賀曽利隆 STILL ON THE ROAD !

世界を駆けるバイクライダー・賀曽利隆(かそりたかし)。地球をくまなく走り続けるカソリの”旅の軌跡”をまとめていきます。

カソリの島旅(36)三河三島(愛知)

(『ジパングツーリング』2002年1月号 所収)

 静岡県の弁天島から国道1号を西へ。橋を渡ったところで新居の関所を見学。ここはかつての東海道の要衝の地。浜名湖の渡船場に置かれた関所だ。

 潮見坂を越えて愛知県に入ると、国道42号で渥美半島の南側、太平洋側を通って突端の伊良湖岬へ。国道42号はここから国道フェリーで志摩の鳥羽港に渡り、紀伊半島をぐるりとまわり、和歌山まで通じている。

 伊良湖岬では遊歩道を歩き、岬先端の灯台までいく。そこからは三重県の神島がはっきりと見える。その向こうには答志島、さらには志摩半島の青く連なる山々が見える。その中でも目立つのはきれいな三角形をした青峰山だ。

 伊良湖岬からは国道259号で渥美半島北側の三河湾側を走り、豊橋へ。まるで湖のように波静かな三河湾。豊橋から今度は三河湾の北側のルートを行く。国道23号を走り、蒲郡で国道247号に入っていく。吉良温泉では「丸十旅館」(入浴料800円)の湯に入り、吉良町の隣、一色町の一色港から三河湾に浮かぶ佐久島に渡った。

 船は高速船の「第2さちかぜ」。船着場の窓口では50㏄バイクも乗せられるということで、バイク代を含めて1350円を払った。だが17時50分発の最終便がやってくると、船長にバイクは積めないといわれ、ガックリ。スズキSMX50は港の待合室に置いていく。 

 佐久島では西港に寄って東港へ。東港近くの民宿「ゆきや」に泊まった。ここの夕食は海の幸三昧のすごいご馳走だ!

 佐久島は一島一村で佐久島村だったが、今では一色町の一部になっている。江戸時代、この島は三河湾の海運の中心になっていた。

 バイクがないので、東港周辺の集落内をプラプラ歩き、東港から来たときと同じ高速船の「第2さちかぜ」で一色港に戻った。

 一色港の待合室でSMX50を確認したときはほっとする。1晩、バイクと別々だったので、けっこう不安だった。

「ゴメンな」

 と、SMX50にひと言かけて走りだす。

 国道247号で半田へ。

 半田から知多半島を南下していく。三河湾は渥美半島と知多半島で囲まれた湾。渥美半島の先端が伊良湖岬で、知多半島の先端が羽豆岬になる。

 知多半島南端の師崎港に到着。港のすぐ後の羽豆岬に立つ。岬の台地上には羽豆神社。緑濃いウバメガシの樹林で覆われている。

 岬の展望台に立ち、三河湾と伊勢湾を一望した。

 これで伊良湖岬から羽豆岬まで、三河湾をぐるりとひとまわりしたことになる。

 師崎港発10時45分の名鉄フェリー「はまつばき」で三河湾の篠島に渡る。人は490円だが、バイクは1220円とけっこう高い。

 師崎港を離れると前方の右手に篠島、正面に日間賀島を見る。左手には佐久島が霞んで見える。後を振り向くと羽豆岬がまるで島のように見える。

 師崎港から15分で篠島に到着。魚港は漁船でびっしりと埋めつくされていた。

 篠島には島一周の道がないので、バイクで走れるところまで行ってみる。家々が密集する狭い道を走り、島の対岸に出ると、そこは弓なりの長い砂浜。浜全体が絶好の海水浴場になっている。砂浜の尽きた先は急坂で、ローギアで上り、山の中腹から集落を見下ろした。篠島を全部で13キロ走り、港に戻ると、魚市場近くの民宿を兼ねた食堂「丸万」で焼き魚定食(1500円)を食べ、師崎港に戻った。

 師崎港からさきほどと同じ名鉄フェリーの「はまつばき」で日間賀島に渡る。料金は篠島と同じで人が490円、バイクが1220円で合計1710円。日間賀島までの時間も篠島と同じ15分だった。

 日間賀島は篠島ともども南知多町に属しているが、もともとは一島で一村を成していた。篠島よりも全体に平らでのっぺりした島の形をしている。地形がゆるやかなので、島一周の道がある。それをぐるぐると、3周もした。1周が4キロぐらいなので、3周しても12キロでしかない。

 フェリーの着く港のほかに、師崎や蒲郡、河和からの高速船の着く東港と西港がある。東港周辺の東里、西港周辺の西里と、2つの集落がある。

 漁業と観光が島を支える2つの産業になっているが、周囲がわずかに6キロという小さな島に2000人以上もの人が住んでいる。1平方キロあたりの人口密度はなんと3000人を超える。この数字は日本の平均の10倍だ。

 入館料無料の「日間賀島資料館」を見学した。ここで目につくのは「タコの島」で有名な日間賀島を象徴するかのようなタコ漁に関しての展示だ。

 タコ漁で使われてきた何種類ものタコ壺も展示されている。タコ壺には大きく分けるとドロガメ、ドカン、オトシの3種がある。ドロガメは古くから使われていたが、ドカンは大正時代に、オトシは昭和になってから普及したものだという。

 日間賀島を最後に、三河湾に浮かぶ佐久島、篠島、日間賀島の「三河三島」に別れを告げ、師崎港に戻るのだった。