(女)が、夫が山猟に行った留守の間、朝夕の煮炊きを面倒がって、残り物ばかりを食べていた。するとある日、イロリ端の土間に横になって休んだところ、体が土にくっついて離れなくなった。

 山猟から帰った夫は驚いて、急いで【イナウ】をつくり、アペ・フチ・カムイ(火の・おばあちゃんの・神様)に祈った。どうか妻を許してください。

 おかげで、女は元通り起き上がることができた。

 朝夕の煮炊きのためにイロリにくべる薪は、アペ・フチ・カムイの食物。その大事なものを女は差し上げなかった。それで罰をあたえられたのさ」(アイヌの昔話より)

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 そんな「イナウ」に「稲穂」の字を当てるところに、北海道人の稲に対する熱い想いが見て取れる。

 北海道では亜熱帯作物の稲を道南から道央、道北へと栽培エリアを拡大させ、亜寒帯でまで、稲をつくっている。

 そんな北海道の稲作を見たくて、20数年前、列車で函館から稚内まで行ったことがある。それはぼくにとっては忘れられない列車旅になった。少し長くなるが、そのときの北海道の稲を追った列車旅を紹介しよう。

◇◇◇

 1986年9月16日、函館発8時02分の札幌行特急「北斗3号」に乗った。

「北斗3号」は函館の市街地を抜け出ると、広々とした草原を走る。木の柵で囲まれた牧場で馬が草を食む風景はいかにも北海道らしいもの。だがそれとともに、金色に染まった稲田の風景が、北海道が日本であることをあらためて感じさせてくれた。

 函館平野(大野平野)は北海道の稲作発祥の地。旧大野町の文月で元禄年間(1688年~1704年)に水稲栽培がおこなわれた記録が残っている。

 しかし北海道で稲作が本格的におこなわれるようになるのは明治になってからのこと。稲作地帯は短期間に石狩、空知、上川と北に延びていった。

 12時05分、「北斗3号」は札幌に到着。駅周辺の北海道庁旧本庁舎や時計台を見てまわり、大通り公園、中島公園を歩き、ひと晩、札幌に泊まった。

 翌朝、7時00分発の網走行き特急「オホーツク」に乗り込み、旭川に向かった。

 トウモロコシ畑やジャガイモ、タマネギ、ダイズ畑が見える。牧草地も見える。だがそれら畑作地や牧草地よりも、一面に黄金色に染まった稲田の方が、はるかに広い面積を占めていた。さすが北海道、一枚の田は内地とは比べものにならないくらいに広い。

 石狩平野で稲作が本格的にはじまったのは、明治28年に北海道庁が稲作試験場を設けてからのことだという。「坊主」という優れた耐寒品種が生まれ、内地とは違う直播の稲作技術が発達した。いかにも大規模農業の北海道らしい話だ。

 明治30年には北海道拓殖銀行が設立され、農民に資金を貸し出すようになってからというもの、泥炭地の土地改良ができるようになった。そのため低地で水の得やすいところはことごとく水田化され、石狩平野は北海道の一大穀倉地帯になった。

 8時45分、旭川着。ここで8時52分発の宗谷本線の急行「礼文」に乗り換える。

 2両編成の急行「礼文」は旭川駅を発車すると上川盆地をひた走る。

 石狩平野、空知平野と同じような稲作地帯の上川盆地だが、

「これが平野と盆地の違いかな」

 と思わせたのは、一枚一枚の田が狭くなったことだ。

 上川盆地で稲作が本格化したのは、石狩平野よりも10年あまり遅れた明治30年代後半。冬は気温が氷点下20度以下に下がる酷寒の地だが、夏は気温が30度を超える盆地特有の気候が稲作を可能にした。

 列車は上川盆地の北端にさしかかり、ディーゼルのうなりを上げながら、塩狩峠を登っていく。目をこらして稲田を見つづける。峠下の最後の稲田が消えたとき、

「あー、これで日本の稲作地帯が終った!」

 と、思った。

 列車は峠を下る。天塩川流域の名寄盆地に下って驚かされたのは、上川盆地で消えたとばかり思っていた稲田がまた車窓に現れてきたことだ。

 その驚きは、日本の稲作の北限が「あー、ここまで延びてきているのか!」という感動でもあった。

 9時28分、士別着。まだ稲田が見える。

 10時01分、名寄着。まだ稲田が見える。

 列車は名寄を出ると、天塩川の右岸を走るようになる。蛇行を繰り返す天塩川。名寄盆地はその幅をぐっとせばめ、やがて列車は谷間に入る。そこで稲田は消えた。

 10時22分、美深着。消えたとばかり思った稲田が、なんとまた、姿を現したのだ。

 いったい日本人は、どこまで北で稲をつくっているのか。

 しかし、さすがにこのあたりまで来ると、稲田があるとはいっても、ダイズやトウモロコシ、ジャガイモなどの畑や牧草地の方がはるかに広い面積を占めている。

 美深を出て2つ目の駅、紋穂内駅の手前で稲田を見た。それが車窓から見た最後の稲田になった。紋穂内は地図で見ると、北緯44度30分前後であろうか。

 稲田が見えなくなると、車窓を流れていく風景は急速に荒涼感を増した。

 こうして13時05分、急行「礼文」は終着の稚内駅に到着した。…

 (以上、1986年の鉄道旅)

◇◇◇

 小樽行の列車は稲穂峠のトンネルを抜け出ると銀山駅に停まり、そこから余市に下っていく。余市では満員になる。通路も立つ人でほとんどふさがってしまう。

 函館から倶知安までガラガラの乗客を見つづけてきたので、満員の車内の光景がすごく目新しい、新鮮なものに映った。

 こうして15時29分、定刻通り小樽駅に到着。途中、かなり激しく雪が降ったが、それで遅れることはなかった。

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倶知安駅

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小樽行のワンマンカー

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稲穂峠を越えて銀山駅に到着

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余市の市街地に入っていく

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小樽に到着

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雪まみれの列車

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雪の小樽駅

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小樽駅の札幌方面行ホーム