賀曽利隆 STILL ON THE ROAD !

世界を駆けるバイクライダー・賀曽利隆(かそりたかし)。地球をくまなく走り続けるカソリの”旅の軌跡”をまとめていきます。

カソリの島旅(16)網地島(宮城)

 (『ジパングツーリング』2001年9月号 所収)

 

 田代島の仁斗田港から、9時35分発の高速船「ブルーライナー」(網地島ライン)で網地島に渡った。島の北、網地浜港までは15分。

 船賃は人が330円。スズキSMX50が920円。

 港周辺はすばらしくきれいなマリンブルーの海。白砂のビーチが延びている。夏の海水浴シーズンになると、大勢の海水浴客でビーチは埋め尽くされるという。

 そんな網地島のビーチには、なんと「ベーリング海峡」のベーリング像が建っていた。 元文4年(1793年)5月21日、網地島の海に突如、3隻の黒船がやってきた。

 この艦隊はマルティン・スパンベア率いるロシアの「第2次北太平洋探検隊」のもの。探検隊はアジアとアメリカが海峡で分かれていることを発見した。「ベーリング海峡」の名を残したベーリングが、ヨーロッパから日本への北方交通路を開くために送り出したものだった(なおベーリングもスパンベアも、ともにデンマーク人)。

 一行は広大なロシア大陸をソリや小舟などを使って横断し、カムチャッカに至り、そこから艦隊で網地島の沖合までやってきた。

 探検隊は緯度・経度や水深などを測定し、10日あまりをこの地で過ごした。

 その間、網地島の島民との間で、史上初の日露交流がおこなわれた。網地島の島民たちは黒船に乗り込み、水や野菜をあげ、彼らからはパンやワインをもらったという。

 ベーリング海の島で氷に閉ざされてその生涯を終えたベーリングだが、彼の死後250年の1991年7月6日、探検隊ゆかりの網地島にベーリング像が建立されたのだ。

 銅像のベーリングと握手をかわし、網地島を縦断。

 北の網地島港から南の長渡港へ。その間、5キロ。“長渡”で“ふたわたし”と読む。島の難解地名ベスト10に入るようなところだ。

 長渡港から網地島ラインの「ブルーライナー」で石巻港に戻った。