賀曽利隆 STILL ON THE ROAD !

世界を駆けるバイクライダー・賀曽利隆(かそりたかし)。地球をくまなく走り続けるカソリの”旅の軌跡”をまとめていきます。

カソリの島旅(8)神津島

(『ジパングツーリング』2001年7月号 所収)

神津島

 式根島の民宿「鈴豊」で朝食を食べる。夕食にはメジナの刺し身と煮魚が出たが、朝食にはカワハギの仲間のウスバハギの焼き魚が出た。魚が大好きのカソリなので、朝からうまい魚を食べられてご機嫌だ。これが島の民宿のよさというもの。

 8時40分発の東海汽船の「さるびあ丸」で式根島から終点の神津島に渡る。神津島到着は9時20分。「さるびあ丸」は多幸湾・三浦港の桟橋に接岸する。目の前には神津島の最高峰、天上山(574m)がそびえている。

 多幸湾の海の青さと砂浜の白さのコントラストがなんとも強烈だ。

 神津島の幹線道路「神津本道」で唯一の集落に向かっていく。ここに神津島村役場があり、店々があり、島民の大半が住んでいる。人口2400人の神津島なので、かなり大きな集落になるのだが、ここにはとくに名前がついていない。島のパンフレットを見ても「村落」とあるだけだ。

「村落」に着くと、ガソリンスタンドで給油。伊豆大島ではリッター131円、新島ではリッター165円だったが、神津島になると172円だ。島外から入ってくるモノの値段がピーンと跳ね上がるのが島の宿命‥‥。

 島の最高峰の天上山に登った。登山口にバイクを停め、そこから頂上を目指して直登する。あっというまに大汗をかく。樹林地帯を抜け出ると、岩肌がむきだしになった荒涼とした風景。猛烈な風が吹き荒れ、体ごと飛ばされそうになる。

 山頂に立つと、真下には「村落」を見下ろし、反対側に目を移すと、三宅島と御蔵島を眺める。三宅島からは白色の噴煙が上がっている。天上山は火山で、火口内は「表砂漠」、「裏砂漠」と呼ばれる砂漠の風景だ。

 神津島でひとつ驚いたのは、この島が昔からの黒曜石の産地だったことだ。黒曜石というのはガラス質の火山岩で先史時代には切れ味の鋭い石器として使われていた。九州の阿蘇山や信州の和田峠、北海道の十勝岳が黒曜石の産地として知られ、九州産や信州産、北海道産の黒曜石は広範囲に交易されていた。ところがこの神津島産も同様に広範囲に渡って交易されていたのだ。

 神津島産は伊豆諸島のみならず、関東を中心とした本土(内地)にも出回っていたという。おー、歴史のロマン。縄文の時代にも船を自由自在にあやつって黒曜石を売りさばく商人がいたとのだろうか。

 天上山を下ると、そんな黒曜石を使った工房を見学させてもらった。ぼくは初めて原石を見たが、表面は薄茶色、中はきれいな黒色だ。「村落」に戻ると「郷土資料館」(入館料300円)を見学。

 最後に神津島温泉の湯に入った。村営「神津島温泉保養センター」は休業中だったので、そのかわりに、神津島漁港を目の前にする「山下旅館」(入浴料400円)の湯に入った。塩分の強い湯。窓をあけると、ちょうど夕日が港の向こうに落ちていくところだった。さっぱりした気分で、今晩の宿となる民宿の「あさえ」に泊まった。

 翌朝は「村落」内をまわった。「流人墓地」には、オタア・ジュリアの墓がある。朝鮮貴族の娘だったジュリアはキリシタン大名の小西行長の養女になり、後に徳川家康に仕えた。ところが、慶長12年(1612年)の「キリシタン禁止令」に触れ、神津島に流された。そのジュリアを偲んで毎年「ジュリア祭」がおこなわれている。

 次に神津島を開いたといわれる物忌奈命をまつった物忌奈命神社に参拝。境内はタブやシイなどの照葉樹で覆われている。

 それを最後に、東海汽船の東京行き「さるびあ丸」にコンテナに積まれたスズキSMX50とともに乗り込んだ。