賀曽利隆 STILL ON THE ROAD !

世界を駆けるバイクライダー・賀曽利隆(かそりたかし)。地球をくまなく走り続けるカソリの”旅の軌跡”をまとめていきます。

日本列島岬めぐり:第6回 黒崎(くろさき・宮城)

 (共同通信配信 1990年)

 旧北上川河口の石巻からコバルトラインで牡鹿半島に入り、半島最南端の岬、黒崎に向かった。

 牡鹿半島は北上山地の南の果て。地図で見ると、身をむしりとられて骨だけになった魚のような格好をしている。コバルトラインはそんな半島の稜線上を走っているので、リアス式海岸を見下ろす眺望抜群のスカイラインになっている。

 牡鹿半島南端の御番所山展望台まで来ると、手の届きそうな距離に、

「みちのく山に黄金花咲く」

 と万葉集にも詠われた黄金伝説の金華山が見える。「金華島」といわずに、「金華山」というところが、風景通りで実感がこもっている。

 仙台藩は慶安元年(1648年)、海岸線の要衝5ヵ所に「唐船番」を置き、幕府の鎖国政策に従って外国船の入港を厳しく見張った。そのひとつが御番所山なのである。

 この御番所山の下にある黒崎にたどり着くのは容易ではなかった。

 半島の南端一帯は牧場になっている。道の行き止まり地点からは生い茂る草をかきわけて歩き、ついに黒崎の灯台に出た。すでに日は暮れ、金華山周辺の海はまばゆいばかりの漁火で光り輝いていた。黒潮と親潮が激しくぶつかりあうこのあたりは、日本でも有数の好漁場になっている。

 黒崎を後にし、岬に近い鮎川の町へ。ここは、かつては捕鯨でおおいに栄えた港町。鯨博物館や鯨肉店が「鯨の町」鮎川を強く感じさせた。

「鯨屋」という店に入り、鯨の刺身を食べた。ミンク鯨の刺身だ。ショウガ醤油に白い脂身を浸し、それと一緒に赤身を食べるのだ。

 鮎川の捕鯨は昭和20年代の後半がピークで、年間6000頭が水揚げされた。浜には30軒以上の解体屋が並び、20隻以上もの捕鯨船が活躍していた。

 鯨料理に大満足し、夜の港を歩いた。すると船首に見張り塔と「タイホウ」と呼ぶモリを備えた捕鯨船が接岸していた。本物の捕鯨船を見て私の胸は高鳴った。