(15)「ヨーロッパ一周」(1969年)の「食堂の少女」
1969年4月8日、ジブラルタル海峡をわたってスペインのアルヘシラスに到着。そこから地中海に沿ってフランス、イタリアと走り、ユーゴスラビアに入った。
アドリア海からジナルアルプス山脈の峠に向かったが、春の遅いヨーロッパ、峠道を登るにつれてあたりは一面の銀世界になった。さらに登っていくと雪が降りはじめ、峠の頂上まであとわずかというところで、道は雪に埋まり、交通止めになってしまった。ぼくのバイク、スズキTC250の前に停まっている10台くらいのトラックが雪で動けなくなってしまったからだ。
厳しい寒さにいたたまれず、バイクを雪の中に置き去りにし、峠まで歩き、ストーブの火が赤々と燃える峠のレストランで夕食にした。懸命な除雪作業の結果、峠道が開通したのは夜中の12時過ぎになってからだった。
体の芯まで凍りつくような冷たい風が吹いていた。寒風をついて歩き、雪の中にスッポリと埋まってしまったバイクを引きずり出し、エンジンをかけ、峠までのわずかな距離を走った。だが路面がツルンツルンに凍結しているので、たてつづけに転倒した。やっとの思いで峠にたどり着くと、一晩、レストランの片すみで寝かせてもらった。
翌朝は目をさますと外は吹雪だった。ゴーゴーうなりをあげて吹きつけてくる雪をついて強引に峠を下っていった。アイスバーンの上に新雪が降り積もったので、かえって楽に走ることができた。
峠を下ると、雪は雨に変わった。雨具を着ていても、氷水のように冷たい雨水が、容赦なくしみこんでくる。野菜を積んだ馬車を何台も抜いたが、彼らもズブ濡れだ。寒くて、寒くて、もうどうしようもない。峠下の村に着くと食堂を探し、すぐさまそこに飛び込んだ。
だが、手がすっかりかじかんでいるので、ヘルメットをむぐことができない。震えながら立ちすくむぼくの姿を見て、「食堂の少女」が飛んできた。透き通るような白い肌をした女の子だった。彼女はヘルメットをぬがせてくれた。さらにブーツとソックスもぬがせてくれた。そしてまったく感覚のなくなってしまったぼくの手と足を一生懸命になってさすってくれたのだ。手足の感覚が戻るにつれてジンジンと猛烈な痛みにさいなまれたが、それとともに彼女の肌の暖かさも伝わってきた。
そのあと彼女は、ぼくを調理場に連れていってくれた。そこでカマドの火にあたらせてもらったのだ。体があたたまったところでコーヒーを飲み、サンドイッチを食べ、今度は体を内側からあたため、やっと生きた心地がするのだった。
彼女と握手をかわして食堂を出たが、愛くるしい目をした「食堂の少女」の面影はいつまでもぼくの目の底に残った。ユーゴスラビアから南下し、ギリシャに入ると、やっと寒さから解放されたのだった。