賀曽利隆 STILL ON THE ROAD !

世界を駆けるバイクライダー・賀曽利隆(かそりたかし)。地球をくまなく走り続けるカソリの”旅の軌跡”をまとめていきます。

『アフリカよ』(1973年7月31日・浪漫)第一章(その3)

大学はやめだ

 入試の結果はさんざん。前野は受かっていたが、Yとぼくは落っこち。ぼくたちの“アフリカ計画”は大きな試練に立たされる。ぼくはこの計画を別にしても、絶対に浪人したくはなかった。浪人したくなかったばっかりに、成績がびりっかすになってしまったとき、泣く泣くサッカーをやめたのだ。

「大学、やめる」そう言っても両親にわかってもらえないと思い込み、家出した。しかし見通しが甘く、じきに見つかってしまった。

 それからというもの、特に母親は、うるさいくらいに「大学に行け」と言う。ぼくはそのほこさきをかわすために、できるだけ早急に仕事をみつけなくてはならなかった。幸いにも、仕事はじきにみつかる。夜中の三時から朝の七時までが牛乳配達、それが終ると、背広に着替え満員電車に揺られて、築地の小さな印刷会社に通った。

 ぼくの仕事は、お得意さまや、紙屋、製版屋、活字屋、写植屋、インク屋など、関係のある会社をまわるもので、見聞きすることがはじめてのことばかり。さらに、会社はぼくを含めて十人ほどの小さなところだったので、いろいろなことをやらせてもらい、とても毎日が楽しかった。いつしか母もあきらめ顔となり、うるさく大学に行けとは言わなくなった。

 会社の勤務時間は、あってもなきがごとしで、忙しいときは帰るのが十二時近くになった。そんなときは朝がつらい。寝たと思ったら、もう目覚しが鳴りだす。そんな毎日だったので、夏が過ぎたころから、急激に疲れを感じるようになり、牛乳配達の途中で、眠ってしまったこともある。ある日ぼくは、「すみません、やめさせてください」と牛乳屋のおやじさんに頭をさげた。するとおやじさんは、「なに、やめることはないよ。配達の本数を減らしてあげる」と言ってくれた。次の日から、起きるのは四時半頃となった。

 おやじさんは忍耐力のある人だ。ぼくはとてもそそっかしくて、牛乳びんをわる、種類のちがった牛乳を入れる、入れる本数を間違える、というようなことをしょっちゅうやってしまうのだが、おやじさんはおどろかない。「まあ、これからは気をつけてな」雨や風の日の配達には、まいることがある。しかし、夜明けの美しさ、素晴らしさを見ていると、そんなつらさもどこかへ吹き飛んでしまう。(こんなきれいな空、東京にまだあったんだな)日が昇る前の美しい空を、眠っている人は知らないだろうが、ほんとうに何度びっくりするというか、息もできないおどろきで見入ったことか。

 秋が過ぎ冬が来る。冬の牛乳配達はきつかった。自転車をこいでいるのでそれほど寒くなかったが、手足の指先がきりきりと痛んだ。足はしもやけにやられ、真赤にはれあがる。大雪のときなど泣く思い。雪のため自転車に乗れず、棒きれで雪をかきわけ、かきわけ、進んでいった。

 昭和四十一年が過ぎ、昭和四十二年になる。前野は大学に通いながら、自動車工場の組立ラインや学習塾の先生、牛乳配達などのバイトを続け、着実に資金をふやしていった。顔を合わせると、それまでに集めたアフリカについての情報や資料を交換し、ぼくたちの合言葉であるかのように「アフリカ目指して頑張ろう」とはげまし合った。だが心配なのはYだった。なにか元気がない。

 二月になると、会社の具合がとても悪くなる。社長は金策に追われ、かわいそうなほど疲れきっていた。いやな世の中だ。ほんとうにいやだ。社会は決して弱い者に味方しない。いつも強い者に味方するのだ。善良な人たちは、常にばかをみるのだ。あまりにも冷酷なこの事実、ぼくはそれを、この一年間というもの、いやというほど見せつけられた。三月の上旬、ぼくはいつものように八時すぎに出社した。するとKさんが「カソリ君、会社は倒産した、不渡りを出したんだ」と言った。社長はそれ以来、一度も姿を見せなかった。事態は混乱を続けた。債権者の人たちに会うのがつらい。いくつかの会社の人たちが、「カソリ君、うちに来ないか」とさそってくれたが、残った人たち四人で会社再建と決まり、ぼくも残ることにした。

 夏になると、ようやく会社は落ちつきを取り戻す。その頃からぼくたちは、翌年春の出発を目指して直接の行動を開始する。テントや、寝袋、シート、炊事用のホエブスやコッフェルなど、もろもろの装備をそろえ始める。またぼくたちのコースの問題点などを、各国の在日公館や外務省アフリカ課などで尋ねてまわる。

最初の挫折

 大きな問題が持ちあがった。Yである。彼の両親がどうしてもYのアフリカ行きを許してくれないのだ。

「オートバイでアフリカに行くなんて、できるわけがない。もし途中で、病気や怪我でもしたらどうするのだ。だいたいなんのためにアフリカに行くんだ。行ってそれがなんになるのだ」

 前野もぼくも答えようがなかった。どのように説明しても、わかってもらえそうにない。もっと悪いことには、Y自身の中にも、最初の燃えるような情熱は沈静してゆくようだった。ぼくたちが計画をたてはじめてから、すでに二年という歳月が流れ去っていたのだ。ぼくたちは、Yを断念しなければならなかった。

 こう書くと簡単なようだが、これはじつはショックというようなことばであらわしきれないものだった。最初の挫折と言ってもよい。ぼくはその計画全体に暗い予感をもったほどだ。三人が二人に減った、という数の問題ではない。肌に痛みが現実に感じられるような悲しさと虚脱感。それは誰にもわかってもらえないことなのだ。前野、Y、Nと西伊豆の土肥まで歩いて行き、そこでテントを張って泳ごうと決めたことがあった。テントに飯盒、米、カンヅメなどを背負って武蔵境の駅から歩きはじめた。高校一年の夏をひかえた試験休みを狙っての脱出だったから、というより、その日はとりわけ暑い、極暑といってもいい日で、ついに二人がダウン、それでも計画をすてず、途中から電車に頼ったが、結局目的地に辿りつき、白い浜木綿(はまゆう)のみだれ咲く浜辺で一週間泳ぎまくって帰って来た。学校にばれて大眼玉をくった。そのときもYがいちばん矢面に立ったのだが、もっとひどいことがあった。

 その年の秋に、ユーゴのサッカーのナショナルチームがやってくる。全日本の試合は、あいにく遠足と重なってしまった。

「おい、Y、どうする。遠足にするかい、それともユーゴにする」

「うん、そうだな、それはユーゴにきまってるな」

 ぼくたちは遠足をさぼり、国立競技場に、ユーゴと全日本の試合を見にいった。当時は、サッカーは全く人気がなく、世界で超一流のアマチーム、ユーゴがきたというのに、スタンドはガラガラ。一対〇で負けはしたが、全日本が非常に善戦したので、ぼくたちはすっかりうれしくなり、有り金全部をはたいて祝杯をあげたはよいが、翌日二人は先生から呼び出された。

「おまえたちのようなのは退学させたいよ。私の一存で退学させられないのが、なにより残念だ」

 つぎの二年生の夏休みの四人組(クワルテット)の旅行は御前崎に近い相良の海。浜辺の松林の近くにテントを張った。夜になると前野は、同じクラスの女の子、A子さんの話を盛んにした。前野ののろけ話をたっぷりと聞かされたぼくたちは、みんなすっかり頭に血がのぼり、海にやってくる女の子と片っぱしから友遠になることにした。ぼくは横浜のT子さんと急速に仲良くなった。二人で御前崎に行き、白い灯台に登り、誰もいない砂浜を歩き続けた。彼女が横浜に帰る日、藤枝の駅まで見送りにいった。「さよなら」と言うと、T子さんは涙をいっぱい浮かべ、うつむいてしまった。それから四人でYの田舎にまわる。山あり川ありの美しいところだ。夜中に灯火(あかり)を持って近くの川に出ていって鮎や山女をとる。とった鮎や山女を焼きながら、寝ないで一晩中騒ぎに騒いだのだ。

 Yとはすしの食べくらべもした。五〇ぐらいまではなんとかいくのだが、それからは、むりやり口の中に押し込み、お茶で流し込む。ごはんつぶが、食道のいちばん上まできているような感じで、六〇を過ぎるとまさに死にものぐるい。ぼくはついに七〇個でダウン。がんばり屋のYはさらに一〇個も伸び八〇個という記録をつくって店のおやじさんを驚かせたが、それからが大変。二人とも動こうにも動けないのだ。歩いているところを見たら人は酔っぱらいかと思ったろうが、じつはそれよりひどい。気分がわるいだけでなく、口の中がへんに甘ったるくて無気昧な感じだ。池袋の駅の裏で、ついにひっくりかえって二人で一時間以上もころがっていた。

 Yとかき氷の食べくらべをしたこともある。二はい目、三ばい目までは楽なのだが、四はい目になるとかなりきつい。結局六ぱいで、二人とも同数だった。しかしYのほうがはるかに早く食べたので、Yの勝ち。胃袋が氷づけになっているので、真夏の燃えるような日射しを浴びているのに、歯をカチカチいわせ、震えながら歩いた。食べくらべでは彼にゆずったが、酒でもビールでもアルコールの勝負ではぼくのほうが強かった。アフリカで象の肉の食べくらべができると思っていたのに、そのYが脱落した。……