賀曽利隆 STILL ON THE ROAD !

世界を駆けるバイクライダー・賀曽利隆(かそりたかし)。地球をくまなく走り続けるカソリの”旅の軌跡”をまとめていきます。

海道をゆく(18)「関東・東編」ガイド

(『ツーリングGO!GO!』2005年6月号 所収)

1、「旅立ち」の地

「関東・東編」の「東京→大洗」も出発点は日本橋。そこからはR14(千葉街道)で千葉に向かった。隅田川を渡ると両国。ここには大相撲の国技館と江戸東京博物館がある。その先の清澄通りを右折。芭蕉の「奥の細道・旅立ち」の地に寄っていく。

 清澄庭園のわきを通り、隅田川に流れ込む仙台堀川を海辺橋で渡った右側に「採茶(さいと)庵跡」。そこには旅立ちの姿の芭蕉像がある。芭蕉の『おくのほそ道』こそ、ぼくの旅の教科書。今までに何度、読んだことか。採茶庵近くの隅田川河畔には「江東区芭蕉記念館」(入館料100円 9時30分~17時 月曜休み)がある。

2、市川橋

 R14の江戸川にかかる橋。ここが東京・千葉の都県境で、旧国でいうと武蔵と下総(しもうさ)の「総武国境」になる。今回の「関東の海道を行く」では徹底的に国境にこだわったが、いままでに世界の国境を300余回も越えている「国境のカソリ」、日本でも旧国の国境にはものすごくこだわっている。国境がわかると「日本もおもしろく走れるようになるよ」とみなさんに断言しておこう。

 ところで下総だが、総(ふさ)の国が上総(かずさ)と下総の2国に分かれた。武蔵と下総の境は江戸川なのでじつにわかりやすい。市川橋を渡ると市川市で、そこが昔の下総の中心。R14からわずかに北に行ったところに京成電鉄の「国府台(こうのだい)駅」があるが、国府台が下総の国府(今でいえば県庁所在地)だった。

3、富津岬

 東京湾に突き出た下州(したず)と呼ばれる長さ5キロほどの砂州。その突端に展望台。積み木細工のようなユニークな形の展望台だ。そこからの眺めがすばらしい。自分が今、走ってきた道が砂州の中に一直線に延び、目を左に移すと、新日鉄の君津製鉄所が威容を誇っている。前面の海は浦賀水道。対岸は観音崎だ。その間の距離はわずか7キロ。

 ここは要衝の地。幕末には砲台、明治以降は東京湾防衛の海堡(かいほ)が築かれ、要塞地帯として一般人の出入りは厳禁だった。富津岬にはそんな歴史も秘められている。

 房総半島の「岬めぐり」はここからはじまる!

4、明鐘(みょうがね)岬

 R127は東京湾フェリーの出る金谷港を過ぎたところで明鐘岬をトンネルで通過。その先の海岸にバイクを止めて、岬を振り返る。この明鐘岬が「房総国境」の岬だ。我々はあまり意味を考えないで「房総」とか「房総半島」を使っているが、北の上総と南の安房を合わせたエリアが「房総」になる。房総国境は鋸山から清澄山につづく房総丘陵の稜線。この房総境を越えて安房に入ると、日の光が強くなり、山々の緑はより濃くなり、潮の香がプンプン漂ってくる。安房は「黒潮文化圏」の国だ。

5、大房(たいぶさ)岬

 館山湾の北側の岬。「だいぶさ」とか「だいぼう」などとも呼ばれる。。R127の富浦から入っていく。岬全体が大房(おおぶさ)公園。駐車場(無料)にバイクを止め、遊歩道で岬を一周。岬一周は30分ほど。展望台からは三浦半島を目の前に見る。その向こうには富士山。ここにはキャンプ場もある。

6、洲(すの)崎

 房総半島南西端の岬。東京湾岸の「内房」と太平洋岸の「外房」はここで分かれる。岬はこのように大きな境目になる。灯台からは三浦半島や伊豆半島、伊豆大島、富士山を眺める。とくに伊豆大島が大きく見える。灯台入口の「森田屋商店」では店のオバチャンの話を聞きながら、自家製の「ところてん」(250円)を食べた。岬周辺では「ところてん」の原料となるテングサが豊富に採れるという。

 岬近くの洲崎神社は安房の一の宮。急な石段を登って参拝(無料)。境内の御手洗山は斧のまったく入らない自然林だ。山の下半分のシイや上半分のヒメユズリハなどを中心とした樹林がテカテカと光り輝く濃い緑をつくり出している。この御手洗山は千葉県でも一番といっていい自然林の山。洲崎から海沿いの房総フラワーラインを走り、R410にぶつかったところにある安房神社も安房の一の宮になる。

7、野島崎

 洲崎から野島崎までのシーサイドランは楽しめる。切る風に黒潮の香りをかぎながらが走る気分は最高だ。房総半島最南端の野島崎は地名通りで、もともとは「野島」という島だった。それが元禄大地震(1703年)で陸地につながった。さらに関東大震災で隆起し、岬周辺の岩礁地帯が生まれた。

 野島崎に着くと、漁港の岸壁に立って漁船を眺め、岬の神社、厳島神社に参拝。見事な男根と貝の女陰が奉納されている。そして灯台へ。漁港と神社、灯台は岬の3点セットのようなもの。「野島埼灯台」には登れる(150円 8時50分~16時)。

 上から白浜町の外房海岸を一望。岩礁の海岸線は「白浜」というよりも「黒浜」だ。それでも「白浜」なのは、この地が紀州の白浜と黒潮で結びついているからなのだ。南紀白浜の漁民が黒潮に乗って移住し、進んだ紀州の漁法を房州にもたらした。黒潮でつながっている紀州と房州は近い。まさに「黒潮文化圏」。

8、仁右衛門島

 R128の太海にある仁右衛門島は「東京→大洗」間で唯一、渡れる島。太海港から手漕ぎの舟(1050円)で渡った。島まではわずか5分。仁右衛門島は太海港の目の前の島。島内の遊歩道を歩いて島を一周。ここは平野仁右衛門氏所有の島で、島内には源頼朝伝説の地などが残されている。仁右衛門島から太海港に戻ると、太海温泉「こはら荘」(入浴料300円)の湯に入った。うす茶色の湯。なかなかの泉質で肌がツルツルしてくる

9、小湊

 日蓮誕生の地で、ここには日蓮宗の大寺、誕生寺がある。小湊はまたタイの生息地でタイ見物ができる鯛ノ浦で知られている。今回、行ってみて感じたのは「おー、寂れたなあ…」ということ。以前はもっと観光客であふれていたのに…。門前の店も閉めているところが多かった。

 JR内房線の五井駅から出る小湊鉄道という鉄道がある。終点は上総中野駅だが、ほんとうは「小湊鉄道」の名前通り、房総国境の山並みを越えて小湊まで延ばす計画だった。今は超ローカル線の小湊鉄道。それが小湊まで延びることはまずないが、かつての小湊はそれほど人を集めるところだった。

10、鵜原

 興津と勝浦の間で、R128を走っていても気がつかないまま、通り過ぎてしまうようなところ。鵜原海岸は穴場的存在。ここはカソリの「旅人生の原点」なのだ。断崖が海に落ちる「鵜原理想郷」には毛戸岬、明神岬、白鳳岬の3岬。ともに「絶景岬」。高さ24m(そのうち海中部は8m)の「勝浦海中展望塔」(観覧料930円 9時~17時)も鵜原にある。海中展望室からはこの周辺に生息するアジやメジナ、イシダイなど多種類の魚を間近に見られる。

11、勝浦

「勝浦」の地名も四国、南紀にあるが、漁民の先祖は四国から渡ってきたといい伝えられている。ここも「黒潮文化圏」の地だ。漁港としての歴史は古く、外房でも屈指の水揚高を誇っている。勝浦といえば朝市。400年以上の歴史を持つ勝浦の朝市は「日本三大朝市」のひとつに数えられている。

12、八幡岬

 勝浦湾の東側に突き出た岬。この岬のおかげで勝浦港は天然の良港になっている。岬の展望台には徳川家康の側室「お万の方」の銅像が建っている。要害の地の八幡岬は勝浦城跡。お万の方はこの城の姫だった。落城の際、お万は断崖に布をたらし、海上に逃れたといわれているので、八幡神社下のその断崖は今でも「お万布さらし」といわれている。

 お万の方といえば、徳川御三家のうち、紀州家の藩祖(頼宣)と水戸家の藩祖(頼房)を生んだ女性。「お万の方」を通して外房の勝浦と名古屋、水戸がつながっているのが歴史のおもしろさ。またもし、お万が落城とともに命を落としていたら、今の名古屋や水戸はまったく違う顔をしているかもしれない。歴史で「もし」を考えるのはなんとも楽しいことだ。

13、御宿

 R128からわずかに入った御宿の砂浜にはラクダに乗った王子さまとお姫さまの「月の沙漠」像が建っている。ぼくは世界中の砂漠をバイクで走ってきたが、砂漠に突入すると、まるで条件反射のように「月の沙漠をはるばると旅の駱駝がゆきました 金と銀との鞍置いて二つならんでゆきました…」の歌を口ずさんでしまう。「ほんとうの砂漠はこんな甘いもんじゃないゼ」といいながら。この歌詞は青年詩人の加藤まさをによって1923年、御宿の地でつくられた。ここには「月の沙漠記念館」(9時~16時30分 水曜休み)があり、加藤まさをの人となりがわかる。しかし、沙漠に関する資料は何もない。

14、太東(たいとう)崎

 岬の展望台に立つと、九十九里浜の湾曲した長い海岸線を一望する。さらに刑部岬から「日本のドーバー」の異名をとる屏風ヶ浦から犬吠崎まで見える。「ウオーッ!」と思わず声が出る大展望。これほど長い海岸線の見えるところはそうはない。富津岬から太東崎までが「房総」だ。

15、九十九里浜

 太東崎から刑部岬までつづく長い砂浜。その距離は約60キロ。有料の九十九里道路を突っ走ったが、太平洋を眺めながら走る気分は爽快。ほぼ中間点の片貝からは一番、海に近い県道30号を走ったが、太平洋はまったく見えない。片貝のある九十九里町あたりを境に、九十九里浜の南の海岸地帯には栗生納屋とか西野納屋といった「納屋」のつく地名が多いが、北側の海岸地帯になると、西浜や長谷浜のような「浜」のつく地名が多くなる。

16、刑部岬

 岬には展望塔(無料)。真下に飯岡の漁港を見下ろし、その向こうには太東崎へと延びる九十九里浜を一望する。刑部岬から東に延びる海岸線が高さ4、50mの断崖の屏風ヶ浦。「日本のドーバー」といわれているが、ドーバーのホワイトクリフ(白い崖)とほんとうによく似ている。ぼくはフランスのカレーからイギリスのドーバーに何度かフェリーで渡ったが、ドーバー海峡越しに「ホワイトクリフ」を見ると、「イギリスだ」と実感する。

17、犬吠崎

 岬の灯台前には「犬吠埼ロカ岬友好記念碑」が建っている。それには「海終わり 陸始まる」と書かれている。ロカ岬はユーラシア大陸最西端のポルトガルの岬。そこには有名なポルトガルの詩人カモンエスの「ここに地尽き 海始まる」の言葉が記されている。それに対してのものなのだろう。

 それはともかくとして、犬吠崎のこの碑を見ると、2002年にロシアのウラジオストックを出発点にしてユーラシア大陸を横断し、ゴールのロカ岬に到着したときの感動が熱くよみがえってくるのだ。

18、銚子

 利根川河口の銚子漁港は日本屈指の大漁港。河口の川口町には「千人塚」がある。慶長19年(1614年)10月25日の大津波で銚子沖に出漁中の漁船が多数、遭難し、なんと1000人以上の死者が出たという。そのほかにも「海難漁民慰霊塔」や遭難者の墓があるが、利根川河口のこの地は海の難所。太平洋から銚子港に船を入れるのはそう簡単なことではなかった。銚子大橋で利根川を渡りながら、銚子のそんな歴史にも思いを馳せた。

19、鹿島神宮

 銚子からR124を行き、R51にぶつかったところが鹿島神宮。ここは常陸の一の宮。鹿島神宮のすごさはその境内林だ。関東第一といっていい原生林がここにある。奥多摩でも奥秩父でも奥日光でもない、鹿島臨海工業地帯を間近にする鹿島にそんなすごい自然が残されているのだ。

 本殿から奥宮への参道の両側には杉の大木が林立している。奥宮の裏手は「昼なお暗い密林」といった世界。鹿島神宮からR51を走るとよくわかるが、そんな原生林が延々とワールドカップの会場にもなったカシマスタジアムあたりまでつづいている。

「一の宮めぐり」のおもしろさは日本の旧国がよくわかるだけでなく、日本のもともとの姿とでもいおうか、手つかずの自然を見ることのできる場所なのだ。たとえば山城の一の宮、下鴨神社の境内林、糺(ただす)の森は関西圏では一番の自然林だし、能登の一の宮、気多大社の境内林も北陸圏では一番の自然林。言葉をかえれば、日本人はそれだけ日本の自然をズタズタにしてしまったということだ。