カソリの林道紀行(16)中部編(その7)
(『バックオフ』1997年6月号 所収)
5月7日、午前8時。中央道の談合坂SA。
タタタタッと、レイドのエンジン音を響かせて、風間深志さんがやってきた。
「やーやー、カザマさーん、なつかしいヨー!」
「カソリさん、何年ぶりの再会だろうネ」
と、会った瞬間から、お互いに超ハイな気分なのだ。
じつは、つい1ヵ月前にも会っているのだが…。
カソリ&カザマのコンビは昔からこのノリなのである。
「さー、行こうゼ!」
中央道を西へ。
我々は20年前に一緒に走ったルートを、今回、そっくりそのまま走ろうというのだ。
カソリ&カザマの最強コンビの復活だ!
すべては20年前のあの日にはじまった!
カソリのバイクは、「オーストラリア2周7万2000キロ」のうち,第2周目を走った“豪州の熱風号”のスズキDJEBEL250XC、カザマさんのバイクはフロントをダウンフェンダーにしたヤマハTT250レイドである。
天気は上々。初夏の気持ちよい風に吹かれて走る。さすが“ハレ男”のカソリ&カザマ、日本各地が嵐のような天気だというのに、甲州のこの地だけは、絶好のツーリング日和なのだ。
右手に大菩薩の山々、正面に金峰山を中心とする奥秩父連峰の山々、左手には3000メートル級の白根三山を中心とする残雪の南アルプスを眺めながら走る。
後方には、御坂山地の山越しに富士山が見える。
これぞ風間深志の世界。この風景こそ風間深志の原風景なのである。
胸がジーンとしてくる。
20年前の、カソリ&カザマの“オレたちの原点ツーリング”が、まるでつい昨日のことのように、はっきりと蘇ってくる。
ぼくは1975年3月に、バイクでの峠越えをはじめた。それを『オートバイ』誌で連載させてもらったが、そのころの風間さんはといえば、モーターマガジン社に入社してまもないころ。『オートバイ』誌のバリバリの若手編集部員だった。
ある日、風間さんに、
「ねえ、カソリさんって、どんなふうに“峠越え”をしているの?」
と聞かれ、峠越えの番外篇ということで同行取材された。
1975年の初冬のことで、それがカソリ&カザマの“オレたちの原点ツーリング”。 賀曽利隆28歳、風間深志25歳のときのことだった。
ぼくがスズキ・ハスラーTS250に乗り、風間さんがヤマハDT400に乗って、風間さんの故郷の甲州を走った。焼山峠を越え、大弛峠を越え、増富温泉でひと晩、泊まった。
増富温泉では、湯上りのビールを飲みながら、話のボルテージをどんどんと上げていった。カソリ&カザマコンビというのは、波長が合うのだ。
「オレはね、日本中の林道を全部、走破したいんだ。自分の走ったコースを地図上に赤く塗ってね。日本地図をまっ赤にしてやるんだ」
と、カザマ。
「ぼくはね、日本中の峠を全部、越えてやるんだ。何年かかっても、絶対にやってやる!」
と、カソリ。
「でもさ、カソリさん、日本なんて、小っちゃいよ。どうせやるなら、世界で一番高いところにバイクで登ろう。オレたち男なんだから」
「カザマさん、エベレストは無理だ。アフリカのキリマンジャロならできるかもしれないな」
「いいじゃん、ね、カソリさん、キリマンジャロにバイクで登ろう!」
結局その増富温泉での“大ホラ話”がきっかけになり、1980年、ぼくたちはバイクでキリマンジャロに挑戦した。
82年には「パリ・ダカ」に参戦した。
さらに風間さんはネパール側とチベット側の両方向からバイクでエベレストに挑戦した。
さらにそのあと、北極点と南極点の両極点をバイクで極めたのだ。
それらのすべてはあの日にはじまった。
行くぞ、甲州の峠越え
カソリ&カザマの最強コンビがまず最初に行ったのは、塩山の恵林寺だ。ここは武田信玄の菩提寺。甲州人の胸のなかには、今だに信玄が生きつづけ、必ず“信玄公”と“公”をつけて敬っているほど。もちろん、風間さんもそうだ。
1982年の「パリ・ダカ」出発前のパリでは、カソリ&カザマ、おおいに“甲州談義”で盛り上がった。
我々のマシンは40リッタータンクを搭載したスズキDR500だったが、
「ねー、カザマさん、タンクに“甲州魂”って、入れようよ」とか、
「風林火山の軍旗をなびかせよう」とか、
そんな話も飛び出した。
あの、出発前のパリの焼き鳥屋がなつかしい。
牧丘から最奥の塩平の集落を通って焼山峠を越えた。
20年前は大石ゴロゴロの難路。この焼山林道が舗装された1980年代前半ごろから、急速に甲州のみならず、日本中の“林道舗装化時代”がはじまった。
焼山峠を越えた柳平の牧場では、しぼりたてのフレッシュミルクを飲む。
20年前も、同じように飲んだ。
「カソリさん、牛のミルクもいいけど、人間のミルクの方がもっといいんだよ」
といった風間さんの言葉を思い出す。
当時のカソリ&カザマ、冗談ばかり言い合っていた。
ここから大弛峠越えの牧丘川上林道に入っていく。
あっと驚くのは、山梨側の舗装がどんどん進んでいること。わずか5キロのダートを走ると、ふたたび舗装路になり、なんと舗装路のまま、標高2360メートルの大弛峠に着いてしまった。
山梨県側が全線舗装化されるのは、もう、時間の問題だ…。
日本に何本もある“峰越林道”のうち、この牧丘川上林道こそ横綱格で、峰越林道の代名詞になっていたほど。
20年前は、ここを走ったというだけで、けっこう自慢できた。
それが、全線舗装だなんて‥‥。
おいかんべんしてくれよーといった気分。
これが20年という歳月の流れなのだ。
大弛峠を越え信州に入る。そのとたんに、ズボーッともぐる深い残雪になる。季節はもう初夏。まさか、ここまで雪が残っているとは‥‥。
「さー、カザマさん、気合を入れていくゼ。チャレンジ!」
「そうだよ、カソリさん、チャレンジなくして、人生なし」
「カザマさん、いいこと、いうねー」
大弛峠から、わずか1キロの下りになんと2時間もかかった。
残雪との大格闘。風間深志、“北極点&南極点パワー”をフルに発揮し、両足で雪を蹴りながらすこしづつ、下っていく。
「カソリさん、おぼえている? このコーナーだよ。カソリさんが転倒してツーッと滑ったのは」
20年前に我々が大弛峠を越えたのは初冬のことで、峠道には新雪が積もっていた。大きく右に曲がるコーナーでまったくリアのグリップをなくし、転倒し、そのまま滑ってしまった。
「カザマさん、よくおぼえているね」
あのころは『バックオフ』も『ガルル』もない時代。林道ツーリングという言葉もないころだった。そんな時代にオフロードを求めて走ったカソリ&カザマ、お互いに夢中だった。それだけに、20年も前のことが、まるで昨日のことのように思い出せるのだ。
残雪地帯を突破したところで、柳平で買ったアンパンを缶紅茶を飲みながら食べる。1個88円のアンパンのうまさといったらなかった。
20年前と同じ光景。あー増富温泉の夜…
長野県川上村の原から、高原野菜畑の中を一直線に貫く道を走り、信州峠を越える。
20年前にはダートだった峠道も当然のことのように舗装路になっていた。
ところが20年前にはあった、“信州峠”の立派な木の看板は、今はあとかたもない。
「信州人の峠に対する意識が薄れてしまったのかなあ」
といった風間さんの言葉に実感がこもっていた。
信州峠を越えて再び山梨県に入り、峠道を下り、“オレたちの原点ツーリング”のさらに原点の増富温泉へ。
古湯「金泉湯」に泊まる。日本有数のラジウム泉に入り、夕食。そしてビールを酌み交わす。いいねー!最高だね!!
増富温泉では、さすがに今回は、
「バイクでキリマンジャロに登ろう」
という話にはならなかったが、そのかわりに、なんとも味のある話をかわすことができた。それというのも我々が積み重ねてきた20年という年月のなせる技なのだ。
翌日は増富温泉を出発すると、標高1520メートルの高地にある「瑞牆山荘」でモーニングコーヒーを飲みながらカソリ&カザマ、話に花を咲かせた。
話題にことかかない2人だった。
「瑞牆山荘」は日本100名山のうち、金峰山、瑞牆山という2峰の登山口になっている。登山者にはよく知られた山荘で、ご主人の八巻久さんは自然に対する造詣の深い方。今度はここに泊まってゆっくりとお話を聞かせてもらいたいものだと思ったほど。これが旅のよさ。行く先々でいい人に出会える。
舗装林道の釜瀬林道で木賊峠を越え、黒平からこれまた舗装林道の荒川林道で乙女高原に登る。その途中で眺めるそそりたつ岩峰群はすごい風景だ。
水ヶ森林道に入る。ダート15キロ。やっとだゼーという感じで、ダートを走ることができた。
甲州の林道の舗装化のピッチは早く、次々とダートコースが消えていくが、この稜線上を走る水ヶ森林道ぐらい、「ダートのままで残しておいてくださいよ」と、山梨県の関係各位にいいたい。
水ヶ森林道の終点は太良ヶ峠。峠からは甲府の町を一望し、足元に武田信玄の館跡の武田神社を見下ろした。
標高1152メートルの太良ヶ峠は、甲府市と山梨市の境。この峠を山梨市側に下っていったところが、風間深志の故郷なのだ。“甲州魂・風間深志”のまさに原点の地。そこを風間さんに案内してもらおうという趣向なのだ。
まずは山梨市の玄関口、JR中央本線の山梨市駅に行く。旧日下部駅だ。昔も今も、駅舎はそれほど変わっていない。
駅近くの店「KADOYA」のご主人、代永茂徳さんは風間さんの昔からの友人。突然の訪問だったが、いろいろと話を聞かせてもらった。ここが「地球元気村」の山梨事務局なのだ。
代永さんに別れを告げ、最近完成した「笛吹川フルーツ公園」に行き、洒落たレストランで、甲府盆地東部の峡東地方を見下ろしながら食事した。
その名の通り、松林に囲まれた自然度満点のキャンプ場で、最高に見晴らしがいい。風間さんが卒業した八幡小学校、八幡中学校が見える。山裾の塩山の町並みもよく見える。「パインウッド・キャンプ場」からの風景を眺めていると、風間さんが恵まれた自然の中で育ったことがよくわかる。それだけに、よけい風間さんには甲州人の血が濃く流れているのだと実感するのだった。
風間深志の故郷をひととおりまわったところで、最後に風間さんの実家に行く。家の玄関口には「北極大明神」がまつられている。
風間さんのご両親は健在で、お父さんは88歳とはとても思えないほどの元気さだ。
「北極大明神」でもわかるように、北極点挑戦のときには、ご両親をはじめとする家族のみなさんは毎日、風間さんの無事を祈った。お父さんには以前、色紙をいただいたことがあるがすばらしい字を書かれる方だ。
風間家では、すっかりご馳走になった。
まだ5月だというのに、ハウス栽培のとれたてのブドウをいただいた。近くの山でとれたタラの芽のテンプラがおいしかった。餅も焼いてくれたが餅には目のないカソリ、何個も食べた。
風間さんの家の前は、野背坂峠に通じる道。日下部と牧丘を結ぶ古い峠道で、昔はよく炭俵を積んだ馬が通ったという。ぼくはこの野背坂峠を“風魔峠”と自分勝手に呼んでいるのだが、カソリ&カザマの“オレたちの原点ツーリング”の最後は、この野背坂峠越えだ。
風間家のみなさんの見送りを受け、出発。
何年か前にも“風魔峠”を越えたことがあるが、そのときは峠道は夏草に覆われ、えらい苦労をした。
それが今回は舗装路に変わり、なんなく峠まで走ることができた。薄暗くなった峠で2台のバイクを止め、カソリ&カザマ、がっちり握手をかわすのだった。