賀曽利隆 STILL ON THE ROAD !

世界を駆けるバイクライダー・賀曽利隆(かそりたかし)。地球をくまなく走り続けるカソリの”旅の軌跡”をまとめていきます。

「東アジア走破行」(3)韓国一周(2000年)

一路、下関へ

「サハリン縦断」を終え、東京に戻ると、今度は「韓国一周」に出発した。

 バイクでの「韓国一周」は、ぼくの長年の夢。これほど近い日本と韓国だが、韓国へのバイクの持ち込みは禁止されていたので、それは夢のまた夢でしかなかった。ところが今回、韓国側から特例中の特例ということで、韓国へのバイク持ち込みの許可をもらうことができたのだ。

 2000年9月1日、東京を出発。バイクは「サハリン縦断」を走ったのと同じスズキDJEBEL250GPSバージョン。東京から一路、下関へ。往路は国道1号、2号をメインに平洋・瀬戸内海側を走っていく。

 第1日目の夕食は浜松の旧国道1号沿いの焼肉店「てんぐ」でカルビの焼肉と雑炊のクッパを食べた。第2日目の昼食は大阪のコリアンタウンの鶴橋。JR鶴橋駅前の「アジヨシ別館」で冷麺を食べた。

 第2日目の夕食は岡山県備前市の国道2号沿いの焼肉店「はるやま」で牛のロースの焼肉とユッケ・ビビンバを食べた。前日のカルビ、クッパ同様、このビビンバも、ラーメンやカレー、ピラフなどと同じように、今ではすっかり日本食として定着した感がある。ビビンバは韓国語のビビンバップのこと。“ビビン”は混ぜるの意味で、“バップ”はご飯。つまりは混ぜご飯のことだ。

「はるやま」のビビンバには新鮮な牛肉のたたきのユッケのほかに、ゼンマイ、モヤシ、ダイコン、ホウレンソウの具がのっている。それに卵を落としてある。調味料として辛いコチュジャンがつく。店のおかみさんは「ビビンバにはゼンマイとモヤシは欠かせないものなの。韓国の人はゼンマイをよく食べるのよね」と教えてくれた。

 ぼくの旅の仕方は、現地食主義。現地のものをできるだけ現地の人たちと同じようにして食べる、これがなによりもの旅のおもしろさだと思っている。ということで、「東京→下関」間では日本風韓国料理を食べ歩いたが、これが「韓国一周」での本場韓国料理食べ歩きのちょうどいい肩慣らしになった。

釜山に上陸

 9月3日12時、本州最西端の下関に到着。下関の町をひとまわりしたところで、関釜フェリーの出る国際ターミナルに行く。前年の「日本一周」がなつかしく思い出されてくる。この下関港国際ターミナル前でバイクを停め、「いつの日か、きっとバイクでここから釜山に渡ってやる!」と熱い気持ちでそう思ったものだ。まさか、その日がこんなにも早くやってくるとは‥‥。

 下関港国際ターミナルでは関釜フェリーの職員が出国手続きを終え、大型フェリーの「はまゆう」(1万6187トン)にバイクを積み込むまで付き添ってくれた。18時、定刻どおりに「はまゆう」が下関港を出港すると、離れゆく下関の町並みに向かって缶ビールで乾杯!

 関釜フェリーの「はまゆう」は玄界灘を越え、夜中には釜山港外の五六島のすぐわきで停まった。まばゆいばかりの釜山の町明かり。夜が明け、入国手続きが始まるまでの時間、こうして釜山港外で停泊しなくてはならないのだ。

 8時半、「はまゆう」は釜山港の国際フェリー埠頭に接岸。いよいよバイクの韓国持ち込みの手続きが始まる。フェリーからバイクを下ろすと、そのまま税関のカウンターに乗り入れる。釜山税関の係官たちは、旅行者のバイク持ち込みなど初めてのことなので、ずいぶんと面食らったような顔つきだ。税関本部にも足を運び、ついにバイクを引き取ることができたときは、自分が何か、新たな時代を切り開いたかのような高揚した気分を味わった。

釜山のワンデーツーリング

 釜山港を出ると、1日かけて釜山をまわった。まずは亀峰山中腹にある大庁公園に行った。釜山の市街地、釜山港、釜山をとりまく山並みを一望する。ソウルに次ぐ人口400万の大都市、釜山が手にとるようによくわかった。

 次に釜山大橋で影島に渡る。その南端が太宗台。市街地がすぐそばにあるとは思えないほど、自然の豊かなところだ。太宗台突端の切り立った断崖上に立ち、水平線上に目をこらした。強風が吹き荒れ、海には白い波頭が立っていた。残念ながら対馬は見えなかったが、ここから対馬までは50キロもない。ぼくは反対に対馬北端の「韓国展望台」から韓国を見たことがあるが、釜山の夜景がすごかった。水平線はまるで燃えているかのような明るさだった。

 この太宗台突端の岬には展望台があり、白亜の灯台が立っている。ところが韓国でも有数の風光明媚な岬なのにもかかわらず、岬名がついていない。地図を見ても、「太宗台展望台」とあるだけ。入り組んだ海岸線の続く韓国なので、地形としての岬は無数にあるが、岬名のついた岬はない。韓国は岬のない国なのだ。

 釜山港に戻ると、今度は釜山の西側を流れる洛東江の河畔まで行った。全長525キロの洛東江は韓国最長の川。川沿いに走り、河口の多大浦まで行った。いかにも大陸の川といった広大な河口の風景を眺め、干上がった浜を歩いた。そのあと浜辺の食堂で昼食。「海物湯」を食べる。メバルの入った鍋料理で、猛烈に辛い。しかしその刺激的な辛さが韓国を実感させた。そのほかにメバルの刺し身とキムチ、ワラビ、ニンニクがついた。それらをご飯に混ぜて食べる。刺し身入りのビビンバだ。

 午後は釜山の中心街の南浦洞や光復路を歩き、釜山漁港にあるチャガルチ市場を歩いた。そこではタコやイカ、ホヤの刺し身を食べた。

 最後に韓国でも最古の歴史を誇る東莱温泉に行った。ここでは「虚心庁」という近代的な建物の健康ランド風の温泉に入った。千人風呂の大浴場を中心に檜風呂や寝湯、打たせ湯、露天風呂、サウナなど20以上もの湯がある温泉センターだ。ここでは日本の温泉との違いを強烈に見せつけらる。誰もがタオルを浴室に持っていかない。堂々とイチモツをプランプランさせながら浴室内を闊歩している。

 湯に満足したあとは温泉内のレストランで夕食。カルビと豚カルビの焼肉を食べ、さらに冷麺を食べ、チャガルチ市場前の「三和観光ホテル」に泊まった。

「釜山→木浦」(南部編)

 9月5日午前6時、釜山を出発。時計回りでの「韓国一周」の始まりだ。方形をしている韓国なので、それぞれの辺ごとの、4ステージに分けての「韓国一周」。第1ステージは「釜山→木浦」の南部編、第2ステージは「木浦→ソウル」の西部編、第3ステージは「ソウル→巨津」の北部編、最後の第4ステージが「巨津→釜山」の東部編。その間で、韓国本土の最東西南北端に立とうと思っている。

 早朝の釜山の市街地を抜け出し、洛東江(韓国では“江”が川になる)の河口堰にかかる橋を渡って西へ、国道2号を行く。この国道2号の終点が木浦だ。韓国は高速道路が発達しているが、バイクは通行不可なので、国道をメインにしての「韓国一周」となる。簡単にいうと、偶数ナンバーの国道2号、4号、6号が半島を東西に横断する幹線で、奇数ナンバーの国道1号、3号、5号、7号が半島を南北に縦断する幹線になっている。

 道路標識はしっかりしている。韓国語文字のハングルとアルファベットで書かれているのでまったく問題ない。「これは日本以上だ」と思わされたのは、アメリカのシステムを取り入れているからなのだろう、国道の重複区間には2本、もしくは3本の国道ナンバーがきちんと併記されていることだ。日本でも最近になってやっと2本以上の国道の重複区間を表示をするようになっているが、まだまだ未整備。大半の重複区間は、若い番号の国道ナンバーだけの表示になっている。

 鎮海、馬山と大きな町を通っていくが、とくに馬山は大渋滞。韓国の急速なモータリゼーション化には目を見張らされるほどで、韓国全土、どこにいっても車であふれかえっている。その車も現代、大宇、起亜などの韓国車が大半で、世界中を席捲している日本車も韓国では影が薄い。バイクも韓国車が大半で、ときたま日本製のビッグバイクが走っているのを見かける程度。法律で規制されているからなのだろう、韓国製バイクは150cc以下の小型車だけだ。

 馬山を過ぎたところで朝食にする。街道沿いの食堂に入り、メニューの一番上に出ている4000ウォン(約400円)の食事を頼む。出てきたのは定食(ジュンシク)で、ご飯と汁のほかに2種のキムチ、ナムル、豆腐、煮物など全部で7品がついていた。

 昼食は晋州を過ぎた横川里という小さな町の食堂で、同じようなやり方で5000ウオン(約500円)の食事を頼んだ。するとご飯にドジョウ汁(チューオタン)、何種ものキムチのほかに、ムック(ドングリの粉の餅)やツェッカル(イカの塩辛)、メルチー(小魚の佃煮)などがついていた。ここでは河東郡庁(郡役所)財務課の金在校さんというカタコトの日本語を話せる方と出会った。役所の講習会で日本語を勉強したとのこと。金在校さんは「日本の人に会えてうれしい」といって食事代を払ってくれた。

 蟾津江にかかる橋を渡って慶尚南道から全羅南道に入り、順天から国道17号で南へ。その夜は多島海に面した麗水で泊まった。

 さっそく麗水の町を歩く。まだ日は高い。時間はたっぷりある。裏道を歩いていると、老夫婦のやっている手作りのアンドーナツ屋が目に入った。奥さんが小麦粉をこね、旦那が揚げていた。さっそくひとつ買って食べてみる。揚げ具合といい、あんの甘さ具合といい、申し分のない味だ。ひとつ300ウオン(約30円)。

「おいしかったです。ごちそうさま」

 日本語でお礼をいうと、老夫婦はうれしそうな顔をした。旦那は日本語を話せる人で、「私は京都で生まれました。京都の国民学校で1、2年過ごしたあと、両親と一緒に北海道に渡り、北海道各地を転々としました‥‥」

 と、日本語を思い出すかのような口調で語った。北海道では大変な苦労をしたということだが、ぼくが日本人だということで遠慮もあったのだろう、「もう、遠い昔のことですから‥‥」と、遠くを見るような目つきでそういった。

 老夫婦手作りのアンドーナツを4つ、袋に入れてもらい、それを食べながら歩いた。大露天市、韓国の木造の建物では最大という鎮南館、麗水港の旅客ターミナルと見てまわり、最後に全羅線終着の麗水駅まで行ってみた。

 翌日は木浦へ。国道2号の康津を過ぎたあたりの広々とした水田地帯を走っていると、初めての土地なのに、なにか、無性になつかしくなってくる。遠い昔に来たことがあるような、そんななつかしさなのだ。我が賀曽利一族は房総半島の小村の出なので、朝鮮半島とは関係ないと思うのだが、「ご先祖さま、帰ってきました!」と、思わず声を出したくなるほどのなつかしさだった。

 康津から国道18号で海南へ。そこから65キロ、韓国本土最南端の土末に行く。DJEBELのGPSは北緯34度17分41秒を表示している。日本最西端駅の松浦鉄道たびら平戸口駅まで301キロ、JR下関駅までは、407キロの距離だ。これもDJEBELのGPSの表示である。

“土末(トーマル)”とはいかにも最果ての地らしい地名ではないか。朝鮮半島の突端、それだけにはとどまらず、まさに広大なユーラシア大陸の地の果て、そんな連想をさせる土末の地名だ。日本だったら本土最南端の“土末岬”ということで、一大観光地になり、岬への道沿いにはみやげもの屋や食べ物屋がずらりと立ち並ぶところだ。ところが釜山でもふれたように岬のない韓国では、とくにどうということのない場所なのだ。

 ぼくは今回の「韓国一周」では、かなり地名が詳しく出ている「韓国観光案内図(ツーリストマップ・オフ・コリア)」を使った。それには韓国全土の地名が英語と漢字で書かれている。朝鮮半島の周囲や島々には無数の岬があるが、ひとつとしてCAPEやPOINTといった岬名は出てこない。岬には特別な思いを寄せて強くこだわる日本人と、岬にはまったく興味を示さない韓国人の違いを土末で見た。

 この土末の道の尽きたところには、小さなフェリー乗り場がある。そこからさらに南の、多島海の島々へとフェリーで結ばれていた。

 海南に戻ると、今度は橋でつながっている莞島と珍島の最端の地まで行ってみる。とくに珍島が印象深い。国道18号の両側にはムクゲのうす紫色の花が咲いている。アワやコウリャンの雑穀畑が目につく。収穫した唐辛子をあちこちで干している。そんな風景を見ながら走った国道18号は小さな港の岸壁で尽きた。目の前の海には独巨群島の小島が浮かんでいた。

 その夜、釜山から840キロを走り、木浦に到着。第1ステージの南部編を走り終えた。湖南線の終着駅、木浦駅近くの安宿に泊まり、さっそく夜の木浦の町を歩くのだった。

「木浦→ソウル」(西部編)

 9月7日午前5時30分、木浦を出発。「韓国一周」の第2ステージ、西部編の始まりだ。国道1号で羅州を通り、光州まで行ってみる。町中のコンビニ「セブンイレブン」で通学途中の女学生たちと一緒に、朝食のカップラーメンを食べた。韓国では今、日本と同じように次々にコンビニができている。ほとんどの店内には給湯設備があり、イスとテーブルが置いてあって食事できるようになっている。

 光州から国道23号を北上。全羅南道から全羅北道を通って忠清南道に入り、錦江河畔の古都、公州へ。公州は東城、武寧、聖王と3代つづいた百済の都だ。このあと百済の都は扶余へと移る。公州では食堂でドサッと具ののった麺を食べ、国立公州博物館を見学し、宋山里古墳群の一角にある武寧陵を歩いた。

 公州から百済最後の都の扶余へ。錦江の悠々とした流れを目に焼き付けたところで扶余の町中に入っていく。中央のロータリーには百済の英雄、階伯将軍の像が建っている。定林寺址では五重の石塔の「百済塔」を見る。そのあとで国立扶余博物館を見学した。ここで目を引いたのは、百済時代(5~7世紀)よりもはるかに時代の下った高麗時代(11~13世紀)につくられた亀石だ。

 大モンゴル帝国の都は草原の町、ハラホリン郊外にあるカラコルムだが、現在、都の跡はきれいさっぱりと何もない。その中にあって唯一、都の四方に置かれ、都を守ったという亀石が2つ残されている。扶余で見た亀石はユーラシア大陸の広大な地域を支配した元の都、カラコルムを思い出させるものであったし、朝鮮半島が大陸と地つづきであることを思い知らせるものでもあった。

 その夜は錦江河口の町、群山で泊まった。

 翌日、群山から国道21号で洪城へ。そこから韓国本土最西端の地に向かった。

 端山、泰安と通って韓国西海岸第一の海水浴場、万里浦に到着。夏の終わった砂浜に人影はない。この万里浦は東経126度08分40秒。ゆるやかな弧を描く砂浜をさらに西に行った岬が韓国本土最西端の地で、東経126度08分04秒になる。岩のゴツゴツした岬。「韓国最西端の地」碑的なものは一切ない。万里浦には海水浴で大勢の人たちがやってくるが、この最西端の岬まで来る観光客はほとんどいないという。岬の内側には堤防で守られた漁船用の小さな船着場があり、漁を終えた漁船から魚が水揚げされていた。その船着場の前には新鮮な魚を食べさせる店が1軒あった。

 韓国本土最西端の岬から洪城に戻り、国道21号で天安へ。そこで国道1号に合流し、北へ、ソウルに向かう。忠清南道から京畿道に入る。途中、水原では「韓国民俗村」に寄り道した。以前にも見学したことがあるが、ここは「韓国一周」には欠かせない立ち寄りポイントだ。とくに「民俗館」の模型を使っての展示は見事なもので、一目で韓国の式年行事や年中行事がわかるようになっている。

 水原に戻ると、ふたたび国道1号を北へ。ソウルまでは途切れることのない大渋滞。車の洪水にもみくちゃにされながら走り、漢江大橋で漢江を渡ってソウルの中心街に入ったときはホッとした。ソウル駅裏の1泊2万5000ウオン(約2500円)の安宿に部屋をとると、さっそく夜のソウルを歩く。ソウル駅前に近い南大門から鐘路経由で東大門まで歩いた。帰りは地下鉄に乗って帰ってきた。

「ソウル→巨津」(北部編)

 9月9日午前6時、ソウルを出発。いよいよ緊張の北部編がはじまる。この北部編では、国道1号、3号、5号、7号の幹線を北へ、行けるところまで行くつもりにしている。 その前に仁川へ。

 仁川市内に入ると、道の尽きる月尾島まで行ってみる。レストランやカフェの並ぶ観光地。海辺には朝鮮戦争(1950年~1953年)の大きな転換点になった「仁川上陸作戦」の碑が建っていた。それには「1950年9月15日、マッカーサー率いるアメリカと韓国の海兵隊が261隻の上陸用舟艇でもって、レッドビーチ、ブルービーチ、グリーンビーチの3ポイントに上陸した」とある。今は本土とつながっている月尾島のこの地点は、3ポイントのうちのグリーンビーチになる。

「仁川上陸作戦」の劇的な成功は、朝鮮戦争の流れを大きく変えた。北朝鮮側は当初、圧倒的に優勢で、半島を一気に南進し、釜山に迫ろうかという勢いだった。それが「仁川上陸作戦」の成功で、延びきった戦線に楔を打たれ、韓国側に急速に押し返された。もし、この「仁川上陸作戦」が失敗していたら‥‥、今の韓国はなかったかもしれない。

 仁川からソウルに戻ると、国道1号を北へ。軍用車両を多く見かけるようになる。検問所にも銃を持った軍人が立っている。いやがうえにも緊張感は増してくる。だが、緊張しているのはぼくだけのようで、通り過ぎていく町々の表情は穏やかなものだった。

 ソウルから50キロの■山へ。ここが国道1号の一番、北の町。町から5キロほどで、朝鮮半島南北分断の象徴といっていい臨津江に出る。川にかかる統一大橋を渡る。臨津江はかつてのベトナムを南北に分断した北緯17度線のベンハイ川のようなもの。日本でも望郷の歌「イムジン川」でよく知られている。国道1号の新道では、統一大橋を渡った先の検問所までが自由に行ける地点で、そこから先は許可証が必要になる。軍事境界線板門店までは15キロほどの距離である。

 統一大橋に戻ると、今度は国道1号の旧道で臨津江の展望台まで行ってみる。足下には二重、三重に鉄条網が張りめぐらされ、銃を構えた兵士たちの警備所もある。その向こうの臨津江には京義線の橋脚跡が残され、旧国道1号の鉄橋がかかっている。ここはかつての朝鮮半島の南北を結ぶ交通の要衝の地だった。

 ■山に戻ると、国道37号で臨津江沿いに北東へと走る。全谷の手前で38度線を通過。朝鮮半島を南北に分断する軍事境界線は東に行くほど、38度線よりも北にずれていく。38度線を過ぎてまもなく、漢灘江のリゾート地に着く。ちょっとした観光地だ。緊張のつづく軍事境界線のすぐ近くにこのような場所があるとは‥‥。

 漢灘江は臨津江の支流で、その合流点はほぼ38度線上になる。漢灘江では川遊びをする家族連れや河原にテントを張ってアウトドアーを楽しむ人、四駆でやってきて釣りを楽しむ人たちの姿を見る。ぼくはといえば、沈下橋をバイクで渡り、人目のつかないところで裸になり、茶色い流れの川に飛び込んだ。「臨津江」を自分の体全体で感じ取りたかったのだ。

 漢灘江から全谷へ。ここではものすごい人波の露天市を歩いたあと、国道3号を北へ。全谷から33キロ行ったところで、京畿道から江原道に入る。このへんまで来ると、交通量はほとんどなくなるが、国道3号は幅広い2車線の道のままである。道境から4キロ地点で道路封鎖。北緯38度16分26秒の地点だった。検問所の若い兵士たちの応対はきわめてていねいなもので、別にパスポートを調べられる訳でもなく、「ここから先は行けませんよ。戻って下さい」と、ジェスチャーで示してくれた。

 全谷に戻ると、国道37号から46号に入り、春川へ。そこでひと晩、泊まった。

 春川では、“浦島太郎”の気分を味わった。ぼくは1973年の夏に、釜山を拠点にして列車、バスで「韓国一周」をした。そのとき日本海側の列車の終点、江陵からバスで束草に行き、雪岳山に登ったあと、バスでこの町にやって来た。

 当時の春川は山間のひなびた町で、夜は暗かった。ほんとうに暗かった。「貧しいなあ‥‥」という言葉が、思わず口から出たほど。それが今ではどうだろう、京春線の終着、春川駅からつづく市場街を抜けると、中央洞の商店街に入り、まばゆいばかりの照明やネオンが輝いている。華やかだ。町には活気が満ちあふれている。ソウルと変わらない最先端ファッションの女の子たちが町をさっそうと歩いている。名物の焼き鳥料理、タッカルビを食べさせる店がずらりと並んだ一角は、まるで東京・新宿の歌舞伎町を思わせるようなネオンの洪水。客引きのおばちゃんに手を引かれたときは、「ここはピンク街?」と錯覚したほどだ。

 30年前の韓国は食料難に見舞われていた。とくに米不足は深刻で、水曜日と土曜日の週2日は、韓国全土、どこの食堂、レストランに入っても、米の飯が食べられなかった。春川に着いた日はあいにくと土曜日で、食堂では米の飯の代わりにポロポロの麦飯が出た。このポロポロの麦飯がなかなかのどを通らなかった。「金を払って、なんでこんなものを食べるのだろう‥‥」と、悲しくなるほどだった。それだけに不夜城のような町の明るさ、市場の物の豊かさ、ありあまるほどの食べ物‥‥を見ていると、「これが韓国の30年だったのか」と、あらためて思い知らされた。

 翌日、春川から北へ。今度は国道5号を行けるところまで行ってみる。春川から40キロで華川の町に着く。そこからさらに24キロ北に行ったところで道路封鎖。北緯38度14分23秒の地点。前日の国道3号と同じように、検問所でUターンして春川に戻るのだった。

 春川からは国道46号で山岳地帯を横断。昭陽江ダムによってできた昭陽湖の湖畔を走る。「う~ん、これが昭陽湖か!」。韓国最大の財閥「現代」は、「現代建設」から始まった。1960年代の後半、現代建設は「檀君韓民族の伝説上の始祖。日本の神武天皇のようなもの)以来、最大規模の工事」といわれた昭陽江ダム工事を受注し、完成させ、韓国建設業のトップの座を不動のものとした。それ以降というもの、わずか10年ほどの間で「現代」は造船や重機、自動車などであっというまに世界のトップレベルに躍り出た。まさに奇跡の超高度成長。そんな世界の「HYUNDAI(現代)」の基礎を築いたのが昭陽江ダム。ここは韓国現代史の舞台なのである。

 国道46号から44号に入り、“韓国の屋根”雪岳山の岩峰群を見ながら峠を越える。この峠越えが豪快だ。日本の国道18号の碓井バイパスで、長野・群馬県境の峠を越えるときとそっくりなのである。峠まではゆるやかな登りだが、峠を越えると、折れ曲がった急勾配の峠道を一気に下っていく。

 日本海に出ると、国道7号を北へ。束草、杆城と通り、韓国最北の町、巨津へ。ここから軍事境界線を真近に眺める「高城統一展望台」まで行ってみる。

 巨津から16キロ、北緯38度32分43秒の地点で道路封鎖。そこから先は、統一展望台のチケットを買わないことには行けないと検問の兵士にいわれた。検問所からわずかに戻ったところにあるチケット売り場でチケット(2000ウオン)を買ったが、今度はバイクでの通行は禁止されているといわれた。

 するとなんともありがたいことに、英語を上手に話す観光案内所の若い女性がやってきて、車の2人連れに「この人を乗せてあげて下さい」と、にこやかな笑顔つきで頼んでくれたのだ。彼女のおかげで、ソウルに近い安山からやってきたという孔■祐さん夫妻の車に乗せてもらうことができた。

 安山で「東洋通商」という会社を経営している孔さんは、カタコトの英語を話した。安山に近い水原の市役所に勤務している奥さんは、カタコトの日本語を話した。孔さんとは英語で、奥さんとは日本語で話した車内での会話は楽しいものだった。

 孔さんは「仕事上、英語は必要なので、勉強しているのですが‥。どうも我々、韓国人はうまく英語を話せません」と、日本人と同じようなことをいう。作家を夢みているという奥さんは、役所の講習会で日本語を勉強している。というのは水原は2002年の日韓共催のワールドカップの会場のひとつ。日本人も水原に多くやってくるだろうということで、日本語を勉強しているという。

 韓国最北端の地、「高城統一展望台」からの眺めは、強烈にぼくの目に焼きついた。軍事境界線上に延びる鉄条網の長い線。トーチカが点々と見える丘陵地帯の左手には、韓国人の憧れの山、金剛山(1638m)が雲を突き破ってそびえていた。孔さん夫妻も、金剛山を見たくてここまでやって来た。展望台から金剛山までは、わずか16キロでしかないという。

 孔さんは北朝鮮産のワインや焼酎などを売っている展望台の売店で、2冊の金剛山の写真集を買った。さらに「海金剛」を描いた記念メダルを買ってぼくに持たせてくれた。それには「T・KASORI2000・9・10」と彫り刻まれていた。韓国最北端の地の思い出に、孔さん夫妻の思い出に、ぼくはそれをありがたく受け取った。

 金剛山は標高1639メートルの毘蘆峰を主峰と大山塊で、東西60キロ、南北40キロのエリアに12000にも及ぶ岩峰があるという。金剛山の西部が女性的な山並みの内金剛、東側が男性的な外金剛で、海金剛とは外金剛の山並みが海に落ちたあたりの海岸地帯をいう。統一展望台から見下ろす海金剛は朝鮮半島きっての景勝地といってもいい。風の強い日で、日本海には無数の白い波頭がたっていた。

「高城統一展望台」でぼくは、「今度は北朝鮮側から海金剛を見てみたい!」と思った。 孔さん夫妻と別れ、巨津に戻る。

 イカ釣り船の並んだ港前の食堂で夕食。イカの刺し身を頼む。店のおかみさんに「こうするのよ」と教えられるままに、イカの刺し身をほかの具と一緒にご飯に混ぜて食べる。韓国ではどこに行っても、このビビンバ方式が食べ方の基本になっている。小ネギを刻んで入れた貝汁はさっぱりした味つけで、飲み干すと、おかみさんはおかわりを持ってきてくれた。食後にはコーヒーを入れてくれた。

 食堂のおかみさんの笑顔とやさしさが心に残り、なんとなく離れがたくて、その夜は巨津で泊まった。十三夜の大きな月が韓国最北の海を明るく照らしていた。

「巨津→釜山」(東部編)

 9月11日午前6時、巨津を出発。東海岸を釜山目指して南下していく。「韓国一周」も最後の行程の東部編だ。国道7号で束草を通り、江陵に向かっていく。その途中、北緯38度線碑が建つ「大明38度線休憩所」の「38度線レストラン」で朝食。海を見ながらチゲ鍋定食を食べた。この地点をもって北緯38度の世界に別れを告げた。

 江陵、東海と通り、慶尚北道に入る。山々が海まで迫る東海岸は、平野の広がる西海岸に比べると、国道の交通量がガクンと少なくなり、通り過ぎるていく町々の数も少なくなる。日本でいえば、山陽と山陰のような違いだ。

 地図を広げてみればすぐにわかることだが、韓国の背骨となる太白山脈の山々は、東海岸のすぐ近くを南北に連なっている。あまりにも東海岸にかたよりすぎているのだ。その太白山脈に北から金剛山、雪岳山、王台山、太白山といった高峰群がそびえている。この太白山脈の東側は急傾斜で流れ出る川は距離も短く、平野をつくる間もなく、すぐに海に流れ出る。ところが西側はゆるやかな傾斜で、そこから流れ出る洛東江や漢江は韓国第1、第2の大河で流域には幾つもの盆地をつくり、下流には平野が開けている。

 その夜は韓国最大の製鉄所のある浦項で泊まった。

 翌日は台風の影響で、朝から強い風が吹いていた。浦項駅前から走りはじめたが、この町で目につく道標は「POSCO(ポーハン・スティール・コーポレーション)」で、すべての道が浦項製鉄所につながっている。韓国経済の発展を象徴するかのような浦項製鉄所の敷地は広大なもので、その中に何基もの高炉がそびえ、最新鋭の工場群が連なっている。それら工場群全体を見渡すための展望塔までできている。

 浦項をあとにし、迎日湾に突き出た小半島に入っていく。この小半島が韓国本土最東端の地になる。半島東北端の「長■串」には六角の白亜の灯台が建っている。灯台博物館もある。東海(日本海)の海中には巨大な手のモニュメント。「長■串」は韓国で唯一といっていい岬名のついている岬で、串が岬を意味している。

 韓国人は「長■串」が韓国本土最東端だといっている。しかし地図を見ればひと目でわかることだが、ほんとうの最東端の地は半島の東側の海岸、漁港のある九龍浦までの間のどこかということになる。

 DJEBELのGPSを見ながら、この間を何度も往復し、ついに韓国本土最東端の地を見つけだした。そこには「海成水産」という水産会社の生け簀があった。道の尽きたところでバイクを停め、目の前に広がる海を眺めた。東経129度35分01秒の地点。ちなみに灯台の建つ名無し岬は東経129度34分17秒だった。

 九龍浦からは海沿いの国道31号を南下し、甘浦から古都、慶州へと寄り道する。慶州は新羅千年の都だ。まずは慶州郊外の仏国寺に参拝。新羅時代の751年に創建された古刹。国宝にもなっている大雄殿前の多宝塔と釈迦塔の双塔が目を引く。仏国寺前の食堂で昼食を食べ、慶州の市内に入っていく。新羅王朝の王族の古墳が点在する古墳公園を歩き、東洋最古の天文台で知られる瞻星台を見る。高さ9メートルの石造りの瞻星台は、まさに慶州のシンボル。最後に国立慶州博物館を見学し、甘浦に戻った。

 甘浦から国道31号をさらに南下したところに新羅の文武大王の水中陵がある。見た目には海に浮かぶ岩山といったところだ。文武大王といえば、朝鮮半島の統一をなし遂げた王。その文武大王は「私が死んだら遺骨を東海に埋めよ」と遺言を残した。死んだあとも、自分が日本への備えになるというのだ。新羅朝鮮半島を統一したのは676年。日本はまだ飛鳥時代で、国家としての体制が整ってまもないころなのに、もう統一新羅に恐れられる存在になっていた。韓国にとっての日本は、いつの時代も油断のならない、警戒すべき国なのだ。

 慶尚北道から慶尚南道に入り、蔚山へ。浦項が製鉄のある町ならば、蔚山は韓国最大の財閥「現代」の企業城下町。造船や重機、自動車などの「現代」関連の大工場群がつづく。韓国では英語の看板をほとんど見かけないが、蔚山ではやたらと「HYUNDAI(現代)」の看板が目についた。さらにその南の蔚山湾に面した一帯は石油化学の一大コンビナート地帯になっている。

 蔚山を過ぎると、釜山はもう近い。台風の影響で強風とともに雨が降りだし、雨足は激しさを増した。土砂降りの雨をついて走り、9月12日午後5時、釜山駅前に到着。天気も釜山到着を祝ってくれたのか、ほんの一瞬、雨は上がった。DJEBELのトリップメーターを見ると3150キロ。予想したよりも、はるかに長い距離の「韓国一周」になった。

 この台風の影響で関釜フェリーは欠航し、釜山では1週間近く足止めをくらった。その間はチャガルチ市場前の「三和観光ホテル」に泊まり、毎日、釜山の町を歩いた。さらに釜山駅から列車で浦項や密陽、馬山などに行った。

 ついに釜山を離れる日が来た。9月18日17時、関釜フェリーの「はまゆう」に乗船。19時に出港した。船内のレストランで「ビビンバ定食」を食べた。それには味噌汁がついていた。和韓折衷のビビンバだ。下関に戻ると、帰りは日本海経由で国道9号、8号をメインに新潟県糸魚川まで走り、最後は松本経由で東京へ。東京・新宿のコリアンタウンにある「韓国食堂」でビビンバを食べ、「韓国一周」を終えるのだった。

「東京→下関」1160キロ、「釜山→釜山」3150キロ、「下関→東京」1325キロで、「韓国一周」の全行程は5635キロになった。

 遠ざかっていく釜山の夜景を見ながら「バイクでも車でも、もっと、もっと自由に日本・韓国間を行き来できるようになって欲しい!」と、心底願った。そうすれば今は1日1便の関釜フェリーも、きっと便数が増える。

 イギリスのドーバーからドーバー海峡を越えてヨーロッパ大陸に渡るフェリーのように、スペインのアルヘシラスからジブラルタル海峡を越えてアフリカ大陸に渡るフェリーのように、1日に何便も出るような国際フェリーになることだろう。下関、釜山での出入国の手続きも24時間、いつでもできるようになる。

 そうすれば下関から釜山までは7、8時間でしかない。さらに大阪南港や日本海舞鶴港敦賀港からもフェリーが出るようになれば釜山にはさらに渡りやすくなる。そんな日が1日も早くやってきて欲しい。そのときこそ日韓新時代がやってくる。