韓国食べ歩き:第18回
(『あるくみるきく』1987年1月号 所収)
初めて見る異国の風景
私が初めて朝鮮半島の土を踏んだのは、1968年4月。「アフリカ一周」(1968年~1969年)のときだ。
横浜港からアフリカ南部のモザンビークに船で渡ったのだが、その船というのは喜望峰を経由して南米に行くオランダ船の「ルイス号」。日本から出た最後の移民船。名古屋、神戸と寄港し、日本を離れた最初の寄港地が釜山(プサン)だった。
生まれて初めて見る異国の風景は寒々としたもので、神戸では春風が吹いていたのに、釜山では船の甲板を吹き抜けていく風は冷たく、冬そのものだった。
港をとりまく赤茶けた山肌には、マッチ箱のような家々がびっしり建ち並んでいた。朝鮮戦争の余燼がまだくすぶっているかのような風景だ。
釜山港の岸壁に接岸すると、「ルイス号」を降り、町に出た。港のゲートを一歩、出ると、闇の両替屋が群がってきた。
「マネーチェンジ!」
と声をかけてくる。
「時計を売ってくれないか」
「ラジオを売ってくれないか」
と今度は別な男たちが声をかけてくる。
よくこれで動くものだと感心するようなオンボロのタクシーがガタンピシャンと車体を揺らし、「ピーピー」と、けたたましく警笛を鳴らしながら走っている。
当時の日本では「神風タクシー」と呼ばれたほど、タクシーの運転は荒っぽかったが、釜山のタクシーはその比ではなかった。
韓国人の移民たち
釜山の町を歩きまわり「ルイス号」に戻ると、韓国人移民たちが乗船を開始していた。 約80人ほどで、移民先はパラグアイだという。釜山港の岸壁には、大勢の人たちが見送りに来ていた。出港の時間が近づくと、五色のテープが乱れ飛ぶ。だが、華やいだ色彩とはうらはらに、重苦しい空気が港全体を覆っていた。
体の芯にグサッと突き刺ささってくるような泣き声が、甲板のあちらこちらから聞こえてくる。ぼくのすぐそばにいた男の人は、流れ落ちる涙をぬぐおうともしないで、何か、懸命になって岸壁に向かって叫んでいる。若い女性はガックリと床に崩れ落ち、まるで気がふれたかのように両手で甲板をたたきつづけている。見ていても辛くなるような光景ばかりだ。日本語を上手に話す年配の人は、目に涙をいっぱい浮かべ、いった。
「私はもう二度と祖国を見ることも、祖国の土を踏むこともないでしょう」
銅鑼が鳴り響き、汽笛が鳴った。
いったんは出航しかかった「ルイス号」だが、突然、その気配をなくした。
制服の警官や船員たちがあわただしく船内を走りまわる。見送りの老婆がどこか、船内に隠れてしまったのだ。肉親との生き別れに耐えかねてのことなのだろう。なんとも哀れな出来事だった。
1時間ほどすると、今度はほんとうの出航だ。錨が上げられる。船と岸壁をつなぐ太いロープが外され、ルイス号は釜山港を離れていく。
天気は回復し、朝鮮海峡はすっかりと晴れ渡っていた。
私はいてもたってもいられないような気分になった。階段を何段もかけおりて船室に戻り、1升びんの日本酒を手に持ち、甲板に引き返す。そして水平線を赤々と染める夕日を見ながら飲んだ。さきほどの韓国人移民の「二度と祖国を見ることも、祖国の土を踏むこともないでしょう」という言葉が、耳にこびりついて離れない。
それが私にとって、初めての韓国だった。