賀曽利隆 STILL ON THE ROAD !

世界を駆けるバイクライダー・賀曽利隆(かそりたかし)。地球をくまなく走り続けるカソリの”旅の軌跡”をまとめていきます。

『アフリカよ』(1973年7月31日・浪漫)第一章(その4)

準備はできた

 しかし計画というものはそういうものだろう。いつまでも気をおとしてばかりはいられない。秋が深まるにつれて準備は急ピッチで進んでいく。問題点が、いくつかあった。船や外貨、オートバイ、カルネ(オートバイの無税通関手帳)などである。船会社をいろいろと訪ねていくうちに、喜望峰経由で南米にむかう船があることがわかった。四月に横浜を出るローヤル・インターオーシャン・ラインのルイス号で、ぼくたちはさっそく横浜から南部アフリカのポルトガルモザンビークの首都ロレンソマルケスまで予約した。それで四月十二日、という出発の日は決まってしまったのだ。

 外貨の件は、当時のきまりでは五〇〇ドルまで。これではどうしようもない。どうしたらいいんだ、と頭を痛めていると、親切な人が大きな声では言えないがと教えてくれた。香港かシンガポールで日本円を米ドルに替えてくれるのだそうだ。日本円持ち出しは、当時一人二万円までだが、それ以上持ち出しても、まず調べられないだろうと教わったのでこの問題は無事通過。カルネのほうは、日本自動車連盟の田久保さんに、たいへんお世話になった。世界の道路事情、国境週辺の情勢、ぼくたちが注意しなくてはならない点など、事細かく教えてくださった。

「もうすぐだ、船が横浜をでるときはでっかい声で叫ぼうぜ」と書いた年賀状が前野から届く。一月十五日はぼくたちの成人式。「これからが最後の追い込みだぞ」と、たがいに気を引き締めあった。

 オートバイを早急に決めなくてはならなかった。いちばん心配だったのは故障である。強くて修理しやすいオートバイということで、ツーストローク・エンジンのヤマハかスズキにしようと思った。オートバイにくわしい人が、スズキのエンジンなら絶対だというので、ぼくたちはオートバイをスズキTC二五〇に決めた。オートバイのうしろに、ステンレス張りした木箱をのせられるよう改造し、クラッチやアクセル、ブレーキ等のワイヤー類、ピストンやピストンリング、ピストンピン、ガスケット類、チェーン、スプロケット、ポイント、プラグ、ヘッドランプのバルブ、タイヤのチューブなどの部品をそろえる。

 こうして四月十二日がやってくる。来てしまったのだ。アフリカに行こうと思いたってから三年。それは長く苦しい道だった、とポケットの中の日記は訴えているが、夢のように飛び去った日々のようにも思える。たしかなことはこの船にYが乗っていないということなのだ。