賀曽利隆 STILL ON THE ROAD !

世界を駆けるバイクライダー・賀曽利隆(かそりたかし)。地球をくまなく走り続けるカソリの”旅の軌跡”をまとめていきます。

日本食べある記(6)岡崎の八丁味噌

 (『市政』1991年6月号 所収)

 愛知県の岡崎市は、徳川家康の故郷としてよく知られている。根強い家康ブームも手伝って、家康生誕の地・岡崎城には、一年中、絶えることなく観光客が訪れる。

 岡崎には2つの名産品がある。

 ひとつは、石である。

“石都岡崎”といわれるほどで、良質の岡崎産の花崗岩を使った石燈籠(岡崎燈籠)などが、日本中に広く出荷されている。

 もうひとつは、同じく全国にその名を知られた“八丁味噌”である。その八丁味噌を訪ねて、岡崎に行った。

 岡崎では、まっさきに岡崎城のある岡崎公園を見てまわる。桜や藤の名所で、公園全体がこんもりと濃い緑に包まれている。晩年時代の家康を彫った銅像が目を引く。

 岡崎城の入口には、

「人の一生重荷を負うて、遠き道をゆくがごとし。いそぐべからず。不自由を常とおもえば…」

 ではじまる、有名な家康の遺訓碑が、亀の石像の上に建っている。

 さすがに石都岡崎だけのことはあって、遺訓碑は、見事な花崗岩でつくられていた。

 岡崎城の天守閣にのぼる。そこからのながめがすばらしい。東に目をやると、ビルが建ち並ぶ中心街の向こうに、ゆるく波打つ三河高原の山々をながめ、反対に西に目を向けると、矢作川の流れが日射しを浴びて光り輝いている。それより西には濃尾平野へとつづく平原が、茫々として広がっていた。

 高原と平野。岡崎は二つの世界の接点であり、岡崎を境にして地形は大きく変わる。それが、岡崎城の天守閣に建つと、よくわかるのである。

 岡崎は城下町であるとともに、東海道の要の宿場町でもあった。

 岡崎城ができたのは15世紀半ばのことで、大永4年(1524年)になると、家康の祖父・松平清康が岡崎に入り、そこを居城とした。

 そのころから、岡崎の町は目にみえて発展しはじめ、東海道筋では駿府(静岡市)につぐほどの賑わいをみせるようになった。

 家康は岡崎から浜松、駿府と居城を移していったが、日本の大動脈である東海道の要を押さえつづけたことに変わりはない。家康と並ぶ戦国の実力者、甲斐の武田信玄や越後の上杉謙信がとることのできなかった天下を三河の家康が手中に入れることができた理由のひとつには、家康がたえず東海道を押さえていたことがあげられる。

 岡崎城下を通り抜ける東海道は、城を守るために「二七曲」と呼ばれるほど曲折の多い道だった。今でも、旧東海道をたどって歩いてみると、それがよくわかる。

 ところで、辛口の赤味噌の代名詞のような八丁味噌は、その起源は遠く室町時代にまでさかのぼる。東海道を行き来する旅人たちによって、その名が全国に広められていった。駿府の安倍川餅や丸子宿のとろろ汁、桑名の焼きはまぐりと同じように、岡崎の八丁味噌は東海道の名物になっていったのである。

 この八丁味噌だが、その名前は地名に由来している。現在、2社によって八丁味噌はつくられているが、両社がある岡崎市八帖町はかつては八丁村と呼ばれていた。岡崎城から西へ、ほぼ8丁(約870メートル)の距離に位置していたからだ。そこでつくられる味噌なので、いつしか八丁村産の味噌が、“八丁味噌”と呼ばれるようになった。

 ところで、われわれ日本人の食生活とは切っても切り離せない味噌だが、大きく分けると米味噌、麦味噌、豆味噌の3種類に分けられる。

 まず米味噌だが、米に麹菌をつけ、ゆでたダイズと合わせ、発酵させたもの。

 次に麦味噌だが、麦(オオムギもしくはハダカムギ)に麹菌をつけ、米味噌と同じようにゆでたダイズと合わせ、発酵させたもの。

 それに対して豆味噌は、蒸したダイズに麹菌をつけたもので、原料はダイズだけの味噌。八丁味噌はそれら3種のうちの豆味噌である。

 日本列島を味噌で分けてみると、見事に色分けできる。

 日本の味噌生産量の80%を占める米味噌は、東日本から西日本にかけての広い地域に分布している。ところが、同じ米味噌でも、東日本の米味噌はダイズの割合が高くなり辛口である。代表的な米味噌としては、津軽味噌や仙台味噌、信州味噌などがあげられる。

 それに対して西日本の米味噌は、米麹の割合が高くなり、甘口となる。その代表的な味噌としては、西京白味噌や讃岐味噌などがあげられる。

 麦味噌地帯には、四国の西半分から、本州西端の山口県の一部、そして九州が含まれる。麦味噌はダイズの割合が低く、甘口である。極端な例では、ダイズをまったく使わない麦味噌もある。

 さて豆味噌だが米味噌地帯の一角、本州中央部の静岡県浜名湖以西、愛知県、岐阜県、三重県の東海四県が豆味噌地帯である。

 代表的な豆味噌が八丁味噌で、そのほか、三州味噌や三河赤味噌などがあげられる。

 これらの豆味噌は辛口で、赤味噌である。

 豆味噌の製造法上の大きな特徴は、米味噌や麦味噌のようにダイズをゆでるのではなく、蒸すのである。蒸したダイズを味噌玉にし、それに麹菌をかける。

 ダイズを蒸す利点としては、ひとつにダイズの持っている栄養分を外に逃がさないこと、次にダイズをふっくらとさせることができること、といった点があげられる。

 豆味噌の原料は、ダイズと水と塩である。話を八丁味噌に戻すと、岡崎の旧八丁村では、それら豆味噌の原料すべてに恵まれていた。矢作川の西、矢作の里は、古くから“矢作大豆”で知られるダイズの名産地帯であった。水はといえば、岡崎周辺には伏流水が流れ、地下水が豊富で、良質な水がいくらでも得らた。塩も同様である。矢作川の河口近くの三河湾に面した吉良は、塩の大産地で、吉良産の三州塩の入手が容易であった。

 このような諸々の条件に恵まれたからこそ、岡崎の旧八丁村は、豆味噌の一大産地として発展していったのだろう。さらに、製品を出荷するにも、東海道があり、矢作川の舟運があった。

 八丁味噌は、水分も塩分も少ない、固い味噌である。そのため日持ちがよく、兵糧食としては絶好であった。栄養価の高いチーズを持ち歩くようなもの。三河武士の強さの秘密は八丁味噌であり、徳川家康が天下を取ったのも八丁味噌のおかげだと、地元の人たちはいっている。

 合戦になると、号令がかけられたという。

「さあ、戦だ、味噌を集めよ!」

 八丁味噌の本場だけあって、岡崎には、八丁味噌を使った料理が多い。

 岡崎城内では「木の芽田楽」を食べた。堅炭で焼いた豆腐に、八丁味噌とみりん、砂糖を合わせたタレがよく合い、その味を木の芽(サンショの若芽)が、ピリッとひきしめている。

 同じく城内の茶屋で、八丁味噌つきの関東煮(おでんのこと。関西では“かんとだき”だが、中京の岡崎では“かんとうに”といっている)を食べた。木の芽田楽と同じように、濃いチョコレート色をした八丁味噌のタレが関東煮の味を一段とひきたたせている。

 八丁味噌で煮込んだ煮込みうどんは、抜群の味だ。うどんにネギ、エノキダケ、たまご、かまぼこ、油揚げなどの具を入れ、鉄鍋で煮込んだもの。うどんの芯にまで八丁味噌の風味がしみこんでいる。

 どてやきと田舎鍋の肉料理も食べた。どてやきは、ブタの臓物をぶつ切りにてゆで、それに八丁味噌と砂糖を加え、煮込んだものである。田舎鍋は、豚肉とタケノコ、サヤインゲン、ネギ、ニンジン、ハクサイなどの野菜、しらたき、かまぼこ、豆腐などを八丁味噌で煮込んだ鍋料理である。

 八丁味噌は、肉料理にはことのほか合う味噌である。肉のくさみを消し、ふつうでは食べられないようなブタの臓物まで、まるで別物のような味に仕立てあげてしまうのだ。

 さらに、八丁味噌には、焼き味噌がある。

 小皿に入れた八丁味噌を、芳しい香りが漂うほどに焼き、それを炊きたてのご飯にのせて食べるのである。

 これが、じつにうまい!

 好きな人にいわせると、焼き味噌さえあえば、ほかにおかずは何もいらないというほどなのである。

「湯漬けに焼き味噌」

 といって、徳川家康はことのほか焼き味噌を好んだといわれるが、なるほど納得できる味である。

 三河人は、体の芯にまで豆味噌の味覚がしみこんでいる。

 岡崎に来てみて、そのことがよくわかった。それだから、三河人が他所を旅行する時、味噌が悩みの種だという。豆味噌以外の味噌が何日も続くと、無性に故郷の味噌がなつかしくて、恋しくなってしまうという。くり返しになるが、その豆味噌の代表が八丁味噌なのである。

 私は東京生まれ東京育ち。味噌でいえば、米味噌圏の人間である。

 しかし、岡崎に来て豆味噌に、八丁味噌の味に慣れ親しむと、その味がきわめて忘れがたいものになる。それだけ個性の強い味噌なのである。

 三河人の八丁味噌に対するこだわりが、わかる気がする。

 八丁味噌の味覚が自分の舌になじんだあとで、他の味噌を味わうと、何かもの足りなくてやりきれなくなってしまうのだった。