賀曽利隆 STILL ON THE ROAD !

世界を駆けるバイクライダー・賀曽利隆(かそりたかし)。地球をくまなく走り続けるカソリの”旅の軌跡”をまとめていきます。

『忘れられた日本人』再び:第3回

 (初出:「ゴーグル」2006年9月号)

観文研の共同研究と共同調査

 今年の1月30日、東京・西国分寺の東福寺で宮本常一先生の26回忌がおこなわれた。宮本先生が1981年1月30日に亡くなられてから25年間、1度も欠かさずにおこなわれている。宮本先生が所長をされていた日本観光文化研究所(通称・観文研)の所員だった山崎禅雄さんが島根県の谷住郷(江津市)から駆けつけ、東福寺の本堂で読経してくれる。これも毎年のことだ。

 山崎さんは山陰の曹洞宗の名刹、日笠寺の住職をしている。読経が終わると場所を変え、宮本先生の遺影の前で献杯し、飲みながら宮本先生の思い出話に花を咲かせるのだ。東福寺での集まりはビールにはじまり、日本酒、焼酎、泡盛…とさしつさされつで飲みつづけ、だいたい呂律がまわらなくなるころにお開きとなる。

 今でも、宮本常一先生の存在というのはこれほどまでに大きなものなのだが、先生が亡くなられた直後から、観文研では先生の学問的体系・思想の継承、発展を目指して「宮本常一研究」を開始した。その成果は観文研発行の『研究紀要』に発表された。1989年の観文研閉鎖までに全部で11巻の『研究紀要』が出たが、そのうち「宮本常一研究」は5巻を占め、第5巻目は先生の膨大な著作の目録になっている。これら5巻の『研究紀要』は、今ではほとんど手に入らない非常に貴重な宮本常一研究の資料になっている。

 宮本先生の死後、日本観光文化研究所では共同研究とともに共同調査も開始した。1983年4月には先生の故郷、周防大島の旧久賀町椋野(むくの)という地域を舞台にして、共同調査が行われた。宮本先生の後をついで所長になられた高松圭吉先生(故人)や事務局長の神崎宣武さん(現「旅の文化研究所」所長)、前出の山崎禅雄さん、そしてカソリらの所員が椋野に入った。宮本先生の故郷ということもあって、ぼくには「よ~し、宮本先生の教えをここで実践してやろう!」といったような強い意気込みがあった。

 周防大島の北側に位置する椋野は江戸期から明治初期までは椋野村として一村を成していた。国道437号沿いにあるが、ツーリングで周防大島にやってきても、まず立ち止まるようなところではない。100人が100人、まったく気にもとめずに走り過ぎてしまうようなところだ。そんな椋野にくらいついていろいろなことを見てやろう、いろいろな人たちの話を聞いてみようという高揚した気分だった。

 椋野には昭和29年(1954年)発行の『山口縣久賀町誌』を持っていった。この町誌は宮本先生が責任編集されたもの。久賀町の「地理的条件」、「歴史的展開」、「現在の久賀」、「人と伝承」の4編から成っている。

「瀬戸内海の地図をひらいてじっとみつめていると、一見不規則にばらまいたような島々のたたずまいにも、何らかの秩序がひそんでいるように思えてくるだろう。もう少し具体的にいうと、場所によって島々の疎密の状態がまるで違っているし、また島がたくさん寄り集まったところにしても、その並び方が勝手気ままではなくて、或る目に見えない何かの意志によって、作為的に並べられたような気配を感ずるのである。さらに詳しく見てみると、島々の一つ一つの形や、これらの島と島とを区切っている瀬戸(海峡)の形までから、こうした自然の意志を汲みとれるようにさえ思えてくることだろう」。

 このような宮本先生の書き出しで始まる久賀町誌をいつもそばに置き、何度も目を通しながら、椋野の全集落をひとつ残らず歩きまわったのだ。

周防大島の漁民の話

 椋野では何人もの人たちから話を聞かせてもらったが、その中でもとくに、漁民の話はおもしろいものだった。

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「椋野の漁家は全部で13軒。昔は18軒ありました。椋野の漁業というとタコ漁が中心で、タコツボを使ってのタコ漁です。期間は4月初旬から8月まで。7、8月が最盛期。獲るのはホンダコ。1本の綱に120個から150個ぐらいのタコツボをつけるけど、だいたい1軒の漁家でこの綱を10本から12本ぐらいは持っているね。タコツボは1個150円します。ふつうは250円。それを安くしてもらっている。末田(山口県防府市)のタコツボを使っている。獲ったタコは岩国と広島の市場に出している。タコの漁期の間は、ほとんどといっていいくらいにタコだけで、ほかの漁はまずできないね。

 タコ漁が終わると網漁になる。刺網です。9月、10月がアブラメ漁、正月から4月ごろまでもアブラメ漁がつづくのだけど、2月、3月はメバル漁が中心だね。コノシロやカレーも獲る。カレイは正月前が一番安くなってしまうので『師走ガレイに宿かすな』なんていってますよ。そのほかギザメとかチヌだね。

 1年を通して2月、3月が一番ひまです。反対に一番忙しくなるのは梅雨が明けてから盆が過ぎるころまで。漁を休む日といったら近所で不幸があったときとか、盆、正月、祭りの日ぐらいだね。釣漁は5、6年前までは2ハイの釣船があったのだけど、今はやってない。大島でも釣漁の盛んなところはありますが、椋野には釣漁は合わないようだ。

 かつての網漁というと終戦後の一時期、サヨリ網をやったことがある。10人から20人ぐらいでやるのだけど、分け前は平等だった。丈は3尺(約90センチ)、長さが200メートルから300メートルぐらいある網で、このサヨリ網ではずいぶんともうけさせてもらいましたよ。ゴチ網も終戦後の一時期、やったことがある。タイを獲る網。ローラーゴチといって機械で巻き上げる網もあった。それとイワシ網。地引網のことだな。

 私は高等科を出るとすぐに海に出るようになった。高等科の卒業というと15、6歳のころ。漁師としては3年くらいやって、はじめて一人前になったような気がした。船に動力をつけるようになったのは終戦後のこと。それ以前は船に帆を立てていた。

 私たち椋野の漁師は北風をすごくいやがります。北風のことは『キタ』といってます。南風が『マジ』、南西の風が『ヤマジ』、北西の風が『アナジ』、東風が『コチ』、西風が『ニシ』になる。『冬のアナジがニシになる』といえば、冬の北西の季節風から春の西風へと季節が変わったということです」(浜野重一さん 明治40年生まれ)

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「私はタコツボの綱は全部で12本持ってます。1本の綱に100個のタコツボをつけてます。漁の中心はタコ漁。タコの産卵期は9月初旬から中旬で、この期間、タコはまったく動かない。そのため漁は休み。今年から9月1日から10月20日までは、タコの休漁期間にしようと組合で決めました。この期間にタコツボを上げ、タコツボの掃除をします。それを『カキオトシ』といっている。タコは魚でもアナゴでも貝でも何でも食べます。

 タコツボは末田(山口県防府市)から買ってます。田中とか安田という専門の業者がいる。一級品のタコツボが1個240円、二級品が160円。1年間に500個から600個は使いますね。タコツボをつけるロープは1巻が10000円から15000円。タコツボの綱1本で5巻のロープが必要になる。

 風については『寒いキタ(北)風、冷たいアナジ(北西の季節風)、吹いてぬくいマジ(南)の風」なんていいますよ。また潮については『5日、20日は真昼がダタエ(満潮)、朔日(1日)、中道(15日)、4ツ巳刻(午前10時)がダタエ』っていってます。漁には今でも旧の暦(旧暦)を使っています。

 これも潮のことですが、『讃岐3合、興居島(松山沖)5合、お花の瀬戸(豊予海峡)で手いっぱい(満潮)』などいわれていますよ。これは漁師ではなくて、気帆船の船乗りたちがいったということで、同じ時刻の瀬戸内海でも場所によってはこれだけ潮が違うということです。漁を旧(旧暦)でやっているといったけど、そうすると1日、15日が大潮で、7日、13日が小潮になります。網代(漁場)によっては大潮がいい場合もあるし、小潮がいい場合もある。

 久賀(旧久賀町久賀)にはアナゴ漁専門の人がいますよ。タコ漁には餌はいらないけれど、アナゴ漁には餌が必要でイワシを使っています。マジメ(日が落ちるころ)にアナゴカゴを海に入れ、2時間ぐらいで引き上げます。椋野でも終戦後の2、3年はアナゴ漁をやる人がいたけれど、今では誰もやってません。そのほか久賀には10月1日から11月20日までワタリガニを専門に獲る人がいる。

 椋野の網代というとハダ、シモズ、ナカデ、タカマワシ、フジノウチ、ホンデト、イシノナカ、フカリ、オキノハナ、シオザカイ、ミナミノカマチ、ハシマミド、コンマ、スノウエ、トンネルぐらいですかね。よく獲れたときは、どこで獲れたのか、ほんとうの網代をいう漁師はまずいない。たいてい反対の場所をいいますね。

 タコツボの綱は浮きなしで海に落としていきます。ですから見た目には、どこにタコツボがあるのか、まったくわからない。それを毎日、拾い上げてタコを獲るわけです。タコツボの綱を拾い上げるのは『ヤマグイヤ』で場所を確かめ、サグリを入れて引き上げます。『ヤマグイヤ』というのは『山が喰いあう』といった意味でしょうか。直角を使ってヤマを立てます。なるべく近くのヤマ(目標物)と、それに直角になるような山との線を交差させたところにタコツボの綱があるというわけです。近くのヤマには岬をそれと直角になるようなヤマには島を使うことが多いね。ヤマの立て方というのは、今までの経験によるところが大きい。失敗してタコツボを引き上げられなかったことはない。コツとしてはなるべく近くのヤマを使うことです。

 タコツボの綱に浮きをつけないで海に落とすのは、このあたりは潮が速いので、浮きをつけていると綱ごともっていかれてしまうことがあるからです。それとこのあたりは航行する船舶がきわめて多いので、船にひっかけられてしまう危険性がきわめて高いという理由もある。網代の中でも岸に近いところだと、浮きをつけることもありますよ」(浜野慶一さん 明治44年生まれ)

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 タコ漁について詳しく話してくれた浜野さんは、「自分の目で見るのが一番」といって翌日のタコ漁に一緒に連れていってくれた。漁から戻ると、奥さんはタコ飯を炊いてくれた。獲れたてのタコを細かく刻んで混ぜ合わせた炊き込みご飯なのだが、タコの味とほのかな潮の香りがご飯にのり移っていて何ともいえない味のよさ。「海の幸」を感じさせてくれるものだった。

周防大島での奇跡の再会

「私は大正7年に椋野で生まれました。天浄寺が生家です。昭和6年に椋野の尋常小学校に入学。尋常小学校のあとは2年間、三蒲の高等小学校に通いました。椋野と三蒲の境の峠、サヤノカミを越えて学校まで1時間、毎日歩いて通いました。あの当時、尋常小学校から中学校や女学校に進学するのはほんとうに限られた家の長男や長女だけで、34、5人のクラスのうち4、5人でした。

 三蒲の高等小学校のあとは小松(旧大島町)の商船学校に入りました。私が小松の商船学校に入ったのは、船乗りになりたいという気持ち以上に、あのころよくいわれた『海外雄飛』への憧れがあったからです。船乗りになって、世界を駆けめぐりたいという思いが強かったですね。小松の商船学校は私が入った年に県立から国立になりました。設備は充実するし、学校の格は上がるし、学費は安いということでほんとうにありがたかった。学生は大島郡よりもよそからの人たちのほうがはるかに多かった。

 小松の商船学校の卒業は昭和19年。戦争が激しくなり、船員が足りなくなって、くり上げの卒業でした。三井船舶に入社したのですが、乗る船がなくて自宅待機。もしあのときに輸送船などに乗っていたら、おそらく生きては帰れなかったことでしょうね。一時期、内地まわりの船に乗ったこともあります。

 戦後は国家管理の船舶運営会社の船に乗りました。進駐軍の物資を運ぶ船。昭和22年から23年にかけては再教育を受けましたよ。戦時下でくり上げ卒業したものですから、国が希望者だけに再教育をほどこしたのです。その間は国から月給をもらいながらの勉強でした。三井船舶に復社したのは昭和26年。昭和39年には三井船舶は大阪商船と合併し、大阪商船三井船舶という新しい会社になったのです。昭和41年に船長になり、それ以来、三井OSKラインの貨物船の船長として世界の7つの海をめぐってきました」

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 このように話してくれた松岡睦男さんとは、周防大島での奇跡の再会となった。

 ぼくは1968年、20歳のときに日本を飛び出し、スズキTC250を走らせ、友人の前野幹夫君と1年がかりで東アフリカ経由でアフリカ大陸を縦断した。アフリカとヨーロッパを分けるジブラルタル海峡を目の前にするスペイン領セウタまで来たとき、ぼくは相棒の前野君に無理をいって彼と別れ、ヨーロッパで資金稼ぎのバイトをしたあと、ふたたびアフリカに戻り、今度は西アフリカ経由で大陸を南下した。大きな難関のコンゴとアンゴラの国境を突破し、アンゴラの首都ルアンダまでやってきた。ゴールの南アフリカのケープタウンが目前だった。

 ところがルアンダでは南アフリカのビザが取れなかった…。前に進むこともできず、かといって戻ることもできず、にっちもさっちもいかない状態に陥った。そんなときにルアンダ港に日本船が入港した。大阪商船三井船舶の「ぶえのすあいれす丸」。その船の船長が松岡睦男さんだった。

 日本人のみなさんに会いたくて、日本語を話したくて港まで行くと、松岡さんをはじめ乗組員のみなさんには大歓迎された。船内ではなんともおいしい日本食をご馳走になった。「ぶえのすあいれす丸」は3日間、ルアンダ港に停泊したが、その間は船内で泊めてもらい、松岡船長や乗り組み員のみなさんと一緒に食事した。夜はさんざん飲ませてもらった。松岡船長らと過ごした3日間というものは地獄で出会った極楽のようなもので、この上もなく楽しいものだった。

 そんな松岡さんと宮本先生の故郷の周防大島で再会したのだ。これはもう奇跡の再会としかいいようがない。そのときぼくの頭の中では宮本先生と松岡さんがしっかりと結びつき、心底、思ったものだ。

「(この奇跡の再会は)宮本先生のおかげだ!」

 宮本常一先生以降の日本観光文化研究所の共同調査は周防大島の「椋野」のほかに九州山地の「米良」、下北半島の「佐井」をフィールドにしておこなわれた。これら「椋野」「米良」「佐井」で過ごした共同調査の日々というものは宮本先生への想いとともに、今でもぼくの胸の奥底深くに色濃く残っている。