賀曽利隆 STILL ON THE ROAD !

世界を駆けるバイクライダー・賀曽利隆(かそりたかし)。地球をくまなく走り続けるカソリの”旅の軌跡”をまとめていきます。

韓国食べ歩き:第19回

 (『あるくみるきく』1987年1月号 所収)

1971年の韓国

 2度目の韓国は1971年7月で、関釜フェリーで下関から釜山(プサン)に渡った。 釜山からは列車を乗り継ぎ、慶州(キョンジュ)→テーグ→大田(テージョン)→堤川(チェチョン)→江陵(カンヌン)とまわり、江陵からはバスで束草(ソクチョ)→春川(チュンチョン)とまわり、最後にソウルに行った。

 慶州では新羅時代の遺跡群を体力にまかせて歩きまわった。

 テーグでは「私は日本語を勉強している学生です」といって近寄ってきた青年と親しくなった。町を案内してもらっているうちに、「いいレートで両替してあげるから」といわれ、虎の子のドルを何10ドルも持ち逃げされた。

 大田では、駅前でぽん引きのおばちゃんにつかまった。

「いい娘を紹介するから」

 と、うす汚れた家に連れていかれた。そこで引き合わされたのは「掃き溜めの鶴」を思わせるような絶世の美女。信じられなかったが、おばちゃんの言葉に偽りはなかった。

 堤川に向かう列車の中では、私を日本人とみてとったのだろう、つかつかっとやってきた40過ぎの男にやにわに胸ぐらをつかまれた。

「お前は日本人だろ」

 そういうと、そのあとは日本の朝鮮半島統治時代がいかにひどかったかをこれでもか、これでもかといった感じで日本語でまくしたてた。私はただただ、それを聞いているしかなかった。

 江陵からは日本海の海岸地帯を北上した。警備は厳重を極め、ピリピリした緊張感が漂っていた。一触即発の空気を感じた。砂浜には何重ものバリケードが張りめぐらされ、トーチカが点々とあった。38度線を越えると、警備はなおいっそう厳重になり、南北に分断された分断国家の最前線を見る思いがした。

 束草では雪岳山に登った。山頂からは金剛山の山並みと北朝鮮の高城(コーソン)を遠望した。

 この時代、韓国の食料事情はきわめて悪いものだった。

 食堂に入っても、水曜日と土曜日は米飯は一切、食べられなかった。米飯の替わりに出てきたのはぽろぽろの麦飯だった。