賀曽利隆 STILL ON THE ROAD !

世界を駆けるバイクライダー・賀曽利隆(かそりたかし)。地球をくまなく走り続けるカソリの”旅の軌跡”をまとめていきます。

シルクロード横断:第17回 トルファン(その2)

 2006年9月6日、この日は一日、トルファンに滞在。

 6時に起床し、トイレ、シャワーのあと町を歩く。7時になってもまだ、真っ暗だ。外は半そで1枚で十分。街角で明かりがついているのはナン屋で、すでにナンをつくりはじめている。イスラム教寺院のモスクからはコーランの響き。外にベッドを出して寝ている人が多い。

 7時半、ホテルのレストランでの朝食。そのころになって、やっと夜が明けた。

 午前中は「交河故城」と「カレーズ」に行く。

 まずはトルファンの西約10キロのところにある「交河故城」だ。城址は南北1・5キロ、東西は最も広いところで300メートル。東側と西側に川が流れ、深い谷をつくっている。2本の川は南門の下で合流するが、この河谷に囲まれた孤島のような地形から「交河城」と呼ばれるようになったという。軍艦のような形をした台地で、まさに天然の要害の地だ。ここに3万人もの人たちが住んでいたという。

 古くは漢代の車師王国の支配下にあり、シルクロードの要所トルファン盆地の政治の中心地になっていた。隋から唐代にかけては、高昌国の重要な軍事的拠点になった。唐は高昌国を滅ぼしたあと、ここに安西都護府を置き、西域支配の拠点にした。

 そんな交河城は高昌城とともに、モンゴル軍の侵攻によって破壊されてしまう。それでも交河故城は比較的、よく残されていて、寺院や仏塔の跡、役所の跡、一般市民の住居跡、井戸の跡、南北を走る長さ350メートル、幅3メートルの大道などが見られる。交河故城の端に立ち、パックリと口をあけた谷底を見下ろすと、足がすくむほどの深さ。谷間は緑に覆われ、トウモロコシや大豆などの畑になっている。

 次に「カレーズ」に行く。カレーズというのは灌漑用につくられた地下水道のこと。天山山脈の麓から何本もの竪穴を堀り、その底を横につないでいく。天山山脈の豊かな雪溶け水はこの地下水道を通ってトルファン盆地へと流れ、肥沃な農地をつくり出している。

 1本のカレーズは5、60キロから100キロ近い長さがあり、そんなカレーズがかつては1000本以上もあったという。今でもカレーズの全長は5000キロを超えるという。つくるのにも、それを維持するのも大変な労力を必要とするカレーズだが、水分の蒸発量のきわめて大きい乾燥地帯で考え出された水を得るための「砂漠の民」の智慧だ。

 カレーズはもともとはイランの砂漠地帯のもので、シルクロードを通してトルファン盆地に伝わったようだ。アフリカのサハラ砂漠にはまったく同じ構造の地下水道「フォガラ」がある。

 我々が見学したのは「カレーズ博物館」。実際に天山山脈からの雪溶け水が流れてくるカレーズを博物館にしたもの。水の流れに沿って歩いていくと、カレーズの仕組みがわかるようになっている。カレーズの大きな模型もある。

「カレーズ博物館」には土産物屋が並び、トルファンの名産品の干しぶどうを売る店もあった。そこでは何種かの干しぶどうをつまみ食いさせてもらったが、ブドウの凝縮された甘味は「これぞトルファン!」と思わせるような味だった。

 トルファン盆地では盛んにブドウが栽培されているが、その歴史は古く、高昌国時代の遺跡から発掘された絹にも、ブドウが色鮮やかに描かれているという。ブドウの原産地はコーカサス・カスピ海地域で、シルクロードを通して中国に伝わった。漢の武帝の時代に長騫が西域にもたらしたという。トルファン産のブドウ酒も有名だ。それは、

「葡萄の美酒夜光の杯 飲まんと欲して琵琶馬上に催す」

 と、唐代の詩にもうたわれ、長安の都人の宴を飾ったものだという。

 今、そんなトルファンにいる!

交河故城
交河故城

交河故城の端から見下ろす谷間の風景
交河故城の端から見下ろす谷間の風景

「カレーズ博物館」の売店
「カレーズ博物館」の売店

トルファンの干しぶどう
トルファンの干しぶどう