甲武国境の山村・西原に「食」を訪ねて(その32・最終回)
(『あるくみるきく』1986年10月号 所収)
西原通い!
話はやや広がりすぎた。
私は「山地食文化」というテーマで日本中の山村を歩いているが、そこではかつての主食の雑穀類が米に押しやられ、急速に姿を消していった。その中にあって、どうして西原にこれだけの雑穀栽培が残ったのか、いつも考えさせられた。なぜだろう…。
日本人のほとんどが米を作ろうと、大変な苦労の末に水田を開いてきた。その結果、亜熱帯の作物のイネを今では北海道・名寄盆地の亜寒帯に近い世界でまで栽培している。
それにもかかわらず、西原ではなぜ水田を開こうとはしなかったのか。
たしかに西原には平坦な耕地は少ない。その耕地自体も細分化されている。高地なので水が冷たいといった水田稲作には不利な条件下にはある。
しかし私にはそれだけではないように思える。
西原の人たちには、米を自給しようという意識が薄かったのではないか。もしそうだとすると、どうしてなのだろうか。そのことと雑穀栽培がしぶとく残り、雑穀食が今も生活の中にあることと、どのようなかかわりがあるのだろうか…。
私にはわからないことが山ほどある。もっと、もっと、知りたい!
「うーさーぎー おーいし
かーのーやーまー」
夕暮れの西原に、のどかなメロディーが流れ、近づいてくる。自由乗降区間になっている西原内を走る上野原行きのバスが、村人たちに知らせるために流しているのだ。
バスがやってきた。
私は手を上げてバスを止めた。
バスの人となって西原を離れる時、いつも後ろ髪を引かれるような思いにとらわれる。そのたびにいつも思うのだ。
「また来るぞ。西原に!」
(了)