「青春18きっぷ2010」(13)
第2日目(東京→函館・その8)
東北本線の終着駅、盛岡では「いわて銀河鉄道」に乗り換える。八戸行の発車時間まで50分あるので、駅構内の食事処「南部いろり庵」で「盛岡冷麺」(750円)を食べ、立ち食いの店では「じゃじゃ麺・大盛」(500円)を食べた。
駅前に出ると、ザーザー降りの雨なので、町歩きはやめた。
いわて銀河鉄道の改札口はJR線の改札口とは別になっているが、奥羽本線の大館に通じるJR花輪線とは供用だ。
ここでは八戸までの切符(2960円)を買った。
「青春18きっぷ」は「いわて銀河鉄道」では使えない。厳密にいうと、「いわて銀河鉄道」は岩手・青森の県境までで、そこからを先、八戸までは「青い森鉄道」になる。だが「青い森鉄道」の最初の駅、目時から八戸間も使えないとのことだ。
17時04分発の八戸行は2両編成のワンマンカー。満員の乗客を乗せて走り出す。
外はもうすでに真っ暗。雨滴のついた窓からは流れていく町明かりが時々見えるぐらいで、ほかには何も見えない。
盛岡から20分ほどで電車は渋民駅に着く。
ここ「渋民」は石川啄木の故郷だ。
出発点の上野駅で、
「ふるさとの 訛なつかし 停車場の 人ごみの中に そを聴くにゆく」
の石川啄木の詩碑を見たので、夜の渋民駅にはひときわ感慨深いものがあった。
◇◇◇
ということで、ここではぜひとも渋民の石川啄木がらみの写真を見てもらおう。
ぼくは『ツーリングマップル東北』(昭文社)の取材で毎年、夏におおよそ1ヵ月1万キロ、東北をバイクで走っているが、写真はそのときのものである。
渋民駅の近くには「啄木記念館」がある。そこでは啄木の生涯がよくわかる。
石川啄木は明治19年、旧玉山村(現盛岡市)の常光寺で生まれ、幼年期を「啄木記念館」の裏手にある宝徳寺で過ごした。
「啄木記念館」の敷地内には移築された「旧渋民尋常小学校」と「旧斉藤家」の建物があるが、啄木はこの渋民尋常小学校を卒業している。
啄木は結婚後、妻と母を連れて渋民に戻ると、渋民尋常小学校で代用教員をしている。その間の1年間、家族とともに斉藤家に間借りした。
「啄木記念館」は国道4号の旧道沿いにあるが、国道をはさんだ反対側には「啄木公園」、そこには啄木の次のような詩が彫り刻まれた詩碑が建っている。
やはらかに 柳あをめる
北上の岸邊目に見ゆ
泣けとごとくに
「啄木公園」からは、南部富士の岩手山(2038m)が大きく見えた。
石川啄木は明治45年、肺結核で亡くなっている。26歳という若さだった。
◇◇◇
「いわて銀河鉄道」の八戸行電車は渋民を過ぎると、次に好摩駅に停まる。ここはJR花輪線との分岐駅。かなりの人が降りた。さらに、いわて沼宮内駅でも降りた。
一戸駅では大半の人が降り、二戸駅を過ぎると車内はガラガラになった。二戸の次の次、金田一温泉駅までが岩手県内になる。
岩手・青森の県境を越え、青森県側最初の駅、目時駅に停まる。ここで数人の人たちが乗車、目時からは「青い森鉄道」になる。
その後、ポツポツと人が乗ってくる。
ぼくの前に座った2人連れの、
「JRがなくなって、寂しいねえ…」
の一言が胸に迫った。
盛岡から2時間10分、19時14分に雨の八戸駅に到着した。
盛岡は東北本線の終着駅
駅構内の食事処「南部いろり庵」で夕食
盛岡名物の「冷麺」を食べる
さらに「じゃじゃ麺」の大盛も
ザーザー降りの盛岡駅前
いわて銀河鉄道の改札口
いわて銀河鉄道の八戸行に乗る
◇◇◇
「啄木記念館」の「旧渋民尋常小学校」
「旧渋民尋常小学校」の内部
「啄木記念館」の「旧斉藤家住宅」
渋民公園の啄木歌碑
渋民公園から見る南部富士の岩手山
◇◇◇
岩手・青森の県境を越えると電車はガラガラ
八戸に到着
雨の八戸駅