カソリの「宮本常一研究」(10)
「日本観光文化研究所」(第2回目)
(『ツーリングマップルマガジン』2008年Vol.2 所収)
「六大陸周遊」(1973年~74年)の旅から帰ったときは、カソリ、大きな壁にぶち当たった。
それまでの、命を張って世界を駆けめぐってきたことが無意味に思え、何とも虚しい気分に襲われた。20代の大半を費やしてやってきたことが、まるで一瞬の幻でも見たかのようにも思われた。あれは一体、何だったのか…。
「もっと、もっと世界を駆けめぐりたい!」
という焼けつくような気持ちは萎え、旅への憧れも消えようとしていた。
このときカソリ、27歳。我が旅人生、最大のピンチ。このピンチを救ってくれたのが日本であり、日本観光文化研究所(観文研)だった。
「よーし、今こそ、日本をまわろう!」
と心に決めたとき、うそのように気持ちがスーッと楽になった。
日本に目を向けたことによって、ぼくの体内にはまた新たな力が蘇ってきた。旅への意欲が湧き上がり、今度は無性に日本をまわりたくなったのだ。
世界から日本へ!
観文研にはより頻繁に出入りするようになり、所長の宮本常一先生のお話を聞く機会が多くなった。観文研のあった東京・秋葉原から新宿までの電車の中でも、何度となく先生のお話を聞かせてもらった。
そんなこともあって観文研を足場にして日本をまわろうという気持ちが次第に強くなり、当時、観文研を取り仕切っていた先生のご子息の宮本千晴に頼み込んだ。
「宮本先生と一緒に日本を歩かせて下さい!」
すると千晴さんは、
「なあ、カソリ、それだったら親父よりも神崎君と熊ちゃんがいい」
といって宮本先生の一番弟子といってもいい神崎宣武さん(現・旅の文化研究所所長)と熊ちゃんこと工藤員功さん(現・武蔵野美術大学民俗資料室)と一緒に日本を歩けるようにしてくれたのだ。
1975年2月21日、ぼくは工藤さんと一緒に広島に行った。
広島駅からバスで湯来温泉へ。ぼそぼそと雪の降る日だった。
湯来温泉の国民宿舎「湯来ロッジ」にひと晩泊まり、翌日は中国山地の山村、戸河内町(現・安芸太田町)の那須という集落に向かった。大雪で1メートルを超える雪が積もっていた。那須への交通は途絶え、我々は雪をかき分けて歩いた。途中で出会った那須の人たちはユキワ(カンジキ)をはき、手には杖を持っていた。
「よくもまあ、そんな格好でここまで登ってきたものだ」
地元のみなさんを驚かせたが、我々はかろうじて那須の集落にたどり着くことができた。ここではみなさんにあたたかく迎えられ、昼食を出してもらい、酒をふるまわれた。
「すごいなあ!」
感心してしまうのは工藤さんだった。つがれるままにかなりの量の酒を飲んでいるのだが、きちんと村人たちの話を聞いている。
那須はかつては木地師の村だった。木は主にトチを使い、椀や盆などを作っていた。漆は中国産を使っていたとのこと。栃のみならず、ブナでは高下駄の歯を作り、スギやヒノキでは板箕(いたみ)を作っていたことなど、次から次へとおもしろいように話を聞いていく。その間、工藤さんはほとんど口をはさむことなく、ただひたすらに聞いている。
「おー、これが宮本流なのか!」
ぼくは感動した。
宮本常一先生から工藤員功さんへと、確実に伝わっていった「聞き取り」の真髄を見た。
そのあと広島から岡山へと舞台を移し、神崎さんの故郷、吉備高原の美星町(現・井原市)を訪ねた。
神崎さんの実家は何百年もの歴史を持つ宇佐八幡系の神社。ゆるやかな峠上に社がある。そのため神社のある峠は「宮んタワ」と呼ばれていた。「宮の峠」の意味。このあたりでは「峠」を「タワ」といっている。
神崎さんには「岡山ではタワだけど、広島や山口あたりではタオになる。四国ではトとかトオといっている」という話を聞いた。
ぼくは「宮んタワ」を知って、峠への猛烈な興味が湧き上がってきた。
「宮んタワ」はまさに「峠越えのカソリ」の原点。神崎さんに案内されてまわった吉備高原の村落の風景はいまだに目に焼きついる。
工藤さんと歩いた中国山地、神崎さんと歩いた吉備高原は、ぼくにとってはまるで異国の世界だった。それだけに新鮮な目で見られ、自分の心の中に深くしみ込んでいった。
「日本はおもしろい!」
東京に戻ったとき、ぼくはこれから先、どのようにして日本をまわろうかと考えた。
観文研がらみでまわる日本とは別に、「バイクのカソリ」がバイクで日本をまわる方法を考えたのだ。
「何か、ポイントを持とう!」。
その結論が「温泉めぐり」と「峠越え」。
「温泉めぐり」では日本の全湯制覇を目指し、工藤さんと一緒に入った広島県の湯来温泉を第1湯目にした。
「峠越え」をはじめたのはその翌月のこと。
1975年3月28日に「奥武蔵の峠」で越えた国道299号の高麗峠(埼玉)を第1峠目とし、日本の全峠踏破を目指すようになったのだ。