賀曽利隆 STILL ON THE ROAD !

世界を駆けるバイクライダー・賀曽利隆(かそりたかし)。地球をくまなく走り続けるカソリの”旅の軌跡”をまとめていきます。

海道をゆく(22)「紀伊半島編」ガイド1

(『ツーリングGO!GO!』2005年9月号 所収)

01、勢和多気IC 

伊勢道の勢和多気ICは東京方面から紀伊半島に行くときにはじつに便利。伊勢湾岸道が豊田JCTで東名とつながり、四日市JCTで東名阪道とつながり、さらに東名阪道と伊勢道がつながったので、東京ICから一気に勢和多気ICまで行かれる。バイクのメーターでは「東京IC→勢和多気IC」は439キロだった。ところで伊勢湾岸はすごくよかった。片側3車線で交通量は比較的少なく、走りを存分に楽しめる。

02、荷阪峠 

R42の伊勢と紀伊の国境の峠。この峠を越えて紀州(紀伊)に入ると、「やったねー!」という気分になる。峠は短いトンネルで貫かれているが、伊勢側のトンネル入口の手前から左に入る道は荷阪峠越えの「熊野古道」。昔の熊野三山への参詣道だ。トンネルを抜け出たところに展望台。そこに立つと紀州の山々を眺め、かなたには紀州の海が見える。荷阪峠を越えて伊勢から紀伊に入ると劇的にかわる。伊勢では「伊勢茶」の茶畑を多く見たが、紀伊に入ると「紀州ミカン」のミカン園が目につくようになる。太陽の光もさんさんと輝くようになる。伊勢と紀伊では太陽の輝き方が違う。まさに「きらめきの紀州」という感じ。紀伊長島への下りは急勾配。コーナーが連続する。

03、紀伊長島

荷阪峠を下り、紀伊長島の町に着くと、「紀伊の国、こよりはじまる!」といった感を強くする。紀州というとすぐに和歌山県を連想するが、この紀伊長島から尾鷲、熊野市へとつづく三重県南部も紀州なのだ。和歌山は全県が紀伊1国なのでじつにまとまりが良い。ところが三重は伊勢、志摩、伊賀、紀伊と4国から成っているので、まとまりの悪いことこの上もない。旧国というのは今でも大きな影響を及ぼしている。

04、九鬼 

尾鷲からR311に入り、長い八鬼山トンネルを抜け、海岸に下ったところが九鬼だ。奥深くまで切れ込んだ入江。ここではタイやハマチなどの養殖が盛ん。入江の奥には九鬼漁港。漁業集落の九鬼は中世の熊野海賊(九鬼水軍)の根拠地だった。熊野灘を行き来する船をひんぱんに襲った熊野海賊はやがて有力大名と手を結ぶようになるのだ。うっそうとした森がおい茂る「九木神社」の石段に座り、なんとも穏やかな九鬼漁港を見下ろしていると、「ほんとうにここが海賊の根拠地だったのだろか」という思いにとらわれる。

05、R311(尾鷲→熊野市) 

起点の尾鷲から熊野市まで走ったR311だが、九鬼を過ぎると、絶好の「海道」になる。広狭混在の道を走りながら、賀田湾、二木島湾、新鹿湾とすばらしく青い紀伊半島東岸の海を見る。湾や入江沿いの曲がりくねった道なので時間はかかるが、「おー、これぞ紀州の海!」と思わせるものがある。なおR311は熊野市から紀伊半島横断ルートになるが、本宮から終点の田辺に近い上富田までは熊野街道の「中辺路」になる。

06、鬼ヶ城 

ここではR42の鬼ヶ城トンネル入口(東側)手前から入る駐車場にバイクを止め、歩いた。すごい海岸の風景。石英粗面岩の断崖がストンと海に落ちている。熊野の海はまばゆいばかりにキラキラ輝いていた。スーッと吸い込まれそうになるほどの青い海。鬼ヶ城の先端は「千畳敷」。岩の大広場がひらけ、それが階段状になって海に落ちていく。背後は覆いかぶさるような大岩。R42のすぐわきにこんな世界がある!

07、獅子(しし)岩 

熊野市内のR42沿いの海岸にある大岩。北から南に走ると、ちょうどスフィンクスの後姿を見るようで、気がつかないまま通りすぎてしまうかもしれない。だが反対に南から北に走ると、大きく口をあけて熊野灘に向かって吠えている獅子がじつによく見える。まさに「獅子岩」。ほんとうによく似ているのだ。獅子岩の南側には駐車場があるが、そこにバイクを止めると、目の前が高さ25メートルの獅子岩。この獅子岩を境にして熊野灘の海岸線は入り組んだリアス式海岸から七里御浜の一直線にスーッと延びる砂浜海岸へと劇的に変わる。

08、七里御浜(しちりみはま)

熊野市から熊野川河口までのきれいな砂浜海岸。白砂青松の海岸で「白砂青松100選」にも選ばれている。松の防風林が途切れたあとりからは、R42を走りながらスーッと延びる七里御浜の海岸線を一望できる。その途中には道の駅「パーク七里御浜」。ここにはレストランやみやげもの店が並ぶ。海岸ではすべすべした光沢のある「御浜小石」を拾える。ゼロ円のみやげもの。磨けば装身具にもなるという。志摩半島突端の大王崎から紀伊半島最南端潮岬までが熊野灘の海岸線になるが、その大半は入り組んでいる。唯一、七里御浜だけが直線的だ。

09、道の駅「紀宝町ウミガメ公園」

R41沿いにある道の駅「紀宝町ウミガメ公園」の入口には大きな石製のウミガメ。ここには「ウミガメ資料館」(入場無料9時~18時)がある。さらに飼育館の海水プールでウミガメを見ることができる。「紀宝町ウミガメ公園」前の井田海岸の浜辺には5月下旬から8月上旬にかけてウミガメが産卵にやってくる。

10、熊野川河口 

R42を南下し、日本でも最小の村、三重県の鵜殿村に入ると熊野川の河口に到達だ。さすが紀伊半島第一の大河、広々とした河口の風景が目に残る。大峰山地の八剣山(1915m)を源とする熊野川は全長158キロで近畿最長の川。対岸は和歌山県の新宮。河岸のポコッと盛り上がった丹鶴城跡がよく見える。

11、熊野速玉大社

「熊野三山」のひとつ。朱塗りの社殿が色鮮やか。境内には上皇や法皇の「熊野詣で」の回数を記した碑が建っているが、後白河上皇が33度、後鳥羽上皇が29度…など、京から「熊野三山」へとたいへんな回数の「熊野詣で」をしている。熊野速玉神社を参拝すると、「よーし、また熊野三山めぐりをしよう!」という気になるものだ。ぼくにとっては10何度目かの「熊野三山」めぐりの開始だ。

12、徐福公園 

新宮の駅近くに「徐福公園」がある。中華街を思わせるような極彩色の門。徐福は秦の始皇帝のころの人で、皇帝から不老長寿の霊薬を探してくるように命じられ、金銀財宝を積んだ船で黒潮にのって熊野にやって来た。全部で85隻もの大船団を率いてやってきた。それらの船には数千人もの男女が乗っていたというのだ。そのままこの地に住み着いた徐福らは熊野人たちに大陸の進んだ農業や漁業の技術を伝え、今なおこの地の人たちの心の中に生きつづけている。「徐福公園」内には徐福の墓がある。高さ2メートルほどの墓には「秦徐福之墓」と記されている。その隣には不老長寿の霊薬になるという常緑のクス科の木。「天台烏薬(てんだいうやく)」というそうだ。熊野川の河口近くには「徐福上陸の地」碑が建っている。

13、浮島の森 

新宮の市街地の中に「浮島の森」(入場料100円)」はある。ジャングルを水耕栽培しているようなもので、東西約55メートル、南北約90メートルの浮島には寒地性の植物、暖地性の植物、もとからの地元の植物など400種以上もの植物が森を作っている。遊歩道を歩いて浮島をまわれるようになっているが、洗濯物を干した家々のすぐわきを通っていく。浮島の中に入るとうっそうとおい茂る森。まさにジャングルの様相だ。浮島は泥炭層の上に浮かんでいるので、強風に吹かれると動くという。このような自然が新宮の中心街に残っていることに驚かされる。この地は「神倉聖」の修行の場で、入る人はいなかった。ところがある日、美しい娘が薪とりに入り、底無し沼にすむ大蛇に呑み込まれてしまったという「美女伝説」が伝わっている。

14、神倉神社 

新宮は熊野川河口に広がる南紀の中心都市。そんな新宮市内を貫くR42からわずかに山側に入ったところが神倉神社の登り口になる。そこからの登り口というのがすごい。見た目には垂直の石段。それも自然石を段にしたような石段なのだ。ヒーヒーハーハー息を切って538段の石段を登りつめると、ご神体の「ごとびき岩」と社殿がある。神々しさが満ちあふれている。思わず「おー、神がいる!」と叫んだほど。地元、新宮の人たちも、この地が新宮一番の聖地だといっていた。社殿前からは新宮の市街地と熊野灘に流れ出る熊野川の流れを一望!

15、那智の滝 

海沿いに走るR42から日本一の名瀑、那智の滝にむかっていくと、一気に山中に入っていく。海と山が接する紀伊半島の地形がよくわかる。やがて右手には高さ133メートルの日本一の大滝、那智の滝が見えてくる。駐車場にバイクを止め、うっそうとおい茂る杉木立の石段を駆け下ると、「グウオー!」と耳をつんざくような音を轟かせてる流れ落ちる那智の滝が目の中に飛び込んでくる。「すごい!」のひと言。何度、見ても、感動する瞬間だ。那智の滝は飛滝神社の御神体になっているが、自然のつくり出すあまりの神々しさに思わず手を合わせてしまう。

16、補陀落山寺 

 南海のかなたにあるという観音浄土の「補陀落」を目指して、この寺の歴代の住職たちは、那智の浜からひとりぼっちの船出をした。それも2度と外に出られないように、釘で打ちつけられた船にのって沖に流されていったのだ。寺の裏山にはそんな13人の「渡海上人」たちの墓がある。

17、熊野那智大社 

「熊野三山」のひとつ。熊野参詣道が世界遺産に指定されてからというもの、訪れる人がぐっと増えた。研修中の観光バスのガイドさんたちと一緒になったが、彼女らと一緒になって464段の石段を息を切らして登り、朱塗りの社殿に参拝した。那智の滝でもわかるように、那智山は豊かな自然。その中心に熊野那智大社がある。「熊野三山」というのは、この豊かな熊野の自然を崇拝する霊場。「自然こそ神」の世界だ。

18、青岸渡寺 

熊野那智大社に隣り合った青岸渡寺は「西国巡礼三十三番」の第1番札所だ。今の時代は「四国八十八ヵ所」などの巡礼ブームで、ここでも白装束の巡礼者たちの姿を多く見かけた。入母屋造りの大本堂は豊臣秀吉によって再建されたもので、建造物では南紀唯一の国指定の重要文化財になっている。

19、太地 

かつての日本一の捕鯨基地。。町の入口には「くじら像モニュメント」、熊野灘を一望する梶取崎園地の一角には「くじら供養碑」が建っている。「くじらの博物館」では鯨の生態や捕鯨に関する資料が展示され、中世から現代にいたるまでの捕鯨の歴史がよくわかる。「捕鯨船資料館」は実際に南氷洋捕鯨で活躍した捕鯨船。太地漁港から小半島突端の燈明崎に行くと「行灯式燈明台」が復元されている。日本初の鯨油を使った燈明台で寛永13年(1636年)に造られた。1夜で3合(540ml)から4合(720ml)の鯨油が使われたという。ここには「古式捕鯨山見台」もある。捕鯨の司令塔的な場所で回遊する鯨を発見し、ここから海上の勢子舟や網舟に指令を送ったという。このように鯨の町、太地はみどころいっぱいだ。

20、国民宿舎「白鯨」 

太地の国民宿舎「白鯨」(電話0735-59-2323)では鯨料理のフルコース(11時~14時 5350円)を食べた。突き出し、ベーコン、竜田揚げ、オバケ、お造り、カルパッチョ、ハリハリ鍋と、全部で7品の鯨料理だ。突き出しには鯨のごまあえ、コリコリした内臓、それとコロ(脂身)とヒジキの煮物が出た。ベーコンはナチュラルな味わいでショウガ醤油につけて食べる。竜田揚げはちょっと固かった。オバケは尻尾の皮でスポンジのような感触。酢味噌につけて食べるのだが、スルスルッと食べられる。鯨の刺し身のお造りは赤味と白身(脂身)を一緒に食べる。それと胸の皮のウネス。かみごたえ十分だ。カルパッチョは鯨肉を使ったイタリア風料理。ハリハリ鍋には鯨肉のほかに水菜とうどんが入っている。水菜のシャリシャリがなまってハリハリになったという。

21、古座(こざ)川河口 

R42で古座川の河口を渡るが、ぼくは橋の上からの眺めが好きだ。とくに旧道の橋の上からの眺めがいい。上流側に目をやると、ゆるやかに連なる紀伊半島の山々をバックにした古座川の流れは一幅の絵のような美しさ。古座川は海に流れ出るまで清流だ。河口近くの河岸は漁港になっている。

22、古座川の一枚岩 

古座川沿いに走り、R371に合流してまもなく、巨大な一枚岩を見る。高さ100メートルの「古座川の一枚岩」、通称「日本のエアーズロック」だ。川岸にそそり立つ大岩を見ていると胸が熱くなる。1996年、ぼくは「オーストラリア2周」を走ったが、2周ともエアーズロックの頂上に立った。

23、橋杭岩 

南紀のシンボル。大小40の岩がまるで杭を打ったかのように一列に並んでいる。それぞれの岩には名前がついている。対岸は紀伊大島。今回は引き潮で干上がった橋杭岩を見た。駐車場から海岸に降り、橋杭岩と海が接するところまで歩いた。

24、串本温泉 

本州最南の温泉。串本の町中に何軒かの温泉宿がある。そのうち「和田金別館」が本州最南の温泉宿だ。ここには以前、泊まったことがあるので、今回は日帰り湯の「サンゴの湯」(入浴料310円 11時~21時 月休み)に入った。塩分の強い湯につかりながら本州最北の大間温泉(青森)を思った。

25、樫野(かしの)崎 

県道40号で紀伊大島を横断。行き止まり地点が樫野崎だ。ここには「トルコ記念館」(入館料250円 9時~17時)。明治23年(1890年)に難破したトルコの軍艦「エルトブロール号」の資料が展示されている。岬突端の灯台は明治3年(1860年)初点灯。石造りの灯台としては日本最古。

26、海金剛 

紀伊大島は島全体がゆるやかな丘陵地帯だが、海岸線は断崖絶壁だ。その中でも「海金剛」の海岸美はすばらしい。2001年にバイクで北朝鮮を走ったが、一番の絶景ポイントは金剛山の山並みが海に落ちる「海金剛」だった。紀伊大島の「海金剛」は、朝鮮半島の「海金剛」に負けないくらいの海岸美だ。

27、潮岬 

本州最南端の岬。もうそれだけで、潮岬に来るたびに大感動。「本州最南端」碑の前に立つと、大間崎の「本州最北端の地」碑が目に浮かんでくる。岬周辺の家々や畑のまわりの防風林が目につく。潮岬は四国の室戸岬と並ぶ日本の台風銀座なのだ。岬先端には白亜の灯台。慶応2年(1866年)、欧米の4ヵ国と結んだ江戸条約によって、全国の8ヵ所に灯台が設置されることになり、潮岬と樫野崎に灯台が建設された。日本最初の洋式灯台がこのエリアに2つもつくられたのだ。

28、白浜温泉 

南紀最大の温泉地、白浜温泉に着くと、海岸の露天風呂「崎の湯」(入浴料300円 8時~17時)に直行した。有料になった「崎の湯」には、もとからの露天風呂のほかにもうひとつ、海岸すれすれのところに新しい露天風呂ができている。もとからの露天風呂が熱めの湯、新しい露天風呂が温めの湯と、2つの露天風呂は湯温が違う。南紀の真っ青な海を眺めながら湯につかる気分は最高。「崎の湯」のある湯崎は白浜温泉の中でも一番、歴史の古い地区。「湯崎七湯」で知られる。

29、田辺 

熊野街道の大辺路(海岸ルート)と中辺路(内陸ルート)が分岐する田辺は弁慶誕生の地。市内の闘鶏神社には「弁慶誕生之地」碑が建っている。さらに市内には「弁慶産湯の井戸」や「弁慶産湯の釜」、「弁慶の腰掛け石」、「弁慶松」など弁慶の史蹟が数多く残されている。JR田辺駅でバイクを止めると、駅前の弁慶像に向かって、「また、会いましたね」といってやった。岩手県の中尊寺、北海道の弁慶岬などで弁慶像に出会った「弁慶フリーク」のカソリ、田辺駅前の弁慶像を見ながらしばし感動の時間を過ごすのだった。

30、日ノ岬 

御坊でR42を離れ、紀伊半島最西端の日ノ岬へ。途中の煙樹ヶ浜は見事な松林。三尾(みお)の集落から急傾斜の道を登りつめ、日ノ岬の展望台に立った。四国最東端の伊島と四国本土最東端の蒲生田岬がよく見える。その向こうには四国山脈の山々。岬の「カナダ資料館」(入館料100円)を見学。旧三尾村からは大勢の人たちがカナダのバンクーバー近くに移民したが、その資料が展示されている。今でも三尾にはアメリカ(カナダのことだが)帰りの人たちが多く住んでいる。

31、白崎(しらさき) 

日ノ岬から湯浅までは県道24号→県道23号と、海沿いのルートを走った。紀伊半島西岸のきれいな海岸線をあちこちで見る。その中でもとくに印象的だったのは白崎。石灰岩の白い岩肌が露出する文字通りの「白い岬」だ。白崎を見てすぐに思い出したのはアフリカ大陸最北端のブラン岬。チュニジアのブラン岬も「白い岬」を意味するが、白崎の方がはるかに白い。白崎を過ぎると、黒島とか鷹島といった島々を眺めながら走り、日本の醤油発祥の地、湯浅の町に入っていく。

32、和歌山城 

紀伊半島一周ルートのR42を走りきり和歌山に到着。和歌山は紀伊54万石の城下町。尾張、水戸と並ぶ「徳川御三家」だ。その中心が和歌山城。R42の終点は和歌山城の交差点。そこはR24(京都→和歌山)とR26(大阪→和歌山)の終点にもなっている。和歌山城で紀伊の3本の幹線国道が出会うのだ。「う~ん、紀伊の国のすべての道は和歌山城に通ず、だな」と、うなるカソリだった。

33、紀ノ川大橋 

和歌山城からR26で紀ノ川にかかる「紀ノ川大橋」を渡った。前方には和泉山脈のゆるやかな山並みが長く延びている。その風景がいい。「あの山並みを越えると大阪だ」という気分になる。紀ノ川大橋から下流に目をやると、もう1本、有料の紀ノ川河口大橋が見える。その向こうは紀伊水道の青い海。紀ノ川は「紀伊の母なる流れ」。川沿いにR24が走り、流域には粉河、高野口、橋本など紀北の町々が続く。

34、加太(かだ) 

R26から県道7号を走った海辺の町が加太だ。紀淡海峡に面した大和王朝時代からの古い港町で、目の前に浮かぶ友ヶ島への船もここから出ている。その向こうには淡路島が見える。加太港前にある淡島神社は3月3日の「雛流し」でよく知られているが、境内を埋めつくす人形はちょっと異様な光景だ。

35、大川峠 

加太からさらに県道7号を行き、旧道で和泉山脈最西端の大川峠を越えた(新道は大川トンネル)。峠は和歌山県内で、峠を下ったところが大阪・和歌山の府県境(紀伊と和泉の国境)。大阪に入ると、急に現実の世界に引き戻されるとでもいおうか、何かせわしない。空の青さや海の青さにも輝きがなくなってくる。それだけ紀伊の空は青く、海も青く、時間がゆったりと流れているのがよくわかる。

36、田倉崎 

加太の淡島神社から海沿いに走り、行き止まり地点が門倉崎になる。岬までバイクで走っていける。鉢巻山がストンと海に落ちている。断崖上には灯台。田倉崎の夕日はすばらしい。目の前の海が赤く染まり、その中に友ヶ島が浮かんでいる。その後には淡路島。岬周辺は絶好の海釣りのポイントになっている。