『アフリカよ』(1973年7月31日・浪漫)第一章(その2)
アフリカヘ行こう
夏だった。ぼくたちは海にむかっていた。同級の前野幹夫とYとNと、食料やテントをかついで出かけるのは毎年のことだったが、そのときは違っていた。「大学受険」という重しが誰の上にものしかかっていて、その話題を避けようとするかのように口が重くなってしまう。田園風景がひらけてくると、窓から流れこんでくる緑の風を胸いっぱい吸いこむ。誰かが言った。
「広えなあ」
「広えってことはいいことだ」
「アフリカなんていったら、こんなもんじゃないだろうなあ……」ぼくの口から、ひょっと出てしまった。「アフリカか。アフリカヘ行きたいな」
それはつもりつもったうっぷんを追い散らすために、吐息のように出たことばだったのだが、それはアフリカでなくても、どこでも未知の、未開の、広漠とした、若者の夢がかけられるところならどこでもいいはずだったのだが、いったんことばに出し、
「アフリカかあ。アフリカ。いいなあ」
「行けないことなんて、ないよなあ」
「行けるさ。足があれば」
「意志があれば。男なら、か」
そんなことを言いあっているうちに、
「よし、アフリカヘ行こう。行くよ」
と、ぼくは、まったく突然のことだが、何ものかにぎゅっと掴まれたように、自分の心を決めてしまった。本や写真で見た断片的な知識だが、はてしなく続く大草原、昼なお暗い熱帯の密林、太陽に灼かれる大砂漠、というようなものが増幅されて、フラッシュ・バックされ、それはどうしても、もうぼく自身のものでなければならないように思えてしまうのだった。
ぼくたちはよく冗談を言う。ほんとうのことのように冗談を言うのだが、そのときは逆になった。「アフリカ」「アフリカ」と冗談やひやかしのように、それからもわいわい言い合ったが、誰もふざけてるだけだと思う者はなかった。
九月、第一回の作戦会議を、学校に近い喫茶店でもった。前野、Y、ぼくの三人。(Nは事情があって計画に加われなくなった)それぞれに考えつづけ、練りつづけてきた案を出し合って、何時間も討議がつづいた。
1 コースは、アフリカ大陸の南端から、東アフリカを通って地中海岸に出、モロッコまでとする。
2 三年後の、昭和四十三年の春に出発。一年後、モロッコに着く。
3 全コースをオートバイで走破する。
4 資金はすべて自分たちでまかなう。大学入試を終えたらすぐにバイトを開始、体を鍛えなくてはならないので、朝は新聞か牛乳の配達をする。
こういう基本線が出た。喫茶店の名前をとって、“カトレアの誓い”などとかっこのいい名前をつけ、「アフリカ目指して頑張ろう」ということになった。
アフリカに関しての本をかたっぱしから読み始め、資料をあさり、気候、道路状況、政治、経済、歴史、文化、地勢などを調べだすと、もうじっとしていることはできない。しかしまわりの人たちは、「なに寝言いってるんだ」といった顔つき。両親に話しても、「ばか言いなさい」で、相手にしてはくれなかった。
横浜港で荷役のバイト
月日の流れが、とても早かったように思う。ぼくたちは入試を迎えた。試験が終るやいなや、うちには「ちょっと旅行にいってくるから」と言って、汚い洋服に長靴のいでたちで、Yと横浜にむかった。いよいよぼくたちの資金作りが始まるのだ。一泊一二〇円の二畳の部屋でごろ寝し、港で荷役のバイトをする。生まれて初めて、自分で働いて自分で得たおかね。ちょっぴり感激した。
五〇円のラーメンや三〇円のうどんで空腹をしのぎ、必死に働く。ラワン材の積み込みの最中には、ワイヤーが切れて大惨事寸前の目にあったり、マニラ麻をころがしているときには、ころんでその下敷きになったり、化学薬品の容器を運んでいるときには、毒のため手が真白になったり……。怒鳴ることが趣味のような監督のIさんだったが、根はいい人で、よくぼくたちに残った折詰の弁当をくれた。昼と夜の仕事をぶっつづけでやったこともある。そのときは、さすがにYもぼくもグロッキーだった。
ドヤでの毎日は、ぼくたちに強烈な印象を与えた。はじめて見る全く異質な社会、しかし、その中に、不思議なやすらぎがあるのを、ぼくたちは感じていた。隣の部屋のおっちゃんは「飲みな」と言って一升びんを持ってきた。ソバ屋のおネエちゃんはとてもきれい。Yと「ラブレターでも書こうか」なんて言ったこともある。沖合に停泊している船での一日の仕事が終り、汐風に吹かれながらランチで港に戻ってくるときの気分、なんともいえない、そんなドヤでの毎日の生活であった。
ぼくたちは一銭も使わないで家に帰ろうと決め、大桟橋から歩き始める。多摩丘陵では雑木林の中で道に迷ってしまい、かなり時間をくった。横浜線の中山駅に着いたときは、もう日が暮れていた。いやなことに、雨が降りだし、霧が深くなる。霧ですっぽりと包まれた線路上を雨に濡れながら、「うん、こりゃいい、すごく神秘的だ」なんて強がりをいいながら歩きつづけた。真夜中に多摩川を越えた。雨は一段と激しくなる。寒い。
ぼくたちは夜通し寝ないで歩いた。疲れがひどい。雨はいっこうにやむ気配がなく、ずぶ濡れ。泣きつらに蜂で靴ずれがひどく、あまりの痛さに長靴を脱ぎ、裸足でとぼとぼ歩いた。夜が明けると雨はやんだ。調布、吉祥寺と通って、横浜の大桟橋から二十七時間、ぼくたちは大泉に着いた。次の日からぼくはひどい高熱に見舞われる。うんうんうなっているとYがやってくる。
「おー、カソリ、大丈夫か」
Yは全くタフなやつだ。